日, 11/22/2009 - 00:00

今日は教会暦上では今年最後の日曜日です。私たちは王であるキリストをお祝いします。イエスは私たちの心の王であることを望んでおられます。
古代の人々は偶像を拝んでいました。古代の青銅の神々の代わりに、現代人は新しい偶像を作り出しています。お金、モノ、名声、快楽、権力、企業、スポーツや趣味でさえそうであります。何か、あるいは誰かを崇拝するため、人々は自分の心や生活の中で偶像を作るのです。さて、私たちの心の中心には何があるのでしょうか?
幾つかの国では独裁者が自分自身を偶像化し、自分の銅像や写真を国中に置いたり掲げたりしています。たとえば旧ソ連時代のスターリンやイラクのサダム・フセイン、北朝鮮の金日成主席などがそれです。彼ら独裁者たちは王のようにふるまい、強大な軍隊をもって抑圧、テロ、恐怖により統治をするのです。
それとは全く異なる種類の像がこの横浜市、中華街の朝陽門の近くにあります。この像は150年前、明治時代の横浜で(そして日本で)、開国後初めて建てられた教会(後に現在の山手教会に移転)の跡に立っているイエス・キリストの像です。(私たちは像を拝むことはありません。像は、それが表す本人を思い起こすために使われるのです。)
イエスの左手は胸の上に置かれ、右手は外へ差し出されています。イエスは私たち一人一人を愛してくださいます。イエスと共に生きるは私たちを救うために手を差し伸べてくださいます。イエスは平和の王なのです。イエスは私たちと共に人間として生きるために人間となられた真実の神であり、私たち人間はイエスと共に生きるのです。総督ピラトはイエスに「お前は王なのか?」と問いました。イエスは「そうですが、この世の王ではありません。」と答えています。言い換えれば、イエスは私たちの心の王となることを望んでいらっしゃいます。イエスは神であるイエスが私たちの暮らしの中心となるように招いていらっしゃいます。しかしイエスは力で従うように強制はしません。イエスは、ただ優しく彼についてくるように招いているだけです。イエスは彼を信じ、全人生を彼の御手にゆだねるように求めていらっしゃいます。イエスの愛を味わい、その温かい愛を隣人と分かち合おうと、私たちを招いていらっしゃるのです。そして、心の平安をその報いとしてくださるのです。

日, 11/15/2009 - 00:00

今日から「聖書週間」が始まります。日本では同時に七五三のお祝いですので、今日はマルコ10章13−16節、詩篇16章を読みましょう。
祈りの心をもって聖書を読むのに邪魔になるのは、次のようなものがあります。
(1)「この話は前にも読んだから、知っているよ。」
そうは言っても、もう一度(何回も)読んでみましょう。聖霊があなたに新しい洞察をもたらすでしょう。
(2)「聖書は難しすぎてわからないや。」
そのとおり難しい部分もありますが、まず簡単な部分から読んでみましょう。
(3)「聖書は2千年以上も前のもので、遠く昔の話みたいだ。」
聖書は神ご自身から私たちへのメッセージですので、今日も生きているものです。たとえば今日の福音(マルコ10:13−16)で、イエスは一日中説教をしていました。夕方イエスが宿に入ると、母親たちが小さな子供達を連れて祝福をしてもらいにきました。弟子たちはイエスは疲れているので帰るようにと母親達に言いました。「あなたがたは、迷惑なんです。」と母親たちに言ったのです。それを聞いたイエスは怒りました。そう、怒ったのです!母親たちのために、そして弟子たちのあまりの思慮のなさに、怒ったのです。疲れてはいましたが、イエスは子供たちを抱きしめ、子供たち(そして母親たち)一人一人に祝福を与えました。この情景は2,000年前の出来事ですが、神が人間の姿をとったイエスは
現在の私たち一人ひとりに対しても全く同じように接してくれます。神は優しく、近づきやすく、あるがままの私たちを受け入れてくださいます。聖書と聖書に描かれているイエスは永遠の現在形です。それらは決して時代遅れにはなりません。
これと同じ章で、イエスは大人たちに子供の心を持つように説き、さもなくば神の王国に入ることはできないと言っています。これは、決して「幼稚になれ」と言っているのではありません。小さな子供は皆、自分の親を信じ、頼っています。神は、おとうちゃん、父親です。私たちは、たとえ90歳代になっても、彼の子供です。おとうちゃんは、私たちの面倒を見るという、厳粛な誓い(契約)を立てていらっしゃいます。私たちは神の約束を信じているでしょうか? 私たちは自分のおとうちゃんである神を信じているでしょうか? 私たちは、信頼して、自分の人生すべてを御父の御手にゆだねているでしょうか?
「私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。 」(詩編16:8)
これをゆっくりと祈ってみましょう。そして神の私たちへの愛を味わってみましょう。

日, 11/08/2009 - 00:00

カトリック教会はミサにおいて「奉献」という言葉を使います。列王記17章10-16節や今日の福音に出てくる寡婦は奉献の心を持っている人のお手本です。奉献とは心の持ちようなのです。

では福音を見てみましょう。神殿でお金持ちがたくさんのお金を献金しています。お金はトランペットの形をした賽銭箱の中を大きな音をたてて落ちて行くので、献金した人は大いに注目されます。お金持ち達は、多額の献金をしている自分たちを見せつけ、どれほど敬虔であるかと思わせたかったのです。いくら気前よくたくさんの寄進をしても、ここには「奉献」の心は全くありません。ただ、うわべだけの見せかけにすぎません。寄進は、心に触れていないのです。

貧乏なやもめは持っていた最後の2枚のレプトン銅貨を献金しました。彼女は、一枚は神へ捧げ、一枚は自分のために残しておく、といったことはしませんでした。すべてを献金したのです。このやもめは「奉献」の意味を知っていたのです。2枚のレプトン銅貨は、彼女のすべてを表す象徴です。

福音にでてくるこのやもめの話はイエスの教えの手本です。
「心の貧しいものは幸いである」と説かれていますが、このような形で貧乏であることは、神が私たちの面倒をみてくれるという約束に、全面的に頼るということです。これは自分自身すべてを神の御手にゆだねる、ということを意味します。端的にいえば、神を信頼する、ということです。

もし、この「奉献」の心をもって毎週日曜日のミサに集うならば、ミサは深い意味を持つことになります。日曜のミサでは、私たちはその日の祈りを捧げますが、それだけではなく、月曜日から土曜日までの日常の仕事や暮らし全てを捧げます。私たちは神に、学業や遊び、家事、職場での仕事を捧げます。リタイアした人であれば、リタイア後の暮らしを、病気や苦しんでいる人は、それを神に捧げるのです。イエスが私たちをいざなう生きる道は、ただ日曜日のためのものではなく、私たちの毎日の生活のためのものです。もし私たちがこの「奉献」の心があれば、日曜日だけでなく私たちの毎日の生活が喜びに満ちた味わい深いものになるでしょう。

このように自分自身を捧げるためには私たちは神を信頼しなければなりません。神は私たちを守ると厳粛に誓っているのです。「私は常にあなたと共にいる。私はあなたを守る。」とイエスは言っています。 神を信頼して祈りましょう。「愛する父、神よ、あなたの子供として私は自分の人生全てをあなたの御手にゆだねます。」  奉献の意味は自らを解放することです。

日, 11/01/2009 - 00:00

今日は、幸福に至る八つの道しるべについて考えましょう。 (これは、「真福八端」と呼ばれます) これは有名な「山上の垂訓」です。 イエスが私たちに教える生き方と価値観は、世俗の価値観と考え方と矛盾しています! しかし、もしイエスの道を歩むなら、私たちは真に幸せになれるのです。

1) 「心の貧しい人々は、幸いである。」
貧しいことで、私たちの父である神が私たちを常に気にかけてくれます。ですから、物質的なものではなく、神を信頼しましょう。このような信頼こそが、私たちに本当の、揺るぎのない心の幸福を与えるのです。

2) 「悲しむ人々は、幸いである。」
悲しむ人や何かに苦しんでいる人に私たちが心を開けば、私たち自身が神からの慰めを味わうことができるようになります。

3)「柔和な人々は、幸いである。」
お金儲けや出世のために、世間の人は力を使います。イエスは言います。「人に親切に、思慮深く、柔和でありなさい。そうであれば、神はあなたに報いをくださいます。」

4)「義に飢え渇く人々は、幸いである。」
群衆の一員となって「みんなやっていることじゃないですか!」と言うのはあまりにも簡単です。しかしイエスは「心を奮って、キリスト教徒としての信義のために立ち上がりなさい。」と私たちを促します。その信義のみが、私たちの心を満足させるのです。」

5)「憐れみ深い人々は、幸いである。」
権力、競争に勝つこと、成功、名声−これらが世間では価値があるとされています。イエスは、別のことを言っています。「苦しむ人への同情、寛容、他の人の人間的弱さを受け入れること。」 このような人々に対し、神は喜んで許し、優しく接するのです。

6)「心の清い人々は、幸いである。」(これは分かつことのない、100%神の愛を言っています。)
現代は宗教を信じ、祈り、イエスに従うには忙しすぎます。時には私たちでさえも祈る時間がないほどです! しかし、祈りを通して神と出会うことは、日常を生きる私たちの助けとなるのです。

)「平和を実現する人々は、幸いである。」
あまりにも多くの人々が、その集団の中で、あるいは他の集団と、争っています。、「世界平和のために、たった一人で私に何が出来るでしょう?」と人は言います。しかし、イエスは「もし一人の人が平和のために働くのなら、それは全世界に及び、その人自身も心の平和を得る」と言っているのです。

8)「義のために迫害される人々は、幸いである。」
イエスの道を歩む人はしばしば差別に直面したり、変わった人、ちょっと変な人と扱われることもあります。イエスは「恐れるな、私はあなたとともに居る。あなたは天の国で報いを受けるだろう」と言っているのです。

もしあなたが心の奥底から、本当の幸せを希求しているのならば、祈りの心をもって、イエスが与えてくれたこの八つの道しるべを考えてみましょう。 幸せになりたいですか? これをやってみましょう!

