2017年4月22日 復活節第2主日

つい三日前には、弟子たち皆がユダヤ人を恐れ、自分たちの家の戸に鍵をかけていました。そんな仲間たちの雰囲気が急にかわり、「わたしたちは主を見た」と喜びながら自分に話すようになりました。そのような仲間をどのように理解すればよいでしょうか。

もしかして、トマスはイエス様が亡くなる前に三回もわたって、ご自分の受難と死そして復活の予告をしたので, まさか師が言われたそのことが本当に起きたのかと思ったかもしれません。しかし、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは、決して信じない」といったのです。

私は、トマスはあえて信じないと言った気がします。自分だけが排除された、いじめられた、見捨てられたという寂しさ、悔しさがあったのではないでしょうか。

さて、八日の後、イエス様は弟子たちがいる場所に再び現れて、真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と祝福をしてくださいました。このイエス様の出現は「トマス」のため、またイエス様の復活を見ることができない、体験することができないわたしたち、一人一人のためにイエス様が特別に表れたと思うことしか考えられません。なぜなら、イエス様は平和の祝福をしてから、すぐにトマスに話しかけられたからです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」

皆さん、わたしたちが信じているキリスト教という宗教は、「わたしは主を見た」ではなく、「わたしたちは主を見た」という「わたしたち」(キリスト教の共同体)基礎の上に建てられた信仰です。

はっきり、言わせていただきますと、ここにいるわたしたちの中で、イエス様の復活を目撃、体験した人は誰一人もいません。わたしたちの信仰はイエスの復活を体験したイエス様の弟子からキリスト教の共同体から伝え受けた信仰です。ですから、イエス様は今日の福音を通して、自ら「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。

結論的に言えば「決して信じない」と言ったトマスはイエス様に対して「わたしの主、わたしの神よ」とへ信じる者になりました。さらに、この信仰告白こそ、ヨハネによる福音書が書きしるされた目的であり、最終的にはわたしたち、一人一人が誓うべき、信仰告白です。

キリストの洗礼によって生まれかわり、救いの約束をいただいたわたしたちは日々の生活の中で、共同体の中で、復活され、わたしたちと共におられるイエス様に出会うことができます。そして、その中でイエス様はわたしたちを永遠の命に導いてくださいます。この大きな喜びを復活ロウソクの光が暗闇の中で輝いているように、わたしたちも日常生活中で広げていくことができますように。 アーメン。