水, 07/28/2010 - 01:14

私たちの神への祈りは、時として丁寧すぎないでしょうか。私たちは充分大胆でしょうか。あえて、普段言えないことも神に対して祈っているでしょうか?
弟子たちはイエスに問いました。「主よ、祈りの方法をお教えください。」  その祈りの中で、イエスは最初の言葉がカギであると教えてくれました。  それは全ての祈りの基礎であり、始まりでもある、神と私たちの関係をあらわしています。祈りとは、言葉よりむしろ、優しく、慈愛に満ちた神(アッバ)とそれを神として頼む子供たちとの間の交流なのです。
もし言葉のみに集中してしまうのであれば、私たちの祈りは味わいの無いものとなってしまいます。
もし、慈愛に満ちた父とその子どもとの関係に集中すれば、言葉は出てきます。ぜひやってみてください。ただ、静かな環境で座り、イエスに祈り方を教えてください、と念じ、そしてどんなにアッバが私たちを愛してくださるか味わうのです。(「アッバ」とはイエスが実際に使った言葉であり、ちいさな子供が使う「おとうちゃん」の意味です。)アッバは私たち一人一人を特別に大切な子供として面倒をみてくださいます。アッバは私たちをあるがままで受け入れてくださいます。アッバは人間のはかなさ・弱さをあまりにも良く知っていますが、それにもかかわらず、無条件の愛でもって私たちを愛してくださいます。この神の寛容を受け入れる勇気を私たちは持っているでしょうか?
今日朗読された創世記では、アブラハムは神に対して、聖書学的なユーモアに満ちた祈りを行なっています。聖書では、アブラハムは三ヶ所で「神の友人」と呼ばれています。アブラハムは祈りのなかで、「主よ、私は塵アクタに過ぎませんが、敢えてあなたにお願いいたします!」と言っています。振り返って、私たちはこのような、敢えて言いにくいことも祈る勇気を持っているでしょうか。言い換えれば、私たちを愛してくださる神の子供であると、真に感じているでしょうか?
神に近付くときに、勿論、バランスは必要です。
神は神です。私たちは神を崇敬します。しかし、イエスは私たちの全能の神は、優しい慈愛に満ちた父、アッバであると教えて下さったのです。何と言う美しい調和ではありませんか。
アブラハムは求め、探し、しつこく扉を叩き続けました。彼は友人である神に、あえて話しかけたのです。
私たちもそのように祈ってみましょう。

火, 07/20/2010 - 15:05

先週の日曜日は私たちは善きサマリア人の例え話を読みました。そのメッセージは祈りだけでは不十分であり、わ私たちは隣人愛の実行も必要である、ということでした。今日の聖書では、「行動」の例え話が示されています。そしてそのメッセージは、隣人愛だけでは不十分で、祈りも必要である、ということです。愛の実践と祈りのバランスが大事であることに注意しましょう。

今日読まれた創世記では、アブラハムが寛大な優しさを示し、それを通して神と出会い報われたのです。福音書ではマルタとマリアがイエスに親切なもてなしを行ない、イエスは存在と優しい言葉をもって彼女らに報いています。
イエスはマルタに優しく呼びかけています(二度も彼女の名前を繰り返します)。「マルタ、あなたは心配し過ぎです!」 しかし、私たちの多くはまさにマルタのように心配しているのです。私たちは不安を背負っていて、マルタと同じようにストレスを抱え、「ああ、こんなにも忙しい」と呻いているのです。
このような日常の中、私たちは何ができるのでしょうか。今日の一節にその答えがあります。「あなたの悩みを主に託しなさい。なぜならば、主はあなたの面倒をみてくださるからです。」(ペテロ第一の手紙5-7) 言いかえれば、神を信頼して、あなたの悩みをあなたの祈りの原材料としましょう。神は本当に私たちを愛し、面倒を見てくださいますから。これがマルタの祈りです。

一方マリアの祈りは、また異なったやり方です。マリアは静かに座り、イエスの言葉を聴いていました。私たちもこのように祈ってみましょう。聖書を開き、祈りの心を持ってゆっくりと読み、イエスが私たちに語りかけることに耳を傾けましょう。イエスは、特に、聖書を通して私たちに語りかけてきます。
ラザロの家族、ベタニアのマルタやマリアに対してそうであったように、イエスは私たちに対しても友達になりたいと望んでおられます(ヨハネ福音書第11節)。
祈りとは友人同士の親しい会話です。私たちは実際、何でもかんでも、イエスに話してよいのです。イエスは「私はあなたを友と呼ぶ」と言っておられます。そして聖書を通して、生きている声で、次のように言っているのです。「聞きなさい。私戸口に立ってたたく。私の声を聞き、戸を開くなら、私は中に入って、その人と食事を共にする。」(黙示録3:20)
私たちの心の扉を開き、イエスを親切にもてなしましょう。

土, 07/17/2010 - 16:03

善きサマリア人のお話は何回も耳にし過ぎて食傷気味になってしまって、肝心の大切なメッセージに鈍感になったり聞こえなくなっているかもしれません。

エルサレムからエリコへの道は寂しい山道でした。ある日、強盗がユダヤ人を襲い、すべてを奪い半殺しにして放置して去って行きました。道端に、傷だらけになって血を流して倒れている姿を想像してください。そこへ最初は祭司が、そして次に神殿奉仕者がやって来て、倒れている同胞に目をやりましたが、しかし、わざと道の反対側を通って立ち去ったのです。その後に、ユダヤ人に軽蔑されていたサマリア人が通りかかりました。彼はこの傷ついた人を見て同情で心が一杯になりました。彼はロバから降りて彼を乗せ、傷口を洗い塗り薬の手当てをしました。通りかかった最初の二人は、積極的には何もとりたてて悪いことをしていません。しかし、彼らは善行をしないという、不作為の罪を犯したのです。

現在の社会では、キリストの道を私たちが真に歩もうとする時、「誰が私の隣人なのでしょうか?」いう重要な問題に行きあたります。イエスは私たちに、隣人とは異なる宗教、異なる人種、異なる社会的背景の人々であることを説いています。アフリカの果てや遠いパレスチナの地においてさえ、私たちの隣人はいます。もし、誰かが、誰ででも苦しんでいたり、寂しかったり、軽蔑されていたら、それらの人々は私たちの隣人であり、世話をされるべき人、愛されるべき人、なのです。善きサマリア人のたとえ話は、私たちにとって、とてつもない挑戦なのです。