日, 10/25/2009 - 00:00

つい最近私は入院中のご高齢の信者の女性を訪ねました。病者の秘蹟を授けたのですが、彼女の意識は朦朧としていて、目は閉じられていました。耳元で私は「主よ、憐れみ給え」と唱えました。するとどうでしょう、彼女も「主よ、憐れみ給え」と返事をしたのです。

私たちはこの短い祈りを毎回ごミサの時に3回唱えます。
これは本当に、とても重要な祈りです。短く、簡単な祈りでもあります。この祈りは聖書の背景を持つもので、今日の朗読箇所から来ています。この生き生きとした聖書の箇所(マルコ10:46−52)をゆっくり読んでみましょう。わかりやすい話ですので、心にしっかりと受け止めて、先ほどの女性と同じようにあなたも折に触れ祈っていただきたいと思います。

埃まみれの道端にいる哀れな盲人の乞食を思い浮かべてください。彼は通行人に物乞いをしているのです。すると遠くから物音が聞こえてくるので、近くの人に尋ねます。「あの騒ぎは何?」 イエスが街にやってきたのです。彼は「イエス」という名前を聞いただけで叫びます。「主イエスよ私を憐れんでください。」 迷惑なので人々は彼を黙らせようとしましたがますます大きな声で叫びます。「主イエスよ、私を憐れんでください。」 敏感な耳を持っていたイエスは彼の叫び声を聞き、彼のもとへやってきました。「わたしに何をして欲しいのか?」「主よ、目が見えるようになりたいのです。」 彼は癒され、イエスに付き従っていきました。

私たちも主イエスに叫びましょう。イエスは今も敏感な耳をお持ちです。イエスは同情の心に満ち、私たちと苦しみをともにしてくださいます。イエスの特別な点は慈しみの心を持っておられる、ということです。イエスは人間のはかなさを経験されたので、非常に優しく、私たち人間の弱さを理解し受け入れてくださいます。イエスは2000年前にエリコのバルテマイに手を差し伸べられたように、今日の私たちにも手を差し伸べてくださいます。聖書とは永遠の現在形で書かれたものなのです。あなたも私も、バルテマイなのです。

私は、お経のような短いこの祈りが好きで大事にしています。聖書の背景があることで、この祈りは特別な味わいがあると思います。折に触れ、この祈りを使ってみましょう。「主よ、私は見えるようになりたいのです。」(心の目を開き、あなたを見、あなたの人たち、特に苦しんでいる人たちを見ることができるようにしてください。) 「主よ、憐れみ給え」

日, 10/18/2009 - 00:00

今日は、特に第二朗読(ヘブライ人への手紙4:14−16)について考えてみましょう。

イエスは神でありながら真の人間の形をとる大祭司と呼ばれています。それゆえイエスは神の御前で私達の為に祈ってくださる私達の代表なのです。この大祭司という神聖な肩書きでイエスをとらえると、遠い存在で、人間のことなどあまり気に掛けないような気がするかもしれませんが、そんなことは決してありません! それどころか全く正反対であると今日の聖書朗読は言っています。イエスはご自身が人間となってその弱さを経験したので、私達人間の弱さがすべてわかるのです。

イエスは荒れ野で激しく誘惑され、友達の忘恩と裏切りに傷つき、ゲッセマネにおいて死の恐怖におののき、心の空しさを感じる等数々の苦しみを経験されました。癌にかかった人は癌患者を理解します。同じようにイエスは私達を理解する神であり、私達が苦しい時に、深く同情してくださいます。私達一人ひとりへのイエスからの生きている言葉には、深い意味があります。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」 私達は決して一人ぼっちではないのです。ですから、「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」〔ヘブライ人への手紙 4:16)

「自信を持ちましょう(エルサレム聖書)」「勇敢にいきましょう(現代英語訳)」「勇気を持って向かいましょう(良き知らせ聖書)」「自信を持って(改訂標準訳聖書)」などの表現が(英語版の)聖書にあります。日本語では「大胆に」という、言葉が適切です。ちょっと考えてみましょう。神への祈りが時として礼儀正しすぎませんか? 私達は十分に大胆・勇敢でしょうか? 印刷された祈りの文句を唱えるばかりになっていませんか? 私達のありのままの心を、わかってくださるイエスにそのまま投げ出す勇気が必要なのかもしれません。イエスは偽りで着飾った心はいりません。ありのままの私達を望んでおられるのです。怒り、許しがたい恨み、情欲、痛み、問題、苦しみなどをがあれば、あえて、それらをイエスの前にぶつけてみましょう。アブラハムは「厚かましくも私は我が主に申し上げます」(創世記18:27)と言っています。

詩編の10、13、22、44、142、59番はは「怒りの詩編」ともいわれています。これらは礼儀正しくはなく、神を愛情深い友として扱い、神に不平を言っています。時に私達の祈りは礼儀正しすぎるのかもしれません。私達人間のはかなさをを理解する神にあなたの心をぶちまげてしまいましょう。イエスは人間のはかなさを経験したのです。イエスはあるがままのあなたと出会いたいと望んでいるのです。

日, 10/11/2009 - 00:00

今日の第二朗読(ヘブライ人への手紙4・12-13)は、「神の言葉(つまり聖書の言葉)は生きており、力を発揮します。」と言っています。 聖書は、その背後に力を持っていますので、聖書にある神の言葉は私達の心に直に触れることができます。 同じく「(神の言葉は)心の思いや考えを見分けることができます。」と書かれているのは、聖書を祈りの心をもって読めば、私達は自分自身そのものに出会うことができる、ということです。 そして、私達は神の助けが必要であると実感し、自分だけのやり方で神様と出会うこともできるようになるのです。

福音書の中で、2,000年前と同じ優しさと愛に満ちた態度で私達に接してくださるイエスに会うことができます。 イエスは真の知恵を私達に与えてくださいます。

真の知恵とは何でしょうか? それはこの世の私達の人生とは一体何なのであるかということを示す神からの贈り物です。 神を知り愛し、その道をできる限り追うことで、私達は心を平安を得ることができます。 この平安は物質、富、名声、そして健康よりもなおはるかに尊いものです。

今、私が使っている聖書は1968年に入院していた時に看護婦からいただいたものです。 私はそれをとても大切にしています。 私にとって大事な章節は黄色のマーカーで線を引いています。 余白には書き込みがあります。 幸せな時には聖書はそれが神からの贈り物だということを示してくれ、私は神に感謝します。 暗く、寂しく、病気の時には、聖書を通じた神の言葉は希望、勇気、助けを与えてくれました。 聖書は私の日常の暮らしに意味を与えてくれます。 神は私の支えであり力なのです。

あなたが聖書を開き、ゆっくりと祈りの心をもって読むならば、あなたの人生は変わります。 神ご自身がそれを保証しているのです!

次のようにやってみましょう。
(1)リラックスして心を落ち着かせてください。
(2)聖書を開き、エマオに向かう二人に深い意味を語ったように、私にも語ってくださいと願いましょう。
(3)聖書を非常にゆっくりと読みましょう。 あなたの心に響く箇所があればそこでとまり、沈思黙考、その箇所をゆっくりと反芻いたしましょう。
一日に少なくとも5分、このように聖書によって祈るならば、あなたの人生は変わるでしょう。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロの手紙 一 5:7)

日, 10/04/2009 - 00:00

イエスの時代には夫が妻を離縁するのは極めて簡単でした。もし妻の料理が下手であったり、姑に反抗したりしたならば、それだけで離縁されかねなかったのです。まさに男社会の時代だったのです。これゆえ妻というものは、離縁のリスクにさらされていて、後ろ盾としては不安定なものでした。今日の朗読箇所の創世記と、福音に出てきたイエスの教えの深い意味は次のようなものです。男と女、夫と妻は平等な人間同士であり、異なってはいても平等であるということです。異なっているのはお互い補い合うためであり、ひとつの家族として共に和合するためなのです。

保土ヶ谷教会では結婚式を次のように執り行っています。
開式の祈りで、神の賜物である平和を祈り、家庭生活をおくるための主の力をたのみます。そして聖書朗読となり、コリントの信徒への第一の手紙(13:4-13、愛は常に忍耐強く情け深い)が第一朗読で読まれます。続いて第二朗読はルカによる福音書(12:22-32 神はあなたを気にかけ、愛し、守ってくださります)です。その後新郎新婦は、互いに世話をし、愛し、そして守りあうと結婚の誓いをたてます。この誓いがたてられるとき、神ご自身が二人とともに今後一緒にいると約束してくださり、祝福をしてくださるのです。この後、参列者全員は二人のために祈りをささげます。
そこで神父は「神よ、あなたは私達の助け、私達の力」と祈りますが、この言葉はすべての人にとってとても大事なものです。この若い二人と私達全員は人生においてそれぞれの使命を持っています。私達は人間であるゆえ、生まれながらに不完全であり弱い存在です。神の助けと力が私達の使命(たとえそれがなんであれ)を完遂するのに必要です。イエスは、「わたし無くして(言いかえれば、わたしの助けなく)、あなたは何もできない(ヨハネ15:5)」と言っています。また聖パウロはフィリピ人への手紙の中で、「私に力を与えてくれる神に包まれて、私は何でもできるです」と言っています。
結婚式の最後の祈りの中で神父は「神よ、私達はあなたの助けと力を乞い願います。私達の祈りを聞き入れてください。」と祈ります。
人間であることのはかなさ、私達自身だけで物事を行うことができないことを悟り、神に助けを請いましょう。
神は喜んでその助けと力を授けてくださるのです。

 


日, 09/27/2009 - 00:00

今日、保土ヶ谷教会のミサでは、敬老の日を祝いました。
ヘルマン・ホイヴルス神父の"老いての祈り"をご紹介しましょう。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人の為に役立たずとも、
親切で柔和であること、
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことの故郷へ行くために。
おのれをこの世に、つなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。
「それは祈りだ」
手は何もできない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われ なんじを見捨てじ」と。

ヘルマン・ホイヴルス
「人生の秋に」より

日, 09/20/2009 - 00:00

イエス・キリストは普通の人間性をすべて持った神です。100%神でありながら、同時に100%人間でもあったのです。私達キリスト教徒は、この宗教の神秘を「托身」という神学用語で表します。

イエスは真に神であるとともに人間でもある、この"真"に、という言葉は重要です。私達の神イエスは私達同様の心と体を経験しました。私達の神が近づきやすい方なのは、まさにこのためです。人間であることを経験した方であるからこそ、人間のはかなさを理解する神なのです。イエスは心と体の痛みを経験なさったのです。

今日の福音では、(第一朗読の知恵の書で預言されているように)イエスが弟子たちに来たるべき彼の苦しみと死を伝えています。イエスは国の指導者達からの激しい敵意を深く感じ取っており、彼らに殺されることがわかっていました。イエスは彼ら指導者の偽りの権力基盤をゆるがしていたのです。

あなたは病院で手術を受けたことがありますか? 怖くはなかったですか? あるいは、あなたは友人の裏切りによって傷ついたことがありますか? 引越や転職で、不安な気持ちになったことはありませんか? 「死ぬこと」を怖く思ったりしませんか?(しばしば、私達は皆いつか死ぬという事実を考えないようにしようとします)。

あなたの悩みや恐れが何であれ、イエスのところに行きましょう。イエスは、とても、親しみやすい方です。ご自身で悩みや恐れを経験したので、私達の心を理解してくださいます。「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペトロ5:7)

今日の福音ではイエスが人間の弱さについていかに寛容であるか描かれています。十二使徒がお互いに誰が序列が上か争っている時に、イエスはとても優しく諭されています。また、子供を歓迎し抱きしめているイエスが描かれています。本能的にイエスが親しみやすい人だと分かった子供たちは、イエスのまわりに集まってきたのです。現代の私達の神、イエスも同じです。イエスのところへ行き、祈ることで私達の悩みを打ち明けましょう。

日, 09/13/2009 - 00:00

今日の福音の中でイエスはペトロに「人々は私のことを誰だと言っているか?」と尋ねています。これはイエスがペトロに他の人がイエスをどう言っているか聞いているのです。しかしイエスはその後ペテロ自身に「それではあなた自身は、私を何者だと言うのか?」と尋ねています。福音は永遠の現在形で書かれており、イエスは今も生きている声で私達一人ひとりに、「あなたは私を誰だと言いますか?」と尋ねているのです。言い換えれば、私達は自分一人ひとりにとって、イエスとはどのような意味を持つのか、問われているのです。

自分自身に向き合い、この問いに答えてみましょう! もしイエスのイメージがぼやけたものであれば、私達の祈りもぼやけた、ピントずれたものとなってしまいます。ですから、これは私達の信仰にとって極めて大事なことなのです。
この答えはイエスについて尋ねる他の人々を助けるためにも大切です。
人それぞれ、多様な答えがあるでしょうが、私のイエス像とは次のようなものです。イエスは人間としての弱さを経験されましたから、私の神は非常に優しく、理解があり、親しみやすい神です。話しかけやすい神です。イエスは人生の旅路を歩む上での力であり、助けです。私は決して一人ぼっちではありません。私は今日の第一朗読、イザヤの預言の「主なる神が助けてくださる」の一節が好きです。昨日(9月12日)、私は結婚式で若いカップルのために祈りました。「主よ、あなたは私の助け、私の力」、これは結婚生活(そして私にとってはカトリック神父としての生活)において大きな慰めであり励ましです。私にとって、イエスの最後の晩餐における言葉は特別なものです。「あなたは私の友である。」 この友とは、常に信じることができる人、私の全て(強さも弱さも)を知っている人であって、なおありのままの私を受け入れてくれる人です。
私は祈る時に、しばしば微笑するイエスの墨絵を用います。私にとって、その微笑みはイエスの私への態度、私をわかってくれる友達であり、私の助け、私の力をあらわしているのです。時として、私の祈りはただイエスに対して微笑み返すだけ、ということもあります。

