2017年4月13日 聖木曜日

今日の福音の中でイエス様「すでに全身を洗ったものは、全身清いのだから足だけ洗えばよい。あなたがたは清いだから、皆が清いわけではない」(ヨハネ13, )と言われました。

お風呂に入り全身を洗ったあと、食事をするのに、わざわざ、再び手を洗ったり、足を洗ったり、する必要はありません。

今日のイエス様は弟子たちに、あなたがたはすでに全身清いのだからと言いながら、また弟子たちの足を洗おうとしておられます。そして、「たしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

さて、全身が清いという意味と足を洗うという意味は何でしょうか。この質問の答えを『聖霊の息吹を受けて』という故溝部司教様の本の一部を引用させていただきます。

 

さて、今日の第一朗読の中で「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる」という言葉が使われます。エジプトで、子羊の血を鴨居(かもい)に塗った家を天使たちが過ぎ越していきました。ここから、過越と呼ばれています。天使が過ぎ越して行った家のお供は殺されませんでした。過越して行ったということは、その人が救われたということを表しております

天使は鴨居にある「しるし」を見て過越して行きました。

現代の「しるし」というのは洗礼です。

洗礼を受けた私たちを天使は過越して行きます。水という「しるし」を受けましたので、

天使が過越して行ってわたしたちを約束の地に導きます。これが救いです。

 

第一の朗読で言っております。エジプトを出るとき、イスラエルの民はパンを食べます。

イエス様も過越の祭りにパンを()いて食べました。パンと羊の血、これが過越際の二つの「しるし」です。今私たちにはパンとそれから血と、この二つが与えられます。パンを食べ、血を飲む人はそれによって救われます。約束の地に導かれます。現代の「しるし」過越は、ミサの中で供えられるパンです。このパンをたべるたびごとに、わたしたちは何を思い出すのでしょう。「このパンをたべ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリンⅡ1126)

洗礼によって清められて、パンによって養われたわしたちは今救いの道を歩んでいます。

それでは、救いの道を歩むというのはどういうことでしょう。イエスは食事が終わって弟子たちの足を洗います。救いの道を歩むというのは、お互いに足を洗うことです。

パンを食べ、洗礼の水を受けた私たちは、救いの道を歩むためには、この隣の人の足を洗わなければなりません。自分の好きな人たちとだけ、自分の仲間とだけいる、こういう見方ではありません。

自分が正しいと思い込んで人を裁いていれば、まず自分自身を正さなければなりません。だれもこの教会の場所で人を裁いてはいけません。

イエスが私たちのために神から遣わされたこと、わたしたちのために死んだこと、これらを考えたら、わたしたちが何をしなければならないかという問題が提起されていることに気づくはずです。きょう、あした、明後日と三日間にわたって、光と(やみ)について考えるように促しています。神の恵みによって生きる自分の正しさ、こんなことを考える三日間にいたしましょう。