堅固な隣人愛を実行するには、次の3段階があります。
(1)まず、私たちの心にアンテナをはり、困っている人(多くの人は心の傷を隠しています)に敏感になりましょう。
(2)そしてその人たちに共感する必要があります。共感・同情、とは、「当人と共に、痛みを感じる」という意味があります。ユダヤ僧とレビ人はこれがありませんでした。サマリア人にはあったのです。
(3)共感・同情は、その困っている人々を助ける実際の行動となって現れなければなりません。善きサマリア人の優しさと愛は大きなものでした。私たちも、たとえ日常の小さな親切の行動で結構ですから、善きサマリア人のお手本に従おうではないですか。笑顔、励ましの言葉、賞賛(たとえば、「ご飯、おいしかったです!」の一言だとか)、あるいは同情の言葉などは、傷ついた心を回復させる「癒しの葡萄酒と油」なのです。
ぜひ、やってみましょう。

水, 07/07/2010 - 01:39

イエスがお生まれになった夜のメッセージは「平和」でした。
イエスはザアカイに、ペトロに、そしてその他の多くに人々に平和を与えました。イエスは、「あなたの罪は赦された。平和のうちに行きなさい」と言っています。最後の晩餐ではイエスは「私の平和をあなたがたに与える...私が与えるのは、世が与えるものとは異なる」と言っています。また、「平和のために働くものは幸いである。彼らは神の子である。」とも言っています。そして、ご復活後は、「主の平和」が定番の祈りの際の挨拶です。。
今日の福音では、イエスは72人の使徒たちに平和の賜物をあたえ、送り出しています。この時、「この家に平和があるように」という言葉を最初に言うように、と指示しています。

あなたはイエスの賜物である平和を心の奥深くで味わっていますか? 平和を強く切望していますか?
この素晴らしい平和、たとえ不安や苦しみの中にある時でさえも得られる平和をどのように味わったら良いでしょうか。まず、あなたと自らの子供として愛してくださる神様に出会えるように、静かな時間を持ちましょう。次のような言葉を繰り返し唱えてみましょう。
「神は私を愛してくださり、面倒をみてくださる。」 徐々に、あなたは神に愛されているという感覚は神の賜物としてあなたの心にしみとおってきます。そしてあなたは心の平和を得ることができるのです。あなたが神に愛されていると実感することで心の平和が得られます。
しかし、この平和を祈りを通して神に乞い願う一方、他の人々への平和の道具にならなければなりません。私たちは、温かくほほ笑んだり、思いやり深い優しさを他人に与え、他の人々の心に平和の種をまくことができます。この驚くべき効果は、このことにより、あなた自身も平和を味わうことができることです。これは神様からの贈り物です。
立派なクリスチャンであるキャサリン・ドハティー(1985没)はカナダのモントリオールの地下鉄に乗っていた時、たまたま隣に座っていた老婆に「話しかけても良いですか?あまりにも寂しいので。」と言われました。彼女はそのまま終点まで老婆と話続け、さらに折り返して反対の終点まで話し続けました。これは平和の道具であることの、一例です。
私たちも、私たちの能力に応じて、平和の種を今週蒔きましょう。キリストの平和を祈りましょう。平和がやってきます。それもほんのちょっとではなく、大河の洪水のように流れてくるのです(イザヤ書)。

金, 07/02/2010 - 17:28

今日読まれた福音書の冒頭で、イエスはガリラヤからエルサレムへの旅に出発します。この部分は「旅のテーマ」と言われ、人生の旅路を象徴しています。しかし、これは単なる象徴以上のものなのです!イエスは、今日も我々とともに生きていて、私たちの人生の旅路において、同伴者となってくださるのです。
私たちの神は真に憐れみに満ちた神です。私たちの神イエスは私たちと同じ人間となりました。私たちの神は、実際に、我々人間の弱さを経験したのです。
今日の福音書で、イエスはサマリアの村人たちから屈辱され村から追い出されています。イエスの二人の弟子は、雷が落ちて村人たちが消え去ってしまえばいいと思いました。しかし私たちの神は、昔も今も、懲罰的な神ではないのです。
私たちも、人生の旅路の中で、孤独になり屈辱や拒絶に苦しみます。冷淡に扱われ、深い心の傷を負うのです。こうした時に、同じ屈辱や冷淡をその人に返したり、怨恨を抱え込んでいることは、心の傷をいっそう悪化させるだけなのです。私たちは祈りを通じてイエスのところに行き、助けや慰め、相手を赦す勇気を求めることができます。私たちが経験していることと同じことをイエスも経験したので、こうした状況をよく理解してくださいます。
忙しい競争社会の中で人生の旅路を歩む私たちにとって、孤独感はもう一つの経験です。イエスは深い孤独を経験しました。生まれ故郷のナザレから追い出されてしまったのです。「人の子には枕するところもない」と言っていますが、これは寂しい心からの叫びです。ですから、もし私たちも寂しさに遭遇した時には祈りを通じてイエスのところへ行き、助けと慰め、勇気を求めましょう。
「恐れるな、私はあなたと共にいる」とイエスは言っておられますが、これは私たちの手を握って人生の旅路をいっしょに歩んでくださる、ということです。私たちは決して一人ぼっちではないのです。イエスは「疲れた者、重荷を背負ってあえぐものは皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言っておられます。祈りを通じてその招きに応じましょう。たとえ、心の中が千々に乱れていたとしても。イエス様は理解してくださいます。イエス様ご自身も同じことを経験されたのです。

木, 06/17/2010 - 22:33

「堅信式について」

今日は堅信式そのものについて、話したいと思います。堅信の秘跡の中に二つの働きが あります。一つは神様からです。助け主である聖霊芦め主である聖霊は、私たちの上にく だります。もう一つは、私たち信者からです。社会の中でイエス様の証し人になることで す。堅信の秘跡を授ける人は、普通は司教様です。堅信は洗礼のつづきです。堅信の秘跡 の中には三つのシンボルがあります。第一は按手、第二は言葉、第三は聖香油です。聖書 の 中での按手の意味は「貴方は神様から特別な使命をいただきます。その使命を果たす ために必要な力もいただきます。」司教様が按手する時に、この言葉を使います。

全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によって この人ぴとに新しい いのちを与え、罪から解放して下さいました。 今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、 神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
○○○○、父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい。アーメン
主の平和。

第三のシンボルは聖香油です。司教様が聖週間の荘厳な式の中で、この油を祝別します。 オリープ油に芳しい香りのあるバラの油をいれます。私たちは、イエス様から芳しい香り のある恵みをいただきました。というのは信仰の喜びです。私たちは社会に入って芳しい 香りが漂う社会をつくりましょう。何かの喜び、何かの光を分かち合いましょう。これは 社会のなかでのイエス様の証し人といいます。具体的に言えば、証し人の行いは、人に暖 かい態度を示すこと、励まし慰めの言葉を言う事です。人の身分に応じて、イエス様の証 し人となりましょう。そして信仰の喜びを分かち合いましょう。