私はイエスを私の神として知ることができた恩寵に真に感謝しています。

日, 09/06/2009 - 00:00

私の音楽鑑賞には2通りあります。ひとつは、尾尻雅弘のギターCDのような静かで穏やかなBGM音楽です。この様な音楽は勉強する時に気持ちを落ち着かせてくれます。
この時音楽は聞こえますが、意識して聴いてはいません。もう一つ、バッハやベートーベンのような音楽は、何かをしながらではなくただひたすら聴き入っています。
私達が聖書を読んだり聞いたりするのも、おそらくこれと同じではないでしょうか。しかし聖書は神ご自身の私達へのメッセージです。聖書を読むときには私達の心すべてを傾けましょう。今を生きる私達に神が語ってくださっているのです。聖書は大昔の歴史ではなく、永遠の現在形で書かれているものなのです。
確かな例として2,700年前、うちひしがれている人々に対して、神は「雄々しくあれ、恐れるな!(なぜなら私はあなたとともにいて、あなたを守るからです。)」と語り、今も生きている声で繰り返しているのです。
しかしこれらの励ましの言葉を何千回読んでも、私達自身に何も意味は無いかもしれません。私達が聖書を読むときには、まさにそれが神の言葉であるからこそ、その言葉
が私達の心の中でしっかりと響かせるには、神の助けと光が必要なのです。
これが、今日読まれた聖書朗読の箇所で重要なポイントです。素直に私達の心の耳は聞こえていないと認めましょう。そして今日イエスに、彼が実際に用いた言葉「エッファッタ(開け!)」と私に向かって言ってください、と祈りましょう。
今週、私は皆さんに次のことを実行していただきたいと思います。携帯電話は置いてテレビも、パソコンも全部切って、まず足をリラックスさせましょう。そして、両手、肩、アゴ、と力を抜いていきましょう。そしてイエスに心の耳を開いてください、と祈るのです。そして聖書を開き、あなたが選んだ聖書の一節をとてもゆっくり、読んでみましょう。
たとえばこんな一節はどうでしょう。
「恐れるな。私はあなたとともにいる。」 あるいは、
「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者は皆、私のところに来なさい。休ませてあげよう。」
毎日5分間、このように祈れば、あなたの日常は新しい味わいと新しい活力に満ちたものとなるでしょう。

日, 08/16/2009 - 00:00

全てのカトリック教会は、天の神様のみ前で私達のために祈ってくださる聖人の名前を戴いています。私達の保土ヶ谷教会は被昇天の聖母マリアです。

教会は非常に古い時代から常に、マリアは死んだ後(あるいは東方教会で言われているように、「眠りについた」後に)、神によって召され、体と魂が天に上げられたと信じています。

この信仰の背景には人の体は良いものであるという真実があります。私達の天の国における終末の救いも、魂だけでなく栄光に包まれた体としてもたらされるのです。マリアと同じように私達も復活によりイエスとつながっているのです。神は私達人間の体を良きもの、として見られました。が、私達自身はどうでしょうか。私達は自分たち自身を醜いもの、役立たず、不必要なものなどと見下していないでしょうか。神様はそうは見ておられません。

バチカンの協議会はマリアについて、人間として時に暗闇の中で信仰の道をたどったと言っています。別な言葉で言えば、マリアは私達(そして彼女の息子)同様、苦しみを経験をしました。マリアは正式に結婚しておらず、天使の言葉に大いに困惑しました。すきま風が吹き込む馬小屋で子供を産みました。幼子イエスを胸に抱き、彼女は外国であるエジプトに難民として逃れなければなりませんでした。またイエスが12歳の頃、彼を3日間も見失ったこともありました。そして息子が自分の村で拒絶され、追い立てられて行くのを見るのです。ついにはその息子が十字架上で苦しみながら死ぬのを見たのです。私が好きなマリアの称号は「約束の娘」です。すべての苦しみの中で、マリアは、神が全ての神の子供たちを愛すると厳粛に約束したのだから、何らかの形で神は助けてくれるだろうと信じていました。つまり、マリアは神を信じていたのです。マリアは私達の良いお手本です。マリアの一生は私達に希望を与えてくれます。

今日の聖書朗読では、いとこのエリザベスを助けるため、マリアが自分の都合は犠牲にして長旅に出たことが描かれています。自己を忘れることは私達にも影響を与えます。それは平和をもたらすのです。

「神の母聖マリア、罪深い私達のために、今も、死を迎える時も祈ってください。」

日, 08/09/2009 - 00:00

「米は力だ。」 この言葉は、東海道線の国府津駅を過ぎたところに見える精米工場の巨大看板に書かれています。お米は日本の主食です。食物は私たちの体に栄養と力を与えてくれます。
2,000年前のイエスの時代にもしこの看板があったならば、その文句は「パンは力だ!」ということだったでしょう。

私自身、こんな経験があります。高校生の時、級友とハイキングに出かけたのですが、朝寝坊してしまい朝食抜きで駆けつけたのです。ハイキングを始めて、まずお腹がすいて力が出なくなりました。次に頭が痛くなり、やがて足がふらつき、ついには倒れてしまったのです。それよりは先へは行けませんでした。本当に、食べ物とは力、エネルギー、栄養なのです。

イエスがご聖体の秘跡を行った時、イエスはパンを選びました。最後の晩餐でイエスはパンをとり、それをかかげて仰せになりました。「これは私の体である。」(つまり、私自身そのものである。) この、ご聖体と私たちが呼んでいる聖なるパンは私たちの心と魂の力であり、人生の旅路の糧となるものです。イエスご自身が私たちの人生の旅路の同伴者となってくれるのです。何と素晴らしい助けではありませんか!

私たちのご聖体は今日の第一朗読の中で、暗示されています。
エリヤは砂漠へ脱出しようとしていました。王妃イゼベルが彼を殺害しようとしていました。エリヤは飢えていた上に、そのことを知って落胆し「もう、十分です。私の命を取ってください。」と言いました。エリヤはもう先には行けませんでした。その時、エリヤは天使から食べ物を授かり、旅を続けることができたのです。

イエスの時代の人々の中には、イエスのご聖体の教えを信じることができない人もいたと福音書に描かれています。そのような人々に対してイエスは「開かれた心で祈れば信仰の賜物が私の父よりあなたに与えられる」と言っています。

ご聖体は人生の旅路を勇気をもって歩む力を与えてくれます。ご自身の御子イエスを助けとして私たちに遣わしてくださる、それほどに神様は優しいのです。

日, 08/02/2009 - 00:00

30年前私は聖地イスラエルを訪れました。そこで私は、かつてイエスが立って山上の垂訓を与えたまさにその場所である、ガリラヤ湖を見下ろす丘の緑の草の上に座ってみました。それから湖のほとりへ行き、岩に座りました。そこはイエスご自身が弟子たちのために朝食を作り、ペテロに「ペテロ、お前は私を愛していますか」と尋ねた場所でした。2,000年前に生まれ、実際にイエスご自身に会うことができたら何と素晴らしいことでしょうか。
その時そう思いましたが、後で私は全く同じイエスに福音書の中で会うことが出来るということに気がつきました。イエスは生きており、現在の私たちとともにおられます。私事ですが遠藤周作の「イエスの生涯」には大いに助けられました。真の神の心を神として示された人間イエスを、遠藤は言葉によって描写したのです。イエスは神の愛、愛の神なのです。

しかし、なお私にはより深い方法でイエスと出会いたいという飢えと渇きがありました。そんな時今日の聖書の言葉が私の心を打ったのです。イエスは言います:「私は命のパンである」。
イエスが最後の晩餐で聖体を聖変化させたとき、彼は「このパンは私のからだ」と言いました。ここで、「からだ」とは自分自身そのものを言います。ご聖体はイエスのご自身そのものなのです。

ご聖体をいただく時に、私たちは自分達の心にイエスそのものを受け取ります。そうなのです、実際のイエスそのものが、私たちの心の中に入ってくるのです。このパンこそがすなわち生きているパン、命のパン、イエスご自身なのです。聖体拝領を通じて、私たちは、とても親密な形でイエスと出会うことができるのです。

祈りの心をもって聖書読めば読むほど、ご聖体の深い意味を味わえるようになってきます。

私自身について言えば、人生の旅路を歩み続ける活力の源は、ご聖体です。それは、私の同伴者としてともに居てくださるイエスご自身なのです。皆さんも同じ経験をされるよう、神に祈っています。イエスはこう言っておられます。
「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書:6章35節)

日, 07/26/2009 - 00:00

「私達の日ごとの糧を今日もお与えください」と私達は主の祈りの中で唱えます。
私達が力を得るために毎日摂る食べ物は神からのいただきものです。私達は食事を毎日食べるのを、当然のことだと思っていないでしょうか。食前の祈りをいつもしているでしょうか。日本にいる私達は食べ物が十分にあることについて、神に感謝しましょう。食べ過ぎたり、食べ物を粗末にしたりしていませんか? 現代においても飢え死にする人がいる国があります。そのような人々のことを知り、気にかけていますか? この不況にあって、日本国内でさえ今まで日本の繁栄に貢献してきた外国人労働者が職を失い飢えに苦しんでいます。

1732年、飢饉で百万人の日本人が亡くなりました。昨夜(7月25日)の隅田川花火大会は、徳川将軍吉宗が飢饉による犠牲者の霊を慰め、飢饉から国を清めるために始めました。今日、私達は食べ物に充分(時として充分すぎるほど)恵まれています。このことを神に感謝しているでしょうか?

今日の聖書朗読に出てきた男の子がイエスにしたように、わたしたちは気前よくできるでしょうか? 「イエスさま、どうぞ僕の昼食を使ってください」 イエスはこの若い男の子の優しさを通して、たくさんの人々の飢えを満たす奇跡を行いました。今日、イエスは私達に、優しさ・寛大さを求めています。(この奇跡の真の意味—イエスの深い憐れみを忘れないでください。)

神は寛大に私達に賜物をくださいます。それも何とかやっていける程度などではなく、有り余るほどにくださいます。今日の第一朗読と福音では皆が満腹してなお食べ切れずに残ったと書かれています。これは神は常に気前が良いということを意味しています。

有り余るほどに与えてくださるのは、ほかの人々と分かち合うためです。ですから、私達も食べ物やお金、時間、便宜、つまりは私達の心を他の人々と分かち合うのです。最後の審判の時にイエスが私達に言うのを聞きましょう。「あなたは私が飢えていたときに食べさせてくれました。こちらに来て、永遠のお礼を受け取ってください。」
寛大な人の顔は柔和で、利己的で欲深い人は悲しい顔をしていることに気がついていますか?

日, 07/19/2009 - 00:00

イエスは彼らを深く憐れまれた(マルコ6章34節)。この憐れむという言葉はギリシア語の動詞スプラグニゼスタイの翻訳です。福音書の中でイエスだけが9回使っていますが、頻繁に使われるギリシア語ではありません。他人への憐れみの気持ちを持って心の底から感じ入るという極めて強い動詞です。心の底から他の人のために苦しむ、という意味です。

今日読まれた福音書の中のイエスは、飼い主のいない羊のような有様の群衆を深く憐れんでおられます。イエスはこの他にも、ライ病患者に出会った時(マルコ1:41)、二人の盲人に会った時(マタイ20:34)、てんかんに苦しむかわいそうな男の子に会ったとき(マルコ9:25)、そして息子を失った寡婦の涙を見たとき(ルカ7:13)などにも同様に深く憐れんでおられます。

この、まれな強い言葉をなぜ福音書の書き手が使ったか、その本質を理解しましょう。これは私達の神、イエスの心なのです。イエスは今日の私達に対しても同じように感じてくださいます。このように深く共感してくださるイエスに今日も会うことができます。聖体拝領と祈りを通じて、イエスに会うことができるのです。

このように深く愛してくださる牧者である神がいる。素晴らしいことではありませんか?

