2017年4月16日 復活節第1主日

今日はペトロについてお話したいと思います。

「イエスは彼を見つめて、あなたはヨハネの子シモンであるがケファと呼ぶことになる」(ヨハネ142) ‘ケファ’という意味はアラム語で「岩」という意味です。(ペトロはラテン語、ギリシア語ではΠέτροςといいます)。聖書の中で、神様によって名前が変わった人は他にもアブラム(アブラハムへ)、サライ(サラへ)、ヤコブ(イスラエルへ)などがいます。

さて、シモンはペトロに改名されて、成熟した人間に変わったのでしょうか。私は、岩のようにたくましいイメージとは違うと思います。あえてペトロを岩のイメージとつなげれば、むしろグラグラするり岩ではないでしょうか。次の聖書の箇所を読んでみましょう。

 「湖の上を歩く」(マタイ14,2831)、「イエスの姿が変わる」(マル8,30329,56)、「最後の晩さん」(マル13,89)、ペトロの離反(りはん)・ペトロ、イエスを知らないと言う(マル14,293114,6672)などなど、ペトロの人間的な動揺、迷いは何度も聖書に描かれています。むしろ新約聖書で出ている弟子たちのミスのほとんどがペトロが引き起こしたかのようです。

 しかし、もしペトロが慎重で賢い、完璧な人であったら、どうであったでしょうか。もしそうであったならば、教会は罪びとの共同体ではなく、律法学者やファリサイ派の教会、罪を犯した人を裁く息が詰まるほど重苦しいファリサイ派の人々の集いになってしまったでしょう。

 イエスは失敗だらけで、不足だらけの人間、さらに裏切りものであったペトロを「岩」として立たせ、彼を教会の礎として成らせました。ですのでキリスト教会はできた時から貧しく謙遜なのです。そして失敗した、挫折した人の励ましの場であり、そういった人日の教会になろうと追求すべきなのです。

 イエス様がシモン・ペトロを見つめていたという故事は、その人の心の奥まで見つめたということを意味しているのです。人は他人の短所を見やすいが、イエスはペトロの内的可能性・潜在する指導者としての可能性を見つめたのだと思います。同じようにイエスがわたしたち、一人ひとりを見つめる時、否定的、短所ばかり見るのではなく、ペトロのようにわたしたちの内面の奥にある可能性を見るです。だからわたしたちもイエス様に見習って、そのように他人や自分を見るように努力・練習する必要があります

 ペトロは、イエスを知らないと裏切りました。聖書によれば、鶏が泣く前、ペトロは三度、イエス様を裏切ったのです。シモン・ペトロは火にあたっていた。「お前もあの男の弟子のひとりではないのか」と言われると、ペトロは打ち消して、「違う」と言った(ヨハネ1825)その時に鶏が鳴いた。ヨハネ181525では下役にたちは、寒かったので、炭火をおこし、そこにたって火にあたっていた。ペトロもかれらと一緒にたって、火にあたっていた(ヨハネ1818)

 ぺトロが教会の柱として、イエス様のふところに戻ってきた一番大きな理由は、復活の体験、何度も許された許しの体験があります。家族に対して失敗する、しかし許されて、励まされて、信頼関係が芽生える、といったことです。そして、自分が見捨てられていない存在であることが分かったのです。そう、頭で「わかる」というよりも、体と心の全体で非常に強く感じられたのです。