私たちはこの世で一番恵まれたものです。神様の愛を知っていますから、その恵みの偉 大さを理解して感謝して分かち合いましょう。受堅者のために一番大事な準備は祈りです。

慰め主、助け主である聖霊、私の上に来て下さい。

水, 06/09/2010 - 16:18

「聖体拝領と祈りについて」

東海道線国府駅~鴨宮駅間の精米所の壁の上の大きな看板に[米は力だ]と書いてあります。 お米は日本人の主食でこの食べ物を通して体の栄養と力と元気を項いています。

2000年前のイエス様の国ではパンが主食でした。同じ考えで「パンは力だ」と考えられていました。 この背景の中でイエス様はご聖体の秘跡のためにパンをお選びになりr最後の晩餐で」と言うのは

最初のごミサでパンをとり「これは私の体です。」と仰せになりました。

これは私自身ですと言う意味です。

 現代のごミサの中でただのパンは聖変化の後神様の力のお陰でイエス様自身になられます。 このご聖体は私遠の人生の旅路の中で心の栄養になって霊的な力を与えてくださいます。

実は信仰の元気さのためご聖体は絶対に必要です。

私達はご聖体の申におられるイエス様を頂<ことで深い一致・親しい交わり・暖かい眼差しを 経験します・イエス様は人生の旅路の親しい同伴者となって素晴らしい支えになられます。

ご聖体を頂いた後の時間をよく使いイエス楳のみ前に自分の心の凡てをさらけ出し親しく話し 合いましよう。これは祈りです。

16世紀の折りの博士アビラの聚テレジアは次の様に奔きました。rイエスは―人々々に対して 深く暖かい友情を持っています。ですから友達同志の遠慮のない話し合いは祈りになります。」 折りの時イエス様のお望みは私の無防備な心ありのままの心です。逆にさまたげは自分のこころを 折りの前に着飾ることある時はイエス様に対する丁寧すぎる態度です。

イエス様は私達一人々々に今日生きている声で聖書を通して仰せられます。

「私は貴方を友と呼ぷ 私にとどまりなさい。」 ヨハネ・15章

イエス様の祈りへの招きは次のようです。

「疲れた者・重荷を負う者はだれでも私の許にきなさい休ませてあげよう。」マタイ・11章

皆さん繰り返し申しますがご聖体を頂いた後は特別の祈りの時間を上手に使いましょう。

 

教会の習慣の中にご聖体訪問があります。ごミサ以外に聖堂に入りせいひつの中のイエス様と一緒 に過ごす習慣です。(赤いランプはイエス様がいらっしやるしるしです。)
友達イェス様への挨拶・相談・友情を味わう時間です。

勿論私達は聖体拝領・聖体訪問・以外でもイエス様と親しく話し合うことが出来ます。
例えば自分の家で静かな一時をつくる・電車の中で・散歩の中で・仕事の中で‥‥この親しい 話し合いの折りの材料は今自分の心の中のことです。 喜び・悩み・苦しみ・いつもありのまま 友達イエス様と話し合いましょう。

最後に聖体拝領の大切な点

私達共同体のみんなは同じイエス様を分かち合いますから深い一致があります。 その一致の源はイエス様ご白身です。聖パウロは次のように書きました。

「私達が裂くパンはキリストの体に与かる事です。パンは一つだから私達は大勢でもーつの体です。 皆が一つのパンを分けて食べるからです。」1コリント・1Q,章 17

その一致は日本の諺のように“同じ釜の飯を食う”ことです。
そのため私達が最後の晩餐のイエス様の心を持つことが大事だと思います。いわゆる(洗足)の こころなのです。

私達もイエス様と一緒に言いましょう。『私は仕えられるためではなく・仕えるために来た』
本当にご聖体を頂く私達は恵まれた者です。 “イエスの食卓に招かれた者は幸い”

堅信の準備のために次の個所を調べて祈りましょう。

  1. ヨハネ・15章 1~17
  2. ヨハネ・13章 1~15
  3. マタイ・11章 25~30

 

月, 05/31/2010 - 13:02

「ミサにあずかる心がけについて」

私達の社会の雰囲気は物質万能主義です、イエス様の価値観とはまったく逆です。 キリスト教信者にとってあるときは寂しい気持ちをもつでしょう。私達が信者としてその逆を歩む 勇気と励ましと力づけはやはりごミサとご聖体拝領なのです。

ごミサはいくつかの部分に分かれていていろいろな立場から説明することが出来ます。 最初のごミサは最後の晩餐でした。その時も今も二つの部分があります。 第一は聖書朗読です。第二は奉献の部分です。教会の教えは「聖書が教会で読まれる時はキリスト 自身が語るのであるj簡単に言えぱ聖書朗読を通してイエスご自身が私達に話しかけ天国から 人生の道に対して大事なメッセージを伝えてくださいます。

ある時はそのメッセージは慰めでありある時はチャレンジです。ごミサにあずかるときは敏感な 耳を持って聞く態度期待の心を持つようにしましょう。 例えぱ日曜日の朝起きて「今日はイエス様は私に何を言われるのでしょうか」良く聞いたら何かの 響きを感じると思います。その響きは神様からのメッセージです。人によって生活の状態に よって響きが違います。意義あるごミサに授かるためにそのような敏感な心の耳をつくりましょう。

続いて奉献の部分を考えましょう。棒げる心はキイワードです。イエス様は私逮の救いのために 十字架の上でご自分の命をお捧げになりました。私達はごミサの中でイエス様と一致して 自分の毎日の生活日々の出来事を父なる神様のみ手に棒げます。
喜びも悩みも毎日の仕事もつまり自分のすべてを捧げます。

聖体拝領のとき人生の道を元気よく歩むためにイエス様ご自身が私達の心にお入りになります。 食べ物の形でのご聖体は心の力づけ心の栄養の意味です。聖体拝領後友達であるイエスさまと 親しく話し合いましょう。最後の点ですが私達は聖書朗読を聞くことも自分を捧げることも全部 兄弟姉妹として一緒にします。この一致の心を持つならごミサは励ましとカになると思います。

このようにごミサにあずかって 自分の家に帰って 自分の小さな社会に再ぴ入って 主の乎和を分かち合いましょう。

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. マタイ書(26:26-29)
  2. ヨハネ書(13:1-15)
  3. ヨハネ書(15:1-17)

月, 05/17/2010 - 00:01

堅信②講話要旨  「父なる神様」

20年前に、私は聖地を巡礼しました。エリコで私は、一つの経験をしました。そこの 近所の子供は発掘の現場の丘にのぼって、上からお父さんを呼びました。使った言葉は 「アッバアッバ」でした。お父さんは、丘の上の子供を見て、徴笑み、はげましまし た。また、子供は急にすぺり台からおりてくるように、隆りてきて「アッバ アッバ」 ともう一度よんて、お父さんの腕にとびついて、抱かれました。本当に楽しい暖かい雰囲 気の場面でした。 イエス様ほ2千年前に同じ「アッパ」と いう呼び方をつかいました。というのは、イエスは「アッバ」父である神様について何回も何回も次 のように教えられました。