このギリシア語の動詞は、イエスからの優しい招きを更に意味深いものにしている、と私は思います。イエスは今日も生きている声で言われます。「疲れた者、重荷を背負ってあえぐ者は私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」 皆さん、イエスのところへ参りましょう。

日, 07/12/2009 - 00:00

エフェソ人への手紙の中で、聖パウロは「私たちを愛してくださる父である神は私たちを愛する子供として選び祝福と賜物を惜しげなく注いでくださいます。」と書いています。なぜ神は私たちを選んだのでしょうか。神は私たちが賜物を他の人々と分かち合うために選んだのであり、私たちは決して選ばれたエリートではありません。むしろ「私は全然普通の人間で、そんな分かち合う者となるような資格などありません」と言うかもしれません。そうなのです、私たちは資格もない弱い人間で神の助けに頼る存在であることを認めましょう。アモスと12人の弟子が良いお手本です。

紀元前750年に、アモスと呼ばれる農夫に神は北王国(イスラエル)に行き、人々に神の道に戻るように命じました。景気の良い時には、人々は神よりも物質的な物事を優先していました。世間的にはアモスは学もなく預言者としては不適でした。アモスは違う王国(ユダ)に住む、謙虚な農夫でした。しかし神はわざとアモスを選び、神の雄弁と力に頼るように命じたのです。神はアモスを派遣しました。そして強さと能力を与えるのです。

イエスが選んだ12人の弟子たちも、漁師やら徴税人やらで、キリストの道を説けるような知識があったり、雄弁であったりするような人ではありませんでした。しかしイエスご自身が彼らを使徒として世に送ったのですから、彼らが使命をまっとうできるように力と言葉を与えたのです。イエスは使徒たちに物質的な手立て—パンや財力、小銭や余分な服などに頼るな、と命じました。イエスは「ただ、私の平和の道具となれ。私は私の力とともに常にあなたのそばにいる。私はあなたに使うべき正しい言葉を与える。」と言っています。「笑顔は平和の始まりです。」(マザーテレサ)

イエスは私たち一人ひとりをそれぞれの小さな社会において、イエスの証人・伝道者・預言者になるようにと派遣しています。私たちはイエスが惜しみなく与えてくれた賜物を、家庭、職場、学校、アパート、店などで出会ったすべての人と分かち合うのです。例えば、スーパーのレジの人に暖かく微笑んでいるでしょうか? いじめにあっているような人を助け、励ましているでしょうか? イエスがこの世に送られたきたのは、私たちの毎日の生活のためなのです。イエスは助けてくださいます。

日, 07/05/2009 - 00:00

この世に完全な人などただの一人もいません。誰もが例外なく弱さを抱えています。今日の聖書朗読、使徒パウロのコリントの教会への手紙の中では人間の弱さ・弱点を「とげ」と表現しています。(『Flesh(肉体)の中のとげ』という表現は紛らわしい訳だと思います。ギリシャ語で『Flesh』は完全な人間のことです。)
誰もがそれぞれ、自身のとげを持っています。そのとげは、人それぞれです。心身の病、心配ごとや問題、誘惑、依存、中毒、抑鬱、かんしゃく、繊細で傷つきやすい、難しい人間と共に暮らしたり働いたりしなければならない、うぬぼれやわがまま....列挙しはじめるときりがありません。あなた自身のとげは何でしょう?

自分のとげを特定することは精神的に健全なことです。自分のとげをあいまいなまま放っておくのはやめましょう。私達の優しくて親切な神様はあるがままの私達を受け入れてくださることを忘れずに、祈りの心で自分自身に向かい、私達それぞれのとげ、弱さが何であるかはっきりさせましょう。この優しい神様に対して、私達人間の力だけでは弱さに打ち勝つ(とげを抜く)ことはできないと認めましょう。私達は神様の助けが必要なのです。神様は、あるがままの私達を愛してくださるので、助けてくださいます。
このようにして私達は心の中にきちんとした場所を作り、そこにイエスをお迎えし神の力を発揮していただくのです。

今日、イエスは生きている声で次のように言います。
「あなたが必要なものは、私の優しさ。あなたが弱っている時に、私の力は最も強くなる。」
この言葉を、じっくりと徹底的に考えてみてください。聖書の中で最も励まされる部分だと私は思います。
イエスが弱っている人、傷ついた人や罪人を触られた聖書の話の中で、私はその神髄として次の言葉が最も好きです。
「私は弱っている時にこそ、強いのです。」

日, 06/28/2009 - 00:00

2000年前、パレスチナの小さな国で、イエスはその土地の言葉、ヘブライ語の一種であるアラム語を話していました。マルコは福音を書くにあたり、当時の大ローマ帝国の共通言語であったギリシア語を使いました。しかしマルコはイエスが人々に話したいくつかの言葉については、アラム語そのままで記述しています。それらは、「アッバ」(おとうちゃん)、「エファフェート」(開け)、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのか)、そして今日の福音にある「タリタ、クミ」(少女よ、さあ、起き上がって行きなさい)などです。なぜマルコは翻訳をつけてまでイエスの言葉そのままを書いたのでしょうか。伝えたかったことは、福音がどのような言語を使おうとも、イエスの言葉と行いは永遠の現在形である、ということです。イエスの言葉は常に、今日も、生きている声で私達に語られるのです。

今日の福音に出てきた二つの奇跡をみてましょう。イエスは12年も出血に苦しんでいる婦人を癒されました。彼女は困窮し、寺院への立ち入りを禁じられていました。イエスはこの可哀想で孤独な婦人を憐れみ、身体の苦しみを癒しただけでなく、優しい言葉で彼女の心の傷をも癒されたのです。今日、私達もイエスの優しい思いやり、親切、そして理解を味わうことができます。イエスは今も生きているのです。

ヤイロの娘の癒しの話は、紀元1世紀のキリスト教教義コースの題材のようなものです。テーマは私達人間が死んだらどうなるのか、ということです。イエスは「なぜ、このように騒ぎ、泣いているのか?子供は死んでおらず、眠っているだけだ。」と言っています。毎晩、私達は眠りますが、これは普通のことです。死は恐ろしいおおごとではありません。ただ、眠りにつくだけです。初代教会のキリスト教徒は「死」と言うかわりに「眠る」という言葉を使いましたが、これは比喩表現でなく、本気で使っていたのです。死によって私達は眠りにつき、そしてイエスが私達に触れ、私達は永遠の命と幸せに目覚めるのです。(『触れる』という言葉はこの福音で6回出てきます。) このような健全な見方で私達自身の死について向き合いましょう。死とは逃げるべき暗く、恐ろしいものではありません。イエスは私達の死に光と希望と、そしてそうなのです、喜びを与えてくださったのです。死後、私達は敬愛する天のお父様の家で、心安らかに目覚めるのです。
「私は復活であり命である。私を信じる者は、死が訪れようとも、永遠に生きる。」

日, 06/21/2009 - 00:00

今日の3つの朗読箇所(ヨブ記38-1、詩編107、マルコ4-35)に共通するテーマは「嵐」です。聖書は歴史的事実を描写していますが、マルコは福音を記す時、激しい迫害に苦しむ紀元1世紀の初期教会の信徒を励ますように書きました。

あなたは今、心の中に嵐がありますか? もしそうなら今日の福音はあなたのためのものです。心の嵐は病気、心配事、多忙でありすぎること、人間関係の破たん、裏切り、睡眠不足、うつ、寂しさ、虚無感などさまざまな要因で起こります。

もしあなたがそんな心の嵐を経験しているならば、あなたは神の慰めや力を身近には感じていないことでしょう。聖書の言葉で、あなたの心の舟の中でイエスは寝てしまっている、と言えるでしょう。そのような時はえてして祈りは困難になります。しかし、よく覚えておいてください。祈りが難しくなってしまうのは、あなたがお祈りはきちんと礼儀正しいものであるべき、と思ったときだけなのです。そうではなく、神が祈りの中で求めるものは、私達の本当の心です。もし大嵐の中であれば、私達は必死になって「イエスよ、助けてくれないのですか? 沈んでしまいます!」と叫ぶのです。詩編は祈りのお手本です。
詩編44-24:「起きてください。主よ何とかしてください。何故眠っているのですか? わたし達の苦しみとあらゆる困難を忘れないでください。」
詩編83-1:「わが主よ。黙ったままでいないでください。」
詩編89-46:「あとどれくらいですか主よ? ずっとお隠れになったままなのですか?」
詩編22-1:「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか? なぜそんなに遠くにおられるのですか? わたしのうめき声を聞いて助けに来てくれないのですか?」

これらの祈りはまったく礼儀正しくなどありません。翻弄される心から沸き上がってきたものです。詩編は聖書の方法、つまりは神がどのように祈ったらよいかお示しになった方法です。

あなたの舟の上で、イエスは寝ているように見えるかもしれませんが、イエスはあなたを守っています。イエスに叫びましょう。正しい時が来たら、イエスはあなたの嵐に対して次のように言うでしょう。
「黙れ、静まれ!」

日, 06/14/2009 - 00:00

今日のミサの3つの聖書朗読におけるキーワードは「契約」です。 今日の聖書朗読に出てきた「契約」という言葉は、神と私たち人間の間で相互にかわされる、厳粛な約束を意味します。

第一朗読で読まれた出エジプト記では、私達は「主があなたと血で固めた契約」が出てきます。 福音書では、最後の晩餐(最初のミサ)では、イエスは次のように言っています。 「これは私の(新しい)契約の血です。」

和平の約束をかわす時に、酋長達が各々の親指に小さく切り傷をつけ、血の流れる親指同士を押し付けあうインディアン部族があります。また日本においても古代より血判の習慣がありました。親指を小さく傷つけ、血をインクとした指紋により、文書に押印したのです。これらの意味は皆同じです。私の命(すなわち、血)をかけて、この約束を私は守ります、という意味です。

神は、イエスを通して、私たち一人ひとりを守るという厳粛な誓いを立てています。しかし、契約は互いの誓いでもあります。ひるがえって私たちは、持っているものすべて、自分自身すべてを神に委ねると約束するでしょうか? 