私たちの神様は罰する方、厳しい方、恐ろしい方、ではない、かえってやさしいお父さん である神様です。したがって、私たちは愛された子供です。イエス様はそのやさしい教え のために、その時代の小さい子供の言薬「アッパ」を使いました。(現在の「パパ」と同 じ使い方)非常に親しい暖かい言薬です。イエス様のこの言薬の使い方の裏にほ、大事な 教えの意味が含まれています。というのは、私たちを弱い子供としてうけ入れて下さる神 様は非常にやさしい方、そして私たちを大事にしてくださる方、いつも私たちを深く愛す る子供としてやさしく見守って下さる方です。

したがって、そのようなやさしい「アッバ」神様に対する私たちの答えは、やはり信 頼です。イエス様の時代の大勢の人々にとってば神様は罰する神、厳しい神、恐ろしい神 てした。人間は恐れを持って、厳しい掟を守りました。神様ば冷たい遠い方だと思ってい ました。厳しい尊敬だけを当時の人々はもっていました。

皆さん、私たちはイエス様のやさしい教えを受け入れたでしょうか。まだ、旧約時代の 信者でしょうか。神様は「アッバ」父だ、これはイエス様の慰めの訪れ、喜ばしいしらせで す。この教えは私たちへの大きな慰めであると同時に、大きなチャレンジをもとめます。そのチャレンジは神様のやさしさに信頼することなのです。堅信を受けることとはこのチャレンジに答える ことです。

★「慈しみ深い神よ、あなたの御手にわたしのすぺてを委ねまず。」★

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. イザヤ書(43:1-5)
    私たちを造られた主、神ば今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。私はあなたの名前を呼ぶ。 私は主、あなたの神あなたの救い主。わたしの目にあなたは価い高く、 貴く私は貴方を愛している。恐れるな、私は貴方とともにいる。
  2. ローマ書(8:15)
    聖霊によって、私たちは「アッパ」父よと呼ぷのです。この聖霊こそは、父なる神の 子供であることを私たちに悟らせて下さいます。
  3. マルコ書(14:36)
    イエス様の苦しみの時の祈りです。「アッバ」父よ、貴方は何でもお出来になります, この苦しみを私から取りさって下さい。しかし、私がねがうことてはなく、御心にか なうことが行われますように、
  4. イザヤ書(66:13)
    神はこう言われる。「母がその子を慰めるように、私はあなた達を慰める。」
  5. ルカ書(15:11-24)
    やさしいお父さんと放蕩息子のたとえ話。
月, 05/10/2010 - 15:08

堅信①講話要旨  「イエス様は私の主である」

”イエスは私の主である。”これは初代教会の最初の信仰宣言で、今も私たちの信仰の一番根本的なものです。.その意味はさきに聖書を通して読むことにより、イエスをだんだんと知ることです。イエスを知ることとイエスと出会うことは同じ意味です。
そのようにイエスと親しくなっていき、したがって私はこのイエスと一緒に自分の人生を歩みたいときめます。そしてイエスに向かって私はあなたの弟子です。,(イエスは私の主であるといった意味と同じ意味です。)
もちろん、すべてを捨てて社会から逃げるという意味ではありません。本当の意味は私達の毎日の家庭生活の中に、家・学校・職場でもそのイエスの道をいれ ることです。堅信を受ける準備としてイエスともっともっと親しくなりましょう。”イエスは私の主である”という簡単な信仰宣言を良くあじわいましょう。
私達は自分の牲格によって、自分のイエスのイメージを描かなければなりません。もちろん、描くためのの材料は聖書です。私(ケンズ神父)の好きな箇所はこれです。

 

①ザアカイ(ルカ19:1-10)
イエスに出会いたい気持ちがありました。
②ナインのやもめ(ルカ7:11-17)
イエス様は悲しみに沈んだお母さんとの共感です。
③ペトロは湖に沈みかけたのを見て、イエスが助けの手を伸ばします。.(マタイ14:22-33)
イエスは薄い信仰のペトロをありのままにうけいれて下さいます。
④イエスはゲッセマネで祈る。(マルコ14:32-_52)
⑤イエスはマリアという名前をお呼びになります。(ヨハネ20:11-18)
⑥疲れたもの重荷をおったもの、私のもとにきなさい。休ませてあげよう。親しい話し合いのやさしいお招きです。(マタイ11:28)


聖書のイエスの心と今のイエスの心はまったく、同じです。
皆さん、自分の性格によって自分のイエスを描きましょう.そのイエスに心を開いて、すべてをゆだねその道を歩みましょう。

水, 05/05/2010 - 07:41

イエスは今日も私たちに「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言います。けれども他人を愛するのは難しい(時によっては不可能な)こともあります。私たちを傷つけた人がいて心に深い痛手が残ったり、極端に異なった意見を持つ人々がいたり、自分とは正反対と思える性格だったり、会いたくない人、自己中心的な人、覇気のない人、うるさい人、私を見下したり、利用したりする人等々、様々です。 こんな人たちを一体どうやって愛せよとイエスは言うのでしょう。そう、不可能なのです。あなた自身の人間が持っている力では不可能であることを認めましょう。私たちに何ができるでしょう。

まずは"愛"という言葉です。イエスの掟である愛とは他人に対し、温かく良い感情を持つということではありません。それは、彼または彼女を欠点もすべて含めて謙虚に受け入れるということなのです。

イエスのように人を受け入れる(愛する)には次のような段階が重要です。
(1) 優しく、理解のある神のみ前で、自分自身の罪や欠点、弱さや短所を認めましょう。(詩編145参照 主は恵み深く思いやりに満ち、怒るに遅く、愛に満ちている。)
(2) 神がどれほどあなたを愛し、欠点も含めて、ありのままのあなたを受け入れているかを祈りを通して考えてみましょう。イエスは私たちにご自身をお与えになりました。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる(第2朗読)。この二つめの点は重要です。なぜならイエスは"私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい"と言われているからです。私たちが実践すべきこの愛は"私が愛したように"なのです。
(3)"イエス、私の父よ! あなたはありのままの私を愛し、受け入れてくださいました。ありのままの○○○○さんを受け入れられるよう、私を助けてください。私にはあなたの助けが必要です。あなたの力添え無くして○○○○さんを愛するあなたの掟を守ることは不可能です。私はあの人を愛したいのです"と祈りましょう。

火, 05/04/2010 - 16:53

 カトリック教会では今日は良き牧者の主日とよばれ、「主は刈り入れに働き手をお遣わしになる」(マタイ9:37)と祈り、イエスの呼びかけに応える特別な日です。私自身の司祭としての生き方の側面をお話ししようと思います。

イエスは「私は道、真実であり、命である」(ヨハネ14:6)と言っておられます。司祭としての私にとって、イエスの「私は命である」という言葉は、カギとなる言葉でした。35年前、私は司祭としての人生に新たな意義をもたらす小さな啓示を受けました。私は、友人の3歳になる双子を寝かしつけながら本を読んであげていました。もし、結婚していたならば、この子たちは私の子供だったかもしれない、との思いがよぎり、自問自答したのです。「命を与えるために、私は何をしているのだろう?」と。その時以来、私は司祭として、命、すなわちイエスの道具になろうと心してきたのです。

「命であるイエス」という言い方で、人々が心の平安を持てるように、信仰に喜びを得られるように、生きる意味を見出せるように、暗闇で光そして希望を見つけられるように、私は働き、祈ってきました。ノーベル賞受賞者の大江健三郎の「現代の日本社会は希望が持てないという大きな危機に直面しています」という言葉は私を駆り立てます。自分自身が希望の道具となれるように、暗闇の中の一本の蝋燭となれるように、イエスが私たちに与えた命の道具となれるように、祈っているのです。

では、どのようにこの「命」を体験できるのでしょうか。言い換えると、どうしたらイエスと会うことができるでしょうか? イエスと一体となれる五つの方法をご紹介します。
1)聖書、特に福音書をゆっくり注意深く読んでみましょう。
2)今、友人として私たちと共に生きているイエスに祈りを通して話しかけてみましょう。
3)聖体拝領を通してイエスと出会いましょう。
4)教会の共同体を通じてイエスと出会いましょう。
5)そして人々、特に困っている人々に対して思慮深く、親切にすることによってイエスと出会いましょう。(マタイ25参照)
これらの方法は誰にでもできることです。皆さんが命を得ることができるよう、私は司祭としてこれらのことを勧めているのです。私は、その命の道具、土の器にすぎないのです。

水, 04/21/2010 - 06:19

 あなたはキリスト教信者、あるいは信者になろうとしている人ですか? あなたは終生イエスの忠実な信奉者でいられると思いますか?  私にはとても無理です。 と、いうのはもし私が自分の人間としての強さと意志の力だけに頼るのなら無理だということです。しかし復活したイエスの力と導きに頼るならば、わたしは敬虔な信者で居続けるでしょう。イエスはそれを保証してくれています。

最初の信者の一人、使徒ペトロの例を見てみましょう。今日の福音の場面の3年前、イエスはペトロを呼び、「来て、私に従いなさい」と言い、ペトロはイエスに従いました。しかしペトロは自分自身の弱さを認めず、自分の人間としての力のみに頼ろうとしました。最後の晩餐のおりに、イエスはペトロに言いました。「シモン ペトロ、悪魔がお前を試すであろう...。しかし私はお前のために祈った....。私のところに戻ってきたら、お前の兄弟たちを強めなさい。」ペトロは、「主よ、私は牢獄に行くことも、あなたとともに死ぬことさえ覚悟はできています」と言いましたが、イエスは「ペトロよ、今日ニワトリが鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言うだろう」と答えたのです。(ルカ22:31-34)

そして、弱い人間ペトロが自分自身の力に頼った結果、イエスの言ったとおりになってしまったのです。ペトロは罪を犯しました。ペトロはイエスを否みました。ペトロはイエスの教会を離れてしまったのです!

復活のあと、イエスはペトロを叱るどころか、イエスの教会のリーダーの地位から降格させることすらしませんでした。われわれの神であるイエスは我々人間の弱さを理解し、受け入れてくださるのです。ペトロが三度イエスを否定したことに対応して、復活したイエスは「ペトロよ、私を愛しているか?」と三度尋ねました。ペトロが「主よ、私はあなたを愛しています」と答えると、イエスは「来て、そして私に従いなさい」と再び召し出されたのです。ペトロの話は現在に生きる私たちの話でもあります。私たちのステップは次の通りです。

(1)イエスは私たち一人ひとりに、名前で呼びかけておられます。「○○○さん、あなたは私を愛していますか?」
(2)答える前に、どんなにイエスがあなたを愛してくださっているか、考えてみましょう。イエスはあなたのために命を捨てたのです。
(3)神に忠実でいるためには、自分が弱く、罪深く、無力であることを認め、神の助けと力を求めましょう。祈りを通してイエスと温かい関係を築きましょう。(祈りは非常に大切なもの、心と心をつなぐものです。)
(4)そうして初めて、「主イエス、私はあなたを愛しています」ということとなり、そのように答えることができるのです。 イエスの温かい愛は私たちの心に新しい命を吹き込むでしょう。

火, 04/20/2010 - 12:10

今日は「神のいつくしみの主日」と言われる日です。辞書にはいつくしみとは神の思いやりと書いてあります。しかし特に怒濤のように多くの言葉が氾濫する現代にこの定義では、私たちの心に響いてはきません。神のいつくしみを理解するためには私たちは聖書を開き、イエスの一生におけるいつくしみの明確な例について熟考する必要があります。
では、二つの例をみてみましょう。(1)マグダラのマリアはあまりにも孤独で打ちひしがれ、悲しみにくれて、空っぽのイエスの墓の前で泣いていました。復活したイエスは彼女の前に現れ、「マリア!」と彼女の名前を優しく呼びました。イエスは彼女の涙を理解し、優しい同情を示されたのです。復活したイエスは今に生きる私たち一人ひとりを名前で呼び、同じいつくしみを注いでくださいます。
(2)今日の福音では12人の弟子の一人、トマスが出てきます。彼はイエスを約束された救い主として、彼の国をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかしイエスは罪人として十字架上で死んでしまいます。トマスの高い望みは消え失せてしまいました。彼は打ちのめされ、仲間から抜け出して一人になっていました。(何と人間らしい行動でしょう!) トマスのいない時にイエスは他の使徒たちの前に現れたのです。そのことを戻って聞かされたトマスは、「復活したなんて決して信じないぞ」と言ったのです。トマスは頑固で疑い深かったのです。復活したイエスは再び現れましたが、トマスを叱ることはありませんでした。イエスはあるがままのトマスを受け入れたのです。これは神のいつくしみの例です。ここで私は次の3つの点を明確にしたいと思います。
(1)聖書を開き、祈りの心をもってゆっくりとイエスのいつくしみ、優しさ、思慮深さと思いやりの例を読んでみましょう。奇跡の裏にその奇跡の理由、すなわち思いやりがあることをしっかりみましょう。
(2)同じイエスが復活して、今日も私たちとともに生きているのです。
(3)同じイエスに私たちは会うことができ、聖体拝領、共同体、また他者への優しさを通してイエスに出会う時、同じ思いやりをいただくことができるのです。「疲れた者、重荷を背負う者は誰でも私のもとに来なさい・・・」