イエスは十字架上で彼の生血をもって、この誓いを固められました。

この誓いは、まず最初に私たちが洗礼を受ける時に厳粛に立てられ、その後は毎回ミサで私達が神に協力するたびに、新たに更新されるのです。イエスは、毎度のミサの奉納の際に、生きている声で言います: 「これは私の新しい永遠の契約の血(すなわち、命)です。これを私の記念として行いなさい。」 聖体をいただく時に、私たちも自身をイエスに与えるのです。

しばし「契約」というこの言葉のもつ不可思議さと現実について考えてみましょう。厳粛な約束をもって、神は私達のそれぞれの人生にすでに入っているのです。その約束とは、「私はあなたと共にいる。私はいつもあなたを思いやり、あなたを愛する。私はあなたの神である。」ということです。この約束の深遠な意味がわかるようになる時、私たちは、「神よ、私はあなたの言葉を信じます。あなたの御手に私を委ねます。あなたは私の神です!」と言うことができるようになるのです。

平和への道のりとはそのようなものなのです。

日, 06/07/2009 - 00:00

あなたにとって神とは何でしょうか。あなたが「神」という言葉を使う時、あなたが「神」に祈る時、どのようなイメージが浮かびますか。(これは私達全員にとって大事なことなので、この先を読むのをしばし止めて、このことを考えてみましょう。)


空の月や星、海、山々を見て、これらがいったいどこからきたものかと不思議に思うことがあります。詩篇33章はそれらは結局は神からきたものであると言っています。深い森の中で、神威というべき畏怖の念を覚えることがあります。私は先月、日光杉並木の中でそれを感じました。
こうした形で神を感じることができるのは、良いことです。しかしそれはイエスが教えてくれた神を理解するほんの入口にすぎません。私達の神の概念はとてもあいまいで、はっきりせず、遠く感じられたり、冷たく感じられることさえあるのです。

神は愛情に満ち、思いやりのある優しい父であるとイエスは言っています。神は私達と温かい関係を持つことを望んでおられるとイエスは教えてくださいます。この「父」という言葉について、イエスはアラム語で「アッバ」という言葉を使っています。マルコによる福音書14章36節でイエスは「アッバ」と祈っています。また聖パウロは「アッバ」という言葉を2回使っています。一回は今日の朗読箇所、ローマの教会への手紙8章15節、もう一回はガラテヤ人への手紙4章6節です。マルコもパウロも聖書原文はギリシア語で書いたのですが、この部分はイエスがしゃべったとおりのアラム語の「アッバ」という言葉をそのまま使っています。そのくらい重要な意味を持っているのです。

「アッバ」は小さい子供が、家族の中だけで使う言葉でした。それは私達の「パパ」や「おとうちゃん」のようなものです。イエスの時代のユダヤの学者は、イエスが神を「アッバ」と呼ぶのにショックを受け、神に失礼であり、神を冒涜するものだと思いました。しかしイエスは神を「アッバ」と呼び続けたのです。これにはいろいろな意味があります。神は優しく、親切であり、私達をよく理解してくださる存在。そして温かく、わたしたちに近い存在であるということ。また、我々は神が愛し守る、神の子供たちであるということです。

この優しい神のイメージはどのようにしたら得られるのでしょうか。今日聖パウロは、聖書を通して、「聖霊の力を借りることによってのみこの賜物を受けることができる」と教えてくれました。イエスに聖霊を送ってください、と祈りましょう。その力によりアッバである神のイメージが私達の心の中に根付くように頼みましょう。
(今日のローマ人への手紙の中では、三位一体が示されています。)
この優しい神を信頼し、すべてを神の御手にゆだねましょう。

日, 05/31/2009 - 00:00

ペンテコステ(五旬祭)とはギリシア語で50日を意味します。イエスの復活後50日目に、初代教会に集まる少数の人々の上に聖霊がくだりました。全部で120人ほどが集まっていました。

イエスが天国へ昇られた時、この少数のイエスの弟子たちはおののきました。もうイエスが彼らのそばにいて助けと勇気を与えてくれることがなくなると思ったのです。しかしイエスは彼らを強めるために助け主である聖霊を送ると約束なさいました。そこで恐れおののきながらも、約120人の男女はイエスの母マリアと共に、祈りながら待ったのです。そしてルカが使徒言行録で私達に伝える通り、一同は聖霊で満たされたのです。聖霊に満たされた人々は、恐怖ゆえに施錠してあった扉を開け、引き籠っていた部屋から外へ出て行きました。弟子たちはエルサレムにおいて、イエスの道について雄弁と勇気をもって公然と伝道を始めたのです。

イエスは彼らに地の果てまで行って、神は私達一人ひとりを愛しているというかつてない良い知らせを伝えるように弟子たちに命じていました。イエスの教会の信者が増え、活動地域もサマリア、アンティオキアから始まって、アテネ、コリント、マルタ、そしてローマへと拡大していく様子が使徒言行録(より正確には聖霊言行録と呼んだほうが良いかもしれません)からうかがえます。

これらの出来事は、皆さんや私のような現代に生きる普通の人々に、どんな意味があるのでしょうか?
それはこういうことです。イエスは私達に彼の生きる道を与えてくださいました。(初代教会では自分たちの教会そのものを「道」と呼んでいました。)私達は決して、人生の道、あるいは旅路を自らの人間の力だけで歩まなくて済むのです。(もしひとりぼっちで歩もうとすると、ストレスの多い、不幸な旅路となってしまいます。) イエスは今も私達に、救い主である聖霊を送ってくださいます。

ですから皆さん、最初の120人のように、「祈りながら待つ」ことをしましょう。イエスが約束してくださったとおり、聖霊の力は確かに私達に降りてくるでしょう。英語の「to wait」は日本語では「待ち望む」ですが、まさに「望みながら待つ」のです。

70年前の1939年6月4日、保土ヶ谷教会は設立されました。以来、聖霊は私達の間に宿り続け、今も作用しているのです。神に感謝。

日, 05/24/2009 - 00:00

2000年前イエスは、当時は数多くはなかった信奉者達に「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」と言われました。 イエスは同じように生きている声で、今日私達にも「あなた方一人ひとりが、それぞれの小さな社会に入っていき、神は愛であるとの良い知らせを伝えなさい」と言っています。

この「全世界に行って...」はマルコによる福音書15章にありますが、その直前の14章でイエスは復活したイエスを見た者を信じようとしなかった弟子達を叱っています。 このように信仰が弱く、かたくなな心だったのにもかかわらず、そんな彼らにイエスは布教を託したのです。 いえ実際には「信仰が弱く心がかたくなであった」からこそイエスは彼らに使命を与えたのです。 聖書においては、神のために働くように神より任命された人たちは常に一貫して、自分の弱さ・はかなさをわかっていて神に力と強さを請い願う、弱い人々でした。 アブラハム、モーゼ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、マリア、ヨゼフ、ペトロ、皆そうでした。
ですから今日の福音の20節にある言葉、「主も彼ら(弟子たち)と共に働き…」はとても大切なのです。 あなたや私が『神は私達皆を愛してくださる』という福音をそれぞれの小さな社会(家庭や学校、職場、友達など)に伝えに行く時、主イエスは私達と共に働いてくださいます。

けれども、私達の信仰生活と日常生活は二つの分かれたものではなく、一つです。 私達には皆、なすべき仕事があります。 母親として、父親として、独身者や学生、子供であっても、また退職した人や病床にあって家から離れられない人であっても広い意味では同じで皆、何らかの役割があるのです。 「日曜日だけの信者」はやめて、あなたの日々の仕事生活の中にイエスを招き入れましょう。 祈りを通じてイエスと触れあい続けましょう。 一人では働けないことをイエスに伝え、助けを請いましょう。 私達の神であるイエスは私達と共に働きたいと望んでおられます。 それで私達の日常と仕事は、活気づけられるのです。

日, 05/17/2009 - 00:00

先週、教皇ベネディクト16世は聖地イスラエルを訪問されました。 30年前、私も巡礼者としてイエスの足跡をたどっていました。 今でも最も印象深く覚えているのは、ラザロ、マルタ、マリアの家だったベタニーの教会です。 そそ3人はイエスの友達でした(ヨハネ11章11節)。 その教会にはとても印象的なモザイク画があり、マルタとマリアがイエスと話している姿が描かれていました。 私はイエスに友達として語りかけているその絵を見つめ、これこそが祈りの本質を表していると心打たれました。(そのモザイク画には、犬すらもイエスを注意深く見上げていたのです!) アビラの聖テレジアは祈りとは私達を愛してくださるイエスとの心と心の会話であると書いています。

今日の聖書朗読ではイエスの重要な遺言である福音が、次のように現代の私達に生きている声で述べられています。「私はあなたを友と呼ぶ」

聖アウグスチヌス(西暦430年死去)はイエスの言葉について次のように述べています。「誰が本当の友人でしょうか。友人とは私のことをすべてわかっていて、それでいてなおあるがままの私を受け入れてくれる人をいいます。」あなたや私にとってイエスはそのような友人なのです。

このイエスとの友情は私達の祈りのまさに土台となるものです。 友人とは、私が経験する心の痛み、苦しみ、失敗や裏切りなどを打ち明けることができる人です。 イエスのところに行って、すべてを打ち明ける、それが祈りです。

もし疑いや誘惑あるいは誰かを許せなかったり、神そのものへの不平があったとしても、なおイエスへ話しかけることができます。 そしてイエスはわかってくださいます。 イエスが私達に望むのはあるがままの私達であり、着飾った私達の心ではありません。 もしそのように着飾った心は、自分自身への偽りであり、偽りの祈りとなってしまいます。

イエスは今日も次のように言っています。「あなたは私の友人です。疲れた者、重荷を負った者は誰でも私のところに来なさい。休ませてあげよう。」

これは友人からの祈りへの招待なのです!

日, 05/10/2009 - 00:00

復活節の聖書朗読は、復活なさったイエスが、いかに現代においても私達と共に生きているかを強調しています。復活の主日のメッセージは、私達は洗礼を通して神との暮らしに入る、というものでした。 そして復活したイエスとトマスとの深淵な邂逅がありました。 それから先週の日曜日には、イエスと私達の非常に近しい友情、イエスは羊飼いが羊に与えるようなキメの細かい愛情と心遣いを私達に与えてくださる、ということが述べられました。 今日の聖書朗読は有名な葡萄の木と枝の話です。 ここでは私達の神であるイエスと私達の温かい関係を強調しています。

私個人の話ですが、ここ保土ヶ谷の自分の庭で葡萄を育てています。 春になった今、幹から網を伝って枝がぐんぐん伸びてきました。 やがてこの枝には葡萄の房が実るでしょう。 すべての枝への生命は幹に由来します。 命をもたらす樹液が来なくなれば、枝はしおれ枯れてしまいます。

私達キリスト信者はイエスから生命、活力、栄養をもらっています。 私達はイエスとつながっていなければなりません。 イエスは「わたしから離れては、あなたは何もできません」と言っておられます。

ヨハネ福音書15:1−10で、このイエスとのつながりの重要性を強調するために、ギリシア語原文では「メノ」という言葉を10回も使っています。(英語では「私につながっていなさい」「私のところにとどまりなさい」などと訳されています。) この木と枝のメッセージは最後の晩餐においてイエスから述べられており、イエスからの遺言・福音としてたいへん重要なものです。 イエスとの、この温かく近しい関係は、キリスト教徒として生きていくうえで絶対に不可欠なものです。

私達はイエスとこのような温かく近しい関係をどのように育てていけばよいのでしょうか。 一言でいえば、『祈り』です。

あなた自身の言葉で神に話しかけてみてください。 イエスにあなた自身のこと、良い時も、喜びも、成功も。 そしてあなたの痛みも失敗も悲しみも、寂しさも、人間関係の難しさも。そして、あるいは言葉は使わなくてもよいかもしれません。 あるがままのあなたへのイエスの愛をただ味わってみてください。 あなたは新しい人生を見つけ、新しい糧を得て、あなたの心には新しい喜びが沸いてくるでしょう。 言い換えれば、イエスの命があなたへ流れて来て、実り多い葡萄の枝のように、あなたは幸せになるのです。 この素晴らしさをかみしめましょう。