火, 04/20/2010 - 13:37

 あなたはキリスト教信者、あるいは信者になろうとしている人ですか? あなたは終生イエスの忠実な信奉者でいられると思いますか?  私にはとても無理です。 と、いうのはもし私が自分の人間としての強さと意志の力だけに頼るのなら無理だということです。しかし復活したイエスの力と導きに頼るならば、わたしは敬虔な信者で居続けるでしょう。イエスはそれを保証してくれています。

最初の信者の一人、使徒ペトロの例を見てみましょう。今日の福音の場面の3年前、イエスはペトロを呼び、「来て、私に従いなさい」と言い、ペトロはイエスに従いました。しかしペトロは自分自身の弱さを認めず、自分の人間としての力のみに頼ろうとしました。最後の晩餐のおりに、イエスはペトロに言いました。「シモン ペトロ、悪魔がお前を試すであろう...。しかし私はお前のために祈った....。私のところに戻ってきたら、お前の兄弟たちを強めなさい。」ペトロは、「主よ、私は牢獄に行くことも、あなたとともに死ぬことさえ覚悟はできています」と言いましたが、イエスは「ペトロよ、今日ニワトリが鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言うだろう」と答えたのです。(ルカ22:31-34)

そして、弱い人間ペトロが自分自身の力に頼った結果、イエスの言ったとおりになってしまったのです。ペトロは罪を犯しました。ペトロはイエスを否みました。ペトロはイエスの教会を離れてしまったのです!

復活のあと、イエスはペトロを叱るどころか、イエスの教会のリーダーの地位から降格させることすらしませんでした。われわれの神であるイエスは我々人間の弱さを理解し、受け入れてくださるのです。ペトロが三度イエスを否定したことに対応して、復活したイエスは「ペトロよ、私を愛しているか?」と三度尋ねました。ペトロが「主よ、私はあなたを愛しています」と答えると、イエスは「来て、そして私に従いなさい」と再び召し出されたのです。ペトロの話は現在に生きる私たちの話でもあります。私たちのステップは次の通りです。

(1)イエスは私たち一人ひとりに、名前で呼びかけておられます。「○○○さん、あなたは私を愛していますか?」
(2)答える前に、どんなにイエスがあなたを愛してくださっているか、考えてみましょう。イエスはあなたのために命を捨てたのです。
(3)神に忠実でいるためには、自分が弱く、罪深く、無力であることを認め、神の助けと力を求めましょう。祈りを通してイエスと温かい関係を築きましょう。(祈りは非常に大切なもの、心と心をつなぐものです。)
(4)そうして初めて、「主イエス、私はあなたを愛しています」ということとなり、そのように答えることができるのです。 イエスの温かい愛は私たちの心に新しい命を吹き込むでしょう。

水, 03/31/2010 - 06:25

今週は「聖週間」と呼ばれ、私たちはイエスのご受難、十字架上の苦しみと死、そしてご復活を思い起こし、祈ります。このイエスの苦しみを考えてみましょう。

イエスが受けられた苦しみは、現代の私たちと関係ない遠い昔の歴史ではない、ということを実感することがまず大事です。この苦しみは今日の私たちに自在にあてはめることができます。聖パウロは「キリストは私を愛し、私の為に命を捧げました。(ガラティア人への手紙2:20)」と言っています。イエスの苦しみに感謝するために、この文をじっくり考えてみましょう。私たち一人ひとりも聖パウロと同じ言葉を使うことができます。するとイエスのご受難はたいへん意味のある、そして今日を生きる私たち一人ひとりの日常によく結びつけることができるのです。
イエスは残酷な肉体的拷問に苦しみました。背中は鞭打ち刑による切り傷で血だらけです。あなたの為に耐えた、イエスのあなたへの愛を感じてください。イエスの頭はいばらの冠で血だらけです。あなたへの愛を思ってください。私たちが体に痛みを覚える時、イエスは私たちとともにおられます。

イエスは心にも大きな痛手を負いました。イエスはゲッセマネの園で、(弟子たちは眠りこけていて)何の助けも得られず、恐怖におののいていました。友人であるユダに裏切られ、ペテロにはイエスを知らないとまで言われたのです。事実に反する告発、侮辱、パワハラそして一方的な裁判と続きます。これらすべては、イエスは私たちを愛しているからこそ、受け入れられたのです。兵士はイエスの顏にツバを吐きかけました。イエスの愛を思いましょう。

イエスの苦しみばかりに気をとられず、その裏にあるイエスのあなたへの愛に気がついてください。これはとても個人的なあなたへの愛です。

イエスは人間としてこのような苦しみを経験されたからこそ、神として私たちに「恐れるな、あなたが苦しんでいる時に、私はあなたとともにいる。」と言うことができるのです。

ルカ福音書のキリストのご受難の章(22:19から23:48)をとてもゆっくりと読んでみましょう。「キリストは私を愛し、私の為に命を捧げられた。」と常に思いながら読むのです。

読みながらしばし停まって、イエスの愛を味わいましょう。私達が苦しんでいる時、非常に特別な形ですぐそばにいらっしゃいます。イエスも苦しみを経験されたのです。イエスのお招きは特別な意味を持ちます。「疲れている者、重荷を背負っている者は皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」 今週、祈りと聖書朗読でイエスのもとへ行きましょう。暗闇から光へ変わることができます。

月, 03/22/2010 - 17:48

先週、イエスは、神は私たち罪人に対して慈しみにあふれている、という言葉で教えを説いていました。慈愛に満ちた父親と放蕩息子のたとえ話が紹介されました。今日の福音の中で、イエスは自らの行動と態度で同じ教えを示されています。イエスは姦通の罪を咎めましたが、罪を犯した人に対しては憐れみを示されました。この話は表面的には、罪はただ一つしかないように見えます。しかしもっと注意深く見てみましょう。他に、もっと深刻な罪が存在します。例えば律法学者とファリサイ人はイエスを罠にはめるために、この女性を容赦なく利用しました。彼らはこの女性を、皆の見世物にして最も屈辱的で恥ずかしい思いをさせたのです。彼らは女性を人間扱いせず、ただのモノ、イエスを罠にかける餌として扱いました。この男たちは、うわべだけの信仰をイエスに否定され、冷たく激しい憎悪を抱いていたからです。

しかし、イエスは誰も、律法学者やファリサイ人でさえも、非難していません。イエスはそこにいるすべての人たちに、この女性を責める前に、自分の良心を振り返ってみるように言ったのです。「罪のないものが、まず最初の石を投げよ。」 私たちは他人を裁いていないでしょうか? 良くない考えや行いを人のせいにしていないでしょうか? 人は知らず知らずのうちにしばしば私たちを傷つけます。私たちは権力を得るために他の人を利用していないでしょうか?