日, 05/03/2009 - 00:00

イエスは、今日、生きている声で語りかけます。「私は良い羊飼いである。私は羊を知っており、羊も私を知っている。私は羊のためであれば、命も投げ出す。」(ヨハネ:10-14)
横浜市のどまん中に住んでいる私達は、羊飼いも羊すらも見ることはありません。そこで、イエスの時代の羊に関する背景をちょっと見てみましょう。羊飼いは多くの場合羊の持ち主の息子の役割でした。ですから、雇われ羊飼いよりも、はるかに自分のものとして羊を大切に扱いました。面倒をみる羊の数は大体10−20匹くらいで、その一匹一匹に名前をつけ、羊も名前を呼ばれるとやってきたのです。羊の敵は狼でした。羊飼いは棒や投石器、時には自らの命まで犠牲にしても羊を守ったのです。良い羊飼いは美味しい草と水のあるところに羊たちを連れて行きました。一言で言えば、羊飼いは羊たちを愛し、守り、導いたのです。もし一匹でも迷子になれば、羊飼いは探しにいきました。羊飼いと羊は共に楽しみ、良き仲間でありました。
1世紀のころから、良い羊飼いというのはキリスト教徒の間で、イエスのイメージとして最も人気のあるものでした。それは都市にいる人々の間でもそうでした。なぜでしょうか。今日、復活なさったイエスは私達とともにいます。イエスは本当に私達一人ひとりを愛し、気にかけてくださいます。私達一人ひとりを名前で呼んでくださるのです。イエスは私達を守っていくださいます。そして友情を与えてくれるのです。また、私達と共に喜び、楽しみたいと思っているのです。イエスはこんなに優しい神様なのです。
祈りと聖体、そして共同体としての教会を通して、この優しいイエスに出会いましょう。イエスは待っておられます。もしあなたが悲しみや苦しみの中でさまよったり、何か途方に暮れたりすることがあれば、良い羊飼いに見つけてもらいましょう。彼はあなたを肩に背負って、 平和な家路につかせてくれるでしょう。
これはとても美しいたとえ話です。ここに書かれている、私達一人ひとりへの愛を味わいましょう。

日, 04/26/2009 - 00:00

今 週のカトリック新聞には「ミサの説教においては要点はひとつに絞るべきだ」と書いてありました。 しかし今日の聖書朗読はあまりにも内容に富んでいるので、今回はこのルールを破ってしまおうと思います。

要点①:イエスの弟子たちはイエスが十字架上で死んだことを確かにわかってはいました。 けれども、イエスは彼らの前に現れたのです。 「亡霊だ!」と弟子たちは叫び、恐れおののきました。 死者の亡霊は弟子たちの悪業を懲らしめるために戻って来るのだと信じていたからです。 しかし、私たちの神は懲罰的な神ではありません。 人間の弱さを知るイエスは「あなたがたに平和があるように」と言いました。
それでもまだ弟子たちは死んだイエスがよみがえったと信じることができませんでした。 そこでイエスは十字架上にはりつけになった時に手と足にできた釘穴を見せたのです。 この復活したイエスは弟子たちの知るイエスそのものでした。 しかしそれでもなお弟子たちは疑っていました。 イエスは弟子たちの疑いを理解し受けとめたのです。 イエスは弟子たちとともに焼き魚を一切れ食べたのです。(亡霊なら食べ物を食べることはないはずですから。) 復活したイエスは人間の弱さ・不誠実さ・勇気のなさに対してこのように深い理解を示されたのです。 現代の私たちも、同じこのイエスと、祈りと聖体拝領を通して出会うことができるのです。

要点②:復活したイエスの体の手足になぜ傷痕が残っていたのでしょうか。 これにはとても深い意味があります。 イエスが身をもって、私たちに対して次のように語っているかのようです:「友よ、あなたがた自身の心と体の傷を私に見せてみなさい。私も同じ傷を経験したのだから、あなたがどんな気持ちであるかわかります。どうぞ私を信じて、私のもとへ来てください。あなたに平和を与えましょう。」

要点③:私たちは大抵、何らかの形で心に傷を負っています。 かなり昔に負った傷でもしまいこんでおくことができず時としてうずくことがあります。 そんな時は復活したイエスのもとに行きましょう。 傷が痛んで眠れない夜には詩編4章を読んで祈りましょう。 詩編4章は夜の祈りです。 神ご自身に直接届く、心の叫びの祈りです。 物質的なものは痛みを和らげることはできません。 復活されたイエスの御顔の輝きだけが心の闇を追い払い、私たちを安らかに眠らせてくれるのです。 どうぞそのように試してみてください。

日, 04/19/2009 - 00:00

今日は「神のいつくしみの主日」です。 いつくしみという言葉は、辞書で定義されている意味と聖書の中で使われている意味とでは、かなり異なっています。 この『神のいつくしみ』の深い意味を深く理解するには、聖書でどのようにこの言葉が使われているか、とりわけ、イエスが当時の人々をどのように慈しんだか取り上げられている箇所を、よく見る必要があります。 ヨハネによる福音書21、22章を例にとってみましょう。 イエスは死者のうちから復活してマグダラのマリアの前に姿をお現しになりました。 彼女はイエスの死に深く落胆し悲嘆と喪失にくれ、泣いていました。 甦ったイエスはきわめて優しく親切に、「マリアよ」と彼女の名前を呼びました。 また、ペトロはイエスなど知らないと3度も否定したのですが、そんなペトロにイエスは「ペトロよ、あなたは私を愛していますか?」と3度尋ねるのです。
今日の聖書朗読において私達はトマスに出会います。 トマスはイエスに3年もつき従い、救い主イエスがローマ占領軍を追い払うのだとばかり思っていました。 イエスが罪人として十字架上で死んだ時、彼の夢はすべて破れてしまいました。 トマスは失望、当惑、悲嘆の淵に沈みました。 他の弟子たちから離れ、独りになって嘆いていたのです。 再びトマスが弟子たちのグループに戻ってきた時、イエスは鍵のかかった戸を透過して現れたのですが、トマスが「イエスの復活を見るまでは信じない」とかたくなであったことについて、責めることはありませんでした。 このようにイエスはトマスに対して、かくも優しく、親切で、そしてよくトマスという人を理解しているのです。 これこそが神のいつくしみです。
現代の私たちは祈り、教会共同体、聖体の秘跡を通して、このいつくしみを経験することができます。 
あなたの心の戸は鍵がかかってしまっていることはありませんか? 鍵のかかった部屋の中では、裏切り、怒り、許せないこと、子供の頃に受けた心の傷、ストレス、恐れ、傷ついた自尊心や劣等感、中毒等などによって、心が傷ついています。 自力だけで癒すことはできません。 甦ったイエスに私達の心に来てもらいましょう。 イエスは同情に満ちたお方です。
イエスは「疲れた者、重荷をになってあえぐ者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言っておられるのです。

日, 04/12/2009 - 00:00

今日は私が大きな教えをうけた、田辺さんという老人についてお話したいと思います。 田辺さんは息子の家の隣に住み、いつも息子一家と夕食を共にしていました。 しかし息子は3年の米国勤務を命ぜられてしまいました。 ある日、近所の人が田辺老人が一人で夕食を食べているのを見て、「お一人でのお食事は、お寂しいことでしょう」と言いました。 ところが、田辺老人は「いいえ。復活されたイエス様と一緒に夕食をとっていますので、寂しいと感じたことはありません」と答えたのです。
私は、田辺老人のこの答えを聞き、まさにこれがイエスの復活の意味だと心打たれました。 イエスは死者のうちからよみがえったので、もはやひとつの時代、ひとつの国にとどまることなく、いま現在生きる私たちと共に生きているのです。 そして復活されたイエスは現在の私たち一人一人に、生きている声で「恐れるな、私はあなたと共にいる」、と言っているのです。
イエスは私たち一人ひとりのすぐ隣で人生の道を共に歩んでくださるのです。 私たちは決して一人ぼっちではありません。 私たちが孤独や苦しみに直面した時には、この偉大な真実を思い起こしましょう。
私は田辺さんに、田辺さんの言葉に感動したことと、田辺さんの例と名前を皆と分かち合う許可を得ました。 10年前には、田辺さんのお葬式で説教もさせていただきました。
イエス様は死者のうちから復活して今も私たちとともに生きておられ、また聖書のイエス様の言葉を読む時、その言葉は現在に生きている言葉であります。 それゆえ、イエス様は私たち一人一人に「恐れるな、私はあなたとともにいる」と言っているのです。
イエスの復活はいろいろな意味がありますが、これはその一つの例です。 私はこのことを頭ではわかっていましたが、神は田辺さんを通して心でわからせてくださいました。

日, 04/05/2009 - 00:00

今日の主日には古来より二つの名前があります。 枝の主日 イエスはエルサレム入城する際に王として人々から枝を持って歓迎されました。 これはイエスの復活、イエスは真に王であることを予期させます。 ②受難の主日 イエスは私達への愛のために苦しみ、死にます。 ここではイエスは真の人間です。
今日の第一朗読ではイザヤはメシア−救い主の苦しみを預言します。 苦しみに飽いている人々に励ましを与えることが出来るように、イエスは真の人間の苦しみを経験なさいました。 パウロは私達にフィリピの教会への手紙の中で、イエスは神の身分でありながら自分を無にして(言いかえれば神の栄光を脇に置き)、私達と同じような本当の人間になり、真に苦しみを受けた、と語っています。
真の人間となったイエスは、人々が苦しみにある時のさまざまな気持ち、例えば「神は私を見捨てられたのだ」という空虚な気持ちも経験なさいました。 十字架上のイエスは詩編22章、「神よ、神よ、どうして私を見捨てられたのか」と祈りました。 この詩編は希望の言葉で終わっています。「ああ神よ、助けに来てください。」
マルコによる福音書でのイエスの受難は厳しく残酷な描写が続きますが、ローマ軍百人隊長の「本当にこの人は神の子だった」という宣言で終わっています。
マルコによる福音書、中でも受難の場面は、現代の私達にとって重要です。 マルコがこの福音書を書いた1世紀、キリスト教徒は迫害され大変な苦しみを受けていました。 ですからマルコはそのような苦しむ人々に励ましを与えようとしていました。「イエスは私達と同じ実際の苦しみを経験したのです。私達が苦しむ時、イエスは私達の中心にいるのです。」 この言葉はあたかもイエスご自身の言葉「恐れるな弱き者たちよ。私はあなたと共にいる。」という言葉を裏付けているようです。 イエスは永遠の現在形で聖書の言葉を現代の私達に語りかけているのです。
遠藤周作はその著書「イエスの生涯」で次のように書いています。 イエスは私達の人生における永遠の同伴者です。 イエスは、人の悲しみと苦しみをすべて経験されました。 ですからイエスは私達に「あなたが苦しむとき、私はあなたのそばにいます。」と言うことができるのです。
これは私にとって、苦しみや絶望の中で、大きな希望となるのです。 私達は決して一人ぼっちではなく、今日もイエスは生きている声で私達に語りかけてくれるのです。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」 私達がイエスと共に苦しむ時、私達はイエスの苦しみの背景にある深い意味をよりよく理解することができるのです。

日, 03/29/2009 - 00:00

今日の福音の中で、人間誰にとっても最も大事な心の一面が表れていると思う一節があります。 その一節とは次のようなものです。
「お願いがあります。 イエスに会いたいのです。」  イエスと出会いたいのであれば、(初めてであったとしても、あるいはより深い意味でであるにしろ)まず最初に私達はその出会いを望まなければなりません。 神・イエスを知りたいという心の憧れは、神を知る最初の第一歩です。 言い換えれば、神はいつでも、神を憧れ探し求めている魂に応えてくれます。 この憧れは詩編42章に次のようにありありと描かれています。
「谷川の水を求めて歩きさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う。 私の心はあなたを求め、神のいのちを憧れる。 み顔を仰げる日はいつか?」(詩編42:1−2)
心が空っぽになってはいませんか? 人生に不満を感じていませんか? 退屈ですか? 日常を忙しくすることで不平不満をまぎらわせてはいませんか? あるいはそんな心の空白を埋めるために、賭博、ショッピング、セックス、アルコール等々に過度にふけっていませんか? よく考えてみましょう。こういった行為の奥底にあるのはおそらく、私は本当に神を求めている、ということでしょう。
神を探そうとしてみましょう。 イエスに会いたいという望みを持ちましょう。 詩編42章に出てくる鹿と一緒に、「渇き」を覚えましょう。 この詩編の最後の部分は、希望に満ちています。
「何故私の心はうち沈むのか? 救いの神、私の神を信じます。」
福音書には、何かより良いものへの憧れをもつ人々の例がたくさんあります。 皆、心の深いところで渇いていたのです。 物質的なモノではそれは決して癒されないのです。 例えば、ニコデモ、ザアカイ、バルティメオ、ベセスダの水のほとりの男性、マグダラのマリア、アラバスターの香油壷を持った長い髪の女性等々みんな、皆さんや私の象徴です。
今週、5分間でも静かに心の憧れを感じてみましょう。 心の渇きは人として当たり前のことです。 神はそこにおいでです。