この聖書の箇所を読む時に気が付かなければならないことは次のことです。多くの場合は、大変な罪を犯した者がイエスからの愛と憐れみと許しを受けています。自らを(それほどの大罪人でなく)、ただ「小さな罪人」だと思っている人は、取り残されたような気持ちになるでしょう。聖書は、大罪人だけでなく「小さな罪人」まで、すべての人に神の憐れみは及ぶ、と意味しています。取り残された気持ちになることはありません!

誰しも時には誰かと衝突してしまいます。私たちは人間なのです! 人とのいさかいやきつい言葉は心に傷を残します。この傷のせいで人を許すことは難しくなります。このような時、私たちの神がいかに寛容であるかを思いおこし、そして(神の助けを得て)他人を許そうと努めましょう。「罪のないものが、まず最初の石を投げよ。」 2010年に対してなんと示唆に富んだ言葉でしょうか!

火, 03/16/2010 - 05:58

  待降節にあたり、皆さんにお勧めしたいことがあります。聖書のルカによる福音15章を開き、ゆっくりゆっくり、限りない神の愛を示す3つのたとえ話を読んでみましょう。迷える子羊の話、無くした銀貨の話、そして放蕩息子の3つのたとえ話です。放蕩息子の話で、長男に注目してみましょう。長男はまるで私たちのようです。彼は確かに父親の言うとおりにしていましたが、それは機械的に、上っ面だけそうであっただけで、父親への敬意や愛情を示していませんでした。むしろ、怒って父親に会いたくないと家に帰ろうとしなかったり、弟のことを「あなたの息子」と言ってみたりしていました。頑固で冷たく、容易に人を許さない性格とも言えます。しかし、彼に最も欠けていたことは、彼は父親が実際彼のことを非常に愛していたことを理解していなかったことです。彼はあまりにも自分のことばかり気にかけていたので、父親の愛に気がつかなかったのです。
この父の無限の愛について、よく覚えておいてください。父親は長男と会って話すために家から出てきました。そして次の大事な言葉を言ったのです:「わが子よ、あなたはいつも私と共にいる。私のものはすべてあなたのものである。」
この3つのたとえ話を通してイエスは私たちの神、御父がありのままの私たちをどんなに深く愛してくださっているか、教えてくださっているのです。放蕩息子が帰ってくるのではと期待して、父親は遠くの道を見ていました。そして次男を見つけると家から駆け出して彼を抱擁したのです。「わが息子よ、お帰り。」 (この時代の父親は、威厳に満ち、走ることなどしませんでした。そしてこれぼどひどく父を侮辱した息子を温かく迎えるようなことはありえませんでした。)しかし私たちの神、御父はこの世の父親とは違います。神は無条件に私たちを愛してくださっているのです。)
ゆっくりこのたとえ話を読んでください。祈りの心を持って時々黙想し、イエスの深い教えを感じるようにしましょう。私たちの父である神は私たち一人一人に今日も生きている声でおっしゃいます:「わが子よ、私はあなたを愛している。あなたはいつも私とともにいる。私の持っているものはすべてあなたのものである。」

火, 03/09/2010 - 09:31

私たちは祈るときにはあるがままの自分で神の前に立ち、真の自分自身をさらけだして神に話しかけます。しかし、神とは誰なのでしょうか。それはどのようなものでしょうか。今日のミサの聖書の箇所は、その神の手がかりをあたえてくれます。
出エジプト記:神はモーゼを名前で呼びました。聖書では、それぞれの人を名前で呼ぶということは、温かさや親しさの象徴です。神は私たちの名前をご存じで、名前で読んでくださるのです。祈りの中で温かい親密さをもって招いてくれたのです。しかし神は全能の創造主ですから、私たちも尊敬と崇敬を神に示すべきです。(これはモーゼが靴を脱いだことによって暗示されています。)神との親密さと神への崇敬、この二つのバランスが大事で、一方に偏りがあってはなりません。
神は常に私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。祈りは神に届くのです。神は「あなたの悲惨な状況が見えます。あなたの嘆願が聞こえます。そうです、私はあなたの苦しみに気がついています。あなたを助けてあげましょう。」と言っています。
「病気になった(あるいは試験に落ちたとか他の苦しみに遭遇した)のは教会に行かなかったからだ」などと人が話しているのを聞くことがあります。福音の中でイエスはこのような考え方を強く否定しています。私たちの神は、懲罰的な神ではありません。神は冷たい、厳格な律法の神ではありません。今日の福音の中で、ピラト総督により殺されたり、建設中の塔が倒れてきて死者が出たことについて語られています。このことを罪に対する報いだと言う人がいました。イエスはこの考えを否定し、神はそのようなものではない、神は人間の弱さを理解し、人間の回心を希望をもって待っている、と言っています。私たちはいつでも、あの放蕩息子のように、神のもとに戻り温かく迎え入れてもらえます。愛されている子供として、その優しい父に対して私たちは祈るのです。詩編103章8節と14節は私たちが祈る神のありようをよくまとめています。
「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い......
 それは、神は私たちが塵から造られたことを覚えておられるからである。」
かくも優しい神様に、わたしたちの祈りを届けましょう。

水, 03/03/2010 - 03:17

  今日の答唱詩編は詩編27章でした。これは神への信頼に満ち溢れているものです。ダビデ王は何もかもがうまくいかない時、この詩編で祈りました。あなたの祈りにも、どうぞお使いください。次のは特にお勧めです。「わたしの心はささやく、"神の顔を尋ね求めよ"と。神よ、探しているのはあなたの顔です。どうぞ御顔を隠さないでください。」 "顔"という語は単に顔だけでなく人間そのものを意味しています。 
  神の顔とはどんなものでしょう?つまり、神とはどんなものでしょう?神とは誰なのでしょうか?イエス・キリストを通して、私たちは真の神を見ることが出来ます。今日の福音には、イエスが山に登り、イエスの顏が光と栄光に包まれる情景が描かれています。イエスの服も白く輝いていました。これはイエスが真の神であることを具体的に示す福音の記述です。もうひとつ別の山、ゴルゴダの丘を見てみましょう。イエスはここで十字架に釘で打たれました。彼の顔は血だらけとなり、苦痛の表情となりました。服も脱がされてしまいました。私たちのイエスは真に人間でもありました。100%神であるとともに、100%私たちのような人間であったのです。
  真の神の心を知るために、人間イエスの顔を見てみましょう。カナの婚宴の際、イエスは笑い、客たちとともに楽しみ喜んでいました。そして一人息子を亡くしすすり泣く未亡人に出会った時は、友人ラザロの墓で涙を流した時と同様、彼女とともに嘆き悲しみました。舟の中ではイエスは疲れた顔をして眠っていたこともあります。また、生まれ故郷のナザレを追い出された時には、傷つき落胆した表情を見せていました。寺院で貧しい人たちに高い値段を吹っ掛けた商人たちに対し、怒りの表情を見せたこともありました。また、母親や子供たちには優しく、楽しげに招き入れ、祝福を与えています。ザアカイには理解を示し、(裏切った)ペトロには許しの表情を見せています。イエスは今日も私たちの間に生きているのです。これが今日、私たちに対する神の顔なのです。今週、私たちは短くも静かな時間を持ち、私たちの心のささやきを聞いてみましょう。命と平和の優しい神に会う心のやすらぎ、これを私たちは真に欲しているのです。
「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(詩編46-11)
「主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠さないでください。」(詩編27-8,9)