日, 03/22/2009 - 00:00

「神は愛である」これを正確に表すならば「神はあるがままの私を愛してくださる」ということです。 この事実にスイッチがはいると、私たちは自由になり、心は温かくなり、そして日々の行いも意味あるものになってきます。 しかしこの「スイッチがはいる」(あるいは、この真実の深い意味をはっきりと理解する)ことは、私たちの努力でできることではありません。 これは、まったく神様からの私たちへの、とてつもないプレゼントなのです。 
これは、今日のミサの中で読まれたパウロとヨハネの朗読の要旨であると私は考えています。 神である父、私のやさしいおとうちゃんは、子である私に愛を注いでくれます。 私はその愛に包まれています。 私の個人的な祈りは、取り乱した父親がイエスに願ったものと同じです。「主よ、わたしはこれを信じます。しかし、不信心な私を助けてください。私の信仰を強めてください。」  この大きな愛についてもう一度考えてみましょう。 最も大事なことは、この愛は無条件の愛であるということです。 神はあるがままの私を受け入れてくださいます。 神は私たちが善業を行ったご褒美としてこの賜物をくださるのではなく、単純に贈り物として私たちにくださるのです。 神はこの、100%の愛からなる贈り物をひとりひとりの人間にくださいます。 この愛について理解することができる能力に恵まれた人もいます。 しかし、私たちがそれを忘れても、さらには神を拒んでも、神ご自身は私たちを愛し続けるのです。 無条件なのです。 神は、「もし〜であれば」などという狭量な言葉は使いません。
私たち一人一人への神の偉大な愛を実感するためには、私たちは神がその偉大な光を私たちに当てることができるようにする必要があります。 日常の世俗的なことに追われて、神を心の中で輝かせることができない、そんなことはありませんか?  最も最初になすべきことを、最初にしていますか?  神が心の中で作用できるように、静かな祈りの時間を、持てていますか?
このことは四旬節の大きな挑戦です。 四旬節はあと3週間しか残っていません。
皆様に、毎日少なくとも5分、静かに神の温かい愛を味わう時間を持っていただきたいと願います。 もし他に気を取られるようなことがあっった時も(人間にはありがちなのですが)、ただ、神の愛に戻りましょう。 他に気を取られてしまったとしてもなお、神はあなたを愛してくださるのです。

日, 03/15/2009 - 00:00

時々キリスト教徒でない方が初めてカトリック教会の聖堂に来て十字架を見ると、ショックを受けることがあります。 十字架にはりつけになっている像は普通の人をぎょっとさせるものです。  とても残酷な、とても衝撃的なものです。
今日の聖書朗読の中で聖パウロは「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚なものですが、……召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と言っています。
その通り、十字架にはりつけになり死んでいくキリスト像は残酷でショッキングです。 その死は長く、苦しみに満ちたものです。 しかしキリスト教徒にとってこの光景は、神の私達への輝く愛が示されているという深い意味を持つものなのです。 こんなにも神は私たち一人ひとりを愛してくださる、という姿なのです。 神は私達を愛するがゆえに、命を投げ出されたのです。 さらに、この十字架刑は常にイエスの死から生への復活という背景を伴っています。
イエスを通して、神は真実に人間となられました。 イエスは人類すべてを代表なさったのです。 それゆえイエスは(十字架上の死によって)真にすばらしい恵みを私達のために勝ち取ったのです。 この恵みはイエスの死の前には得ることができなかったものです。 言い換えればイエスは私たちのために天国の門を開け、神に恐れることなく近づき神の助けと愛を自由に享受できるという特権を私達の代表として勝ち得たのです。
そしてイエスは私達人間の苦しみを担われ、イザヤの預言を実現したのです。 イエスの苦しみにより私達の平和が勝ち取られ、イエスの傷によって私たちは癒されたのです。
遠藤周作はこのように書いています。 《もしイエスが人間の苦しみを経験していなかったならば「私はあなたと共にいる」などと言えなかっただろうし、私たちに向き合って「見なさい!あなたが苦しんでいる時、私はあなたのそばにいる。私自身人間の苦しみを経験したので私はあなたの苦しみをわかるのです」とは言えなかったでしょう。》  とても慰めになる文章です。
この四旬節に十字架上のイエスを見てみましょう。 十字架上からイエスは「わたしはあなたを愛している」と言っています。 あなたが神から個人的に愛されていると実感することが真に素晴らしい賜物なのです。

日, 03/08/2009 - 00:00

今日の創世記の一節(創22:1−19)を読むと、神は残酷だと思えるかもしれません。 しかし我々現代人は、この聖書の書き手や古代の人々両方の背景を理解したうえで読んでいかなければなりません。 古代の人々がこの聖書の一節からどのようなメッセージを読み取ったのか自問してみましょう。今回の場合の答えは、神は実際には人間をいけにえにささげることを強く禁じたことです。 言い換えれば、神はアブラハムの息子の命を望んだのではなく、アブラハムの心を望んだのです。 このように理解できればこの創世記の一節の印象も全く変わり、現代に生きる私たちにもピンとくることでしょう。
教会、とりわけ私たちのミサにおいて、私たちは「奉献」「奉納」、そして「ささげる」という言葉を使います。
ミサ中に私たちは献金をします。 お金を籠に入れ、その籠は奉納行列によって運ばれ、祭壇に置かれます。 献金の奉納は(アブラハムのような)私たちの心の神への奉献を表します。 神は私たちの心を求めておられるのです。
もし私たちがこのような奉献の心をもって日曜のミサにあずかるようになれば、奉納の儀式はとても大きな意味を持ち始め、その週の日常生活にも影響を及ぼすでしょう。
ミサにおいて私たちは神に言うのです。 「おとうちゃん、わたしはあなたの子供。 私はあなたにより頼む。 私自身のすべて、強さも弱さも、心も体も、喜びも悲しみも、気分が良いときも悪い時も、すべてあなたにささげます。 神様、私のすべてをあなたの御手にゆだねます。 私はあなたを信じています。 私を助けてくれることを知っています。」
もしこのような信頼と奉献の気持ちがあれば、ミサは真に意義深く、私たちの日常に影響を及ぼすものになるでしょう。 神は私たちの日常生活に生き、私たちは心の平安と励ましを得るのです。

日, 03/01/2009 - 00:00

「あなたは塵より造られ塵に戻る。悔い改めて良き知らせを信じなさい。」 私達の額に灰が塗られる時に、私達はこれらの言葉を聞きます。 待降節はこのような、思考をかき立てるような儀式で始まります。
この儀式は人間の心の奥底に触れる、非常に象徴的な儀式です。 私達は皆、人間であり、したがって私達は皆いずれ死にます。 つまり、塵と灰になってしまうということです。 これは興ざめな事実であり、私達の多くはこれを考えないようにしようとします。 仕事や趣味で忙しくしてみたり、お酒やドラッグにはまったり、またはテレビ漬けになったりなど、さまざまです。 しかしこの灰の水曜日の儀式で私達は正直に私達は死ななければならない存在であることに向き合います。 私達は自分自身に問うのです:結局のところこの人生は何であるのかと。 私は本当に生きているのか、それとも単に存在しているだけなのか、と。
しかし、「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を心に留めてください。 これはすなわち、私達あるがまま、塵に戻り死すべき肉体と永遠に続く魂から成る私達を、神は本当に愛してくださる、ということです。
自分自身の死について考えるということは、イエスの死と復活を思い出せば、暗く恐ろしい時間を過ごすということではありません。 むしろ、これこそが私達の希望、喜び、励ましとなるのです。 なぜならば私達はキリストと結びついているからです。
自分自身の死について考えると空虚な気持ちになるかもしれませんが、この空虚感こそ、神が私たちを助けてくれるところなのです。 心を平静にしイエスが生きている声で語りかけるのを聴きましょう。 「私は死を経験しました。 恐れるな、私はあなたと共にいる。 私があなたを愛しているという、かつてない良い知らせを信じなさい。 新しく出発なさい(これは悔い改めるということです)。」
詩篇23章(良い羊飼い)で私達は「主よ、私の牧者よ、私が死の影の谷間を歩むときも、あなたが私と共にいてくださるので私は恐れを知りません。」と祈ります。
四旬節は基本的な事について沈思黙考する時です。 希望と喜びを持ってそれを行いましょう。

日, 01/18/2009 - 00:00

「あなたは塵より造られ塵に戻る。悔い改めて良き知らせを信じなさい。」 私達の額に灰が塗られる時に、私達はこれらの言葉を聞きます。 待降節はこのような、思考をかき立てるような儀式で始まります。
この儀式は人間の心の奥底に触れる、非常に象徴的な儀式です。 私達は皆、人間であり、したがって私達は皆いずれ死にます。 つまり、塵と灰になってしまうということです。 これは興ざめな事実であり、私達の多くはこれを考えないようにしようとします。 仕事や趣味で忙しくしてみたり、お酒やドラッグにはまったり、またはテレビ漬けになったりなど、さまざまです。 しかしこの灰の水曜日の儀式で私達は正直に私達は死ななければならない存在であることに向き合います。 私達は自分自身に問うのです:結局のところこの人生は何であるのかと。 私は本当に生きているのか、それとも単に存在しているだけなのか、と。
しかし、「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を心に留めてください。 これはすなわち、私達あるがまま、塵に戻り死すべき肉体と永遠に続く魂から成る私達を、神は本当に愛してくださる、ということです。
自分自身の死について考えるということは、イエスの死と復活を思い出せば、暗く恐ろしい時間を過ごすということではありません。 むしろ、これこそが私達の希望、喜び、励ましとなるのです。 なぜならば私達はキリストと結びついているからです。
自分自身の死について考えると空虚な気持ちになるかもしれませんが、この空虚感こそ、神が私たちを助けてくれるところなのです。 心を平静にしイエスが生きている声で語りかけるのを聴きましょう。 「私は死を経験しました。 恐れるな、私はあなたと共にいる。 私があなたを愛しているという、かつてない良い知らせを信じなさい。 新しく出発なさい(これは悔い改めるということです)。」
詩篇23章(良い羊飼い)で私達は「主よ、私の牧者よ、私が死の影の谷間を歩むときも、あなたが私と共にいてくださるので私は恐れを知りません。」と祈ります。
待降節は基本的な事について沈思黙考する時です。 希望と喜びを持ってそれを行いましょう。

日, 01/11/2009 - 00:00

「さあ、渇いている者は皆、お金がなくとも、水のところへ来なさい。 なぜあなたを満たさないものに労賃を費やすのですか?」(イザヤ55)
預言者であり詩人でもあったイザヤは、深い心の渇きを表現するために、肉体的な渇きのイメージを用いました。
喉が渇いた時にバケツ一杯の塩水を飲んでも、さらに喉が渇いてしまいます。 心の渇きも同じで、山のようにこの世のモノを集め、快楽を経験しても、心は満足するばかりかかえって不満は一層募るばかりです。
人生や日常の暮らしがつまらないと感じると、私達はしばしば自分自身の奥底でこの様な心の渇きを覚えるようになります。 自分の生き方あるいは課せられた仕事に飽き飽きし、虚無感すら覚えるのです。この心の渇きは、失敗したり、心配ごとがあったり、傷つくことがあったりした時に、より強く感じられます。 映画監督の黒澤明氏は映画「生きる」の中でこの渇きを次のようなセリフで表現しています。
「結局、この人生は何だったんだろう? どんな意味があるんだ?」
このような心の渇きを覚える時が、まさに、神が「渇いている者は皆、水のところへ来なさい」と言っている時なのです。
イエスは「疲れている者、重荷を担ってあえぐ者は皆、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と繰り返し、この預言を実現しています。
私達が洗礼を受ける時に、父なる神(アッバ、お父ちゃん)は教会を通して「あなたは私の大切な子供。私はあなたを愛している。」と私達に言うのです。 神ご自身の子供となったので、私達は全幅の信頼をもって父である神のもとへ向かうことができるのです。 私達の神(お父ちゃん)は、まことに優しく、私達を理解してくれる存在です。 神は私達一人ひとりを名前で呼び、愛してくださるのです。
ですから、もしあなたが心の渇きを覚えたら、「渇いている者は皆、水のところへ来なさい。」という神の優しい招きにこたえましょう。
この招きは「疲れている者、重荷を担ってあえぐ者は皆、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」というイエスの呼びかけによっても繰り返されているのです。 神のところへ向かいましょう。

日, 01/04/2009 - 00:00

主は神の栄光を脇に置き、現実の人間となられました。 イエスは100%神であると同時に100%人間でありました。
イエスは馬小屋で生まれました。 最初にイエスのもとに訪れたのはユダヤ人代表としてのユダヤ人の羊飼いです。 神の代弁者たる預言者達はユダヤ人に救い主の到来を約束していました。 しかし今日読まれた福音ではユダヤ人でない三人がイエスを訪ねていることが描かれています。 この三人は世界中のすべての人々をあらわしています。 この聖書の箇所のメッセージは、イエスの救い主としての力と平和は、すべての人々、すべての国のためにある、ということです。
三人の賢者は彼らの人生に意味を与えてくれる救い主に是非会いたいと、心から強く願っていました。 そんな彼らの旅路を、星が導いたのです。
人間であれば誰でも例外なく、幸福や平和、人生の意義を心の底から希求しています。 この憧れは真の人間でいるためにとても大切なことです。 私達はこの憧れを、忙しさでまぎらわせたり、物質的なモノや名誉でその憧れを満足させようすることはできます。 しかし神を見いだすことによってのみ、この憧れを満足させることができるのです。
今年、私達は日常生活の意味を探してみましょう。 三人の賢者のように、私達には導いてくれる星が与えられています。 それはイエスご自身です。 イエスは「私は世の光である。 私は道である。」と言っています。
静かな環境で、次のように祈ってみましょう。 自分自身にこのように訪ねてください。「心の底で、私はこの人生でいったい何を求め、探しているのだろう?」と。 平和なのか? 幸福だろう? 意義? それとも達成感? どうかイエスよ、神を見つける道をお示しください。
イエスは言っています。 「求めよ、されば与えられん。 叩け、されば戸は開かれん。」
神から宝物が与えられていることをを実感できたら、それを他の人々と分かち合いましょう。 「金」の替わりに思慮深さを、「乳香」の替わりに優しいほほえみを、「没薬」の替わりに寛容を捧げましょう。

日, 12/28/2008 - 00:00

「神に信仰を持つ」とはどのような意味でしょうか? 聖書では信仰を次のように表現しています。 神は神を信じる人間に対して、共にいることとその人を守るということを厳粛に約束します。 信仰とはその約束を信頼して、それに頼って生きていくことです。 このような信頼は、苦しみそのものを防ぐことはできませんが、その苦しみに意味を持たせることができます。 聖書の中ではアブラハムは信仰のお手本となっています。
アブラハムは、家を捨て新しい家族をつくるために砂漠へ行くように神に命じられました。 しかし彼には子供もできず、砂漠は水もない危険な場所でした。 神は「アブラハムよ、恐れるな。 私はあなたと共にいる。 私はあなたの盾となるであろう。(盾は身を守る鎧であることから、ここでは盾とは「神の加護」を意味する)」と言ったのです。
『アブラハムが神の召し出しに応えたのは信仰に依ってであった。彼は行く先も知らずに出発したのであった。(ヘブライ11-8)』 つまり、アブラハムは神の約束を信頼したのです。アブラハムは自分の将来を神の御手に委ねたのです。
このような信仰、信頼を現在の私達は必要としています。 将来のことなど誰がわかっているのでしょうか? 誰も知りません! 神の約束を思いおこしましょう。神は私達一人一人にこう言ってくださっています:「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる。私はあなたを守る。」 そうなのです、私達は苦しみから逃れることはできませんが、神が共にいてその苦しみに打ち勝つことができるのです。
今日のミサで読まれた詩篇105節に次の一行があります:
『神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ。』
愛情に満ちた私達の父である神は、その力を子である私達を守るために使ってくださいます。信頼をもって祈りによって神のところへ行きましょう。
アブラハム、マリア、ヨゼフ、その他の信仰のお手本の人々、どうか私達の信仰と信頼がより強くなるよう祈ってください。

日, 12/21/2008 - 00:00

聖書の中で、神の代弁者たる天使ガブリエルはマリアに、ダビデに約束された救い主の母親となってくれるかと尋ねました。 マリアはこの依頼に「大いに困惑」しました。 マリアはそのような役目はおそらく果たすことが出来ないと感じました。 そこでガブリエルは「恐れることはない、マリア。神はあなたと共におられる。」と言ったのです。 これは、人間マリアが単なる人の力だけでこの役目を果たそうとしても無理である、ということを神は理解しており、それだからこそ神は必要な力をマリアに与える、ということです。 この神の力の保証があってこそマリアは「お言葉どおり、この身に成りますように。」と返事をしたのです。この受諾の瞬間、神は人間となられたのです。
しかしマリアは、「私は自身を神の御手にゆだね神の助けに頼ります。」と度々繰り返さなければなりませんでした。 例えば、ヨセフとともにイエスを出産する場所を探して尋ねていく宿屋の主人にことごとく断られた時、幼子を抱えてエジプトへ避難しなければならなかった時、そしてわが子イエスが十字架上で死ぬのを見た時、などです。 どの時もマリアは神に対して「はい」と答えたのです。
この、神のマリアへの働きかけは、自分とは関係ない手の届かないものではありません。 これは私達皆に神が作用してくださるものなのです。
私達にはそれぞれの役目、仕事、人生における天命があります。 これらを、とてもではないが私達自身の人間の力だけでは、やりおおせることができない、という事実から目をそむけてはなりません。 私達は神の助けが必要なのです。 神は生きている声で、私達に語りかけてくださいます。 「恐れるな。私はあなたと共にいる」と。
私達が神が常にそばにいると思うようになればなるほど、私達の心の平和はより大きなものとなります。私達は決して一人ぼっちではないのです。
時として私達はそのような「役目」から逃れたいと思う時があります。 私達は自由になれるかも、と思うのです。そうではありません!本当の、深い自由は人生の役割を喜んで(いやいやではなく)引き受けることからくるのです。その喜びは神と手を取り合うことから、神の力に頼ることから来るのです。約束によりやらねばならぬことと、 自分自身やりたいと望むこととを、喜んで一致させることができれば、その人は幸せで心安らかでいられるのです。神は私達と共にいるのです。

日, 12/14/2008 - 00:00

古代より教会は今日の日曜日に面白い名前をつけています。 それは「歓喜の日曜日」というものです。 紫のロウソクに替ってピンクのロウソクが待降節のリースの上でともされます。
待降節は心の棚卸の時期でもあります。今日の朗読箇所を用いて、自分自身と向き合い、次のような根本的な質問を自分に問いかけてみましょう。
私は、たとえ逆境に苦しんでいても、心の深いところにある喜びを感じているでしょうか? 
その喜びは、神が自分の近くにいて自分を守ってくれている、ということがわかることからきます。
「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。」(イザヤ61−10) 私はこの言葉を本気で言えるでしょうか?
私は「神が、ありのままの私達を愛してくださる」という良い知らせを隣人たちと分かち合っているでしょうか。
ここで言う隣人とは、たとえば、貧乏、虚無感、ストレスに苛まされていたり、落ち込んでいたり、精神的に捕らわれていたりする人達です。
私達は皆、マリア様とともに、「全能の神のみわざは偉大」と言うことができます。
しかし、私は神が決めた道を受け入れているでしょうか。 それとも自己嫌悪や他者との比較に陥っていないでしょうか。 イエスは私達が自分自身を愛するように、言いかえればありのままの自分を受け入れるようにおっしゃっています。
聖パウロは「どんな時も喜んでいなさい。いつも祈っていなさい。」と言っています。 常に楽しく幸せであるためには、私達は本当に祈りが必要です。 祈りは、選択可能なその他追加物ではありません。 祈ってこそ、神と心の交流ができるのです。 神はどんなに私達を愛してくださるか話してくださいます。 これこそが私達の喜びの源泉なのです。 祈りは神との暖かい友情です。 やってみましょう。
今日の福音では洗者ヨハネが人気のある説教師として描かれています。 人々が彼の話を聞きに来ました。 けれどもヨハネは誇らず、自分の役目と限界を知っていました。 そして人々にイエスの話を聞き、彼に従うように言ったのです。 自分自身を他者の為に捨てるのは、真の謙遜です。 私達自身はどうでしょうか。 そのような真の謙遜を持っているでしょうか、それとも常に自分本位で自分のことだけしか考えていないでしょうか。 神の働きは深いところで作用します。 もし私達自身の利便を忘れ、他者のことを考え始めたならば、私達は神からもたらされる真の喜びを味わうことができるのです。 やってみましょう。

日, 11/30/2008 - 00:00

今日は待降節第1主日、今日からB年に入ります。
「神よ! あなたは私達の父。 私達は粘土、あなたは陶工。 あなたの御手の業。」(イザヤ64:7-8)
聖書では、人の言葉でさまざまな比喩を使って、神が描かれています。 今日の聖書であるように、イザヤ書では神は陶工にたとえられています。 陶工たる神。これは創世記、エレミヤ、詩篇、そして聖パウロが用いた美しい比喩表現です。
まず土をこねる陶工をみてみましょう。 陶工は心と技をこめて粘土を一生懸命こねます。 エレミア書で神は「陶工の手の中の粘土のように、あなたたちも私の手の中にある」(エレミア18-6) 実際、神はとても私達に優しいのです。 そして陶工は粘土をろくろの上に置き、作品を作り出すのです。 陶工と作品は心でしっかりつながっています。 それこそが神とその子供たちである私達の関係、神の核心、神は私達を愛している、ということです。 陶工は様々なものを作り出します。 カップ(取っ手のあるものやないもの)、花瓶、皿、水差など。 釉薬をかけるものもあれば素焼きのものもあります。 神は私達みんなをそれぞれ異なるように造りました。 その違いを受け入れ、他人と比べないようにしましょう。 "私達はすべて神の御手の作品です"。 陶工は作品にプライドを持っています。 彼は自分自身でこのように言っています。「私は自分自身でこれを造りました。 大好きな自慢の作品です。」 陶工たる神は私達一人一人についてこのように言っています。 神は私達を愛している−慰めとなるすばらしいことではありませんか? 
陶器は、もとよりコワレモノです。 陶工はこれを知っています。 神は私達が繊細で弱く、すぐに壊れてしまうことをご存じで、弱いのにもかかわらず、ではなく、弱いからこそ、私達を愛してくださるのです。 「私達が造られている粘土をよく知っているので、神は私達に優しい」(詩篇103:14)
この待降節第一主日では、私達は私達個人の暮らしのなかで最も基本的なことの一つ、私達の暮らしと生き方に影響する問題についてよく考えてみましょう。その問題とは、神をどのようにイメージするか、ということです。 優しい陶工である神様をイメージし、柔軟な粘土として私達を神の御手にゆだねることができるよう、神に祈りましょう。