火, 02/23/2010 - 12:43

 四旬節に入りました!あなたにとって四旬節とは甘いもの、お酒、チョコや砂糖、あるいは映画などを我慢するようなことでしょうか? 物質的なものは心や精神的なものに比べれば実に価値がないということを実感するようになるという意味で、このような犠牲を捧げることは良いことです。しかし「モノを我慢する」ことに過度に重きをおかないようにしましょう。私たちの宗教が、単なる否定的なうわべだけの宗教になりかねないからです。この四旬節に(捧げものをしつつも)私たちは、神が私たち一人ひとりをありのままで愛してくださっていると実感できるように、自分の心を神に解き放ちましょう。神は私に愛と理解と慈しみをくださいます。それは私が神にあげることのできるちっぽけなものに比べればはるかに重要なものです。実際のところ、神の愛の深さを実感し、それに応えようとすることの方が、私たちはより多くのものを神に捧げることが出来るのです。

今日の第一朗読をうけて私たちは皆、「主は私の声を聞き、私のみじめさ、私の労苦、抑圧された私を見て、そして私を助けてくれる」と言うことができます。それが神の私への愛です。 詩編91の中で私たちも「神は、わたしの逃れ場、わたしの砦、私は神に寄り頼む」と祈ることができます。主は「私はあなたと共にいる。私は苦境にあるあなたを助ける。」と言っているのです。

灰の水曜日に私たちは、「悔い改めて福音を信じなさい。」との言葉とともに額に灰を塗られます。「福音」は、神が無条件に私たち一人ひとりを愛してくださるという嬉しい知らせです。先程の祈りによって、この素晴らしい知らせを考えましょう。この祈りの言葉は、「あなたがたは塵から造られ、そしてまた塵に還っていくことを忘れるな」とともに語られるのです。この言葉は悲観的に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
私たちはみないずれ死にます。この事実から逃避して生きて行くことは健全ではありません。死ななければならないという事実を抑圧しようとするかもしれませんが、死は必ず存在し、心の暗い底に潜んでいます。福音とカトリック教会(そして多くの現代の精神科医)は人の死に向き合うことは健康的なことであると考えています。聖書は死はすべての終わりではないと言っています。実際には、死は神との新しく素晴らしい暮らしの始まりなのです。死は決して終着駅などではなく、単に乗換駅にすぎません。四旬節において、私たちは天国の神との新しい暮らしを固く信じて死と向かい合います。(第二朗読はイエスと私たち自身の復活を強調しています。)
もし私たちが神の愛に包まれていることを真に信じていれば、天の神の元に戻ることは喜びとなります。イエスは誘惑、苦痛、拒絶、裏切りを経験しました。彼は私たちの側に立って人生の道を歩まれたのです。何を恐がることがあるでしょう?
「恐れるな、私はあなたと共に居る。」

木, 02/18/2010 - 05:45

今日の聖書朗読の中で、エレミアとイエスは共に私たちの毎日の生き方について紹介してくれています。それは神への信頼と依頼です。  エレミア書の第一朗読と詩編1で、砂漠の中で育つ二本の木のたとえ話が読まれました。一本の木は外見は健全ですが、根はごく浅いものでした。日照りになると木にとっての活力源である水を得ることができず乾燥して枯れてしまいます。もう一本の木は地中深く根を張り、水源まで届いています。その葉は青々として干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめません。その木は深いところからの水によって命を得ているのです。  根が浅い、木のような人にとって最も大事なのは品物や財産です。そのような人にとって心の優先順位は世渡りを上手にやっていくこと、快適でいること、学校で良い成績をとること、人気を得ること、良いグループに入ること、などなどです。このような人は根っこが浅く、品物では心を満足させることはできません。つまづいた時、苦しい時には、心は空虚で活力はありません。  聖書は、(エレミアでも、そして今日イエスも)活力と平和をもたらす違う生き方を示しています。他の人と同じ仕事をしていますが、日々の仕事をしながらも神を深く信頼しています。人間の弱さを認識し、神の助けと力を求めて、神を信頼しています。神ご自身から命を得る深い根っこを持っている人です。    謙虚に人間としての弱さを認め神に頼るということは、聖書学的には「貧しくなる」ということです。多くのお金持ちは、自立できて、神など必要ないと思っています。品物への執着は、精神的な感覚を鈍らせます。心が必要とするものは無視されていくのです。一方、貧しい人々は現世的なものはほとんど持っていないかわりに、「私たちには、力になってくれる神がいる。」と言うことができるのです。聖書学的な意味で、貧乏になることを学ぼうではありませんか。それこそが、幸せで心安らかになれる唯一の道なのです。「神を信頼するものは幸いである。」(エレミア)すなわち、「心の貧しいものは幸いである。」(イエス)

水, 02/10/2010 - 12:58

 後に聖人となったペトロはもともとは漁師を生業としていました。彼は漁に最適な時間は夜であることを知っていました。日が明るいと魚は獲れなかったのです。ある夜ペテロは夜通し漁をしたのに一匹も魚は獲れませんでした。その夜の漁は失敗でした。

 イエスはペトロの舟を説教壇の代わりにして人々に教えを説きました。その後、イエスはペトロに「沖に漕ぎ出て網を降ろし、魚を獲って来なさい。」と言いました。ペトロは日中にそのようなことをしても無益だと知っていましたが、大工であるイエスの言うことに素直に従いました。イエスはペトロの失敗を責めず、むしろ励ましました。ペトロはイエスに従うようになり、それは報われました。ペトロは新しい人生と力を見つけたのです。

 私たちはみな、人生において大なり小なり失敗をします。友人として、チームのメンバーに選ばれたかったのに、他の人が選ばれた...意見を聞いて欲しかったのに、声の大きい他の人が注目されてしまった、などです。ベストを尽くしても、負けたり失敗したりと言うのはよくあることです。ものすごく頑張って勉強したのに試験に落ちたり、結婚生活に努力を重ねたのに破綻したりします。子育てに全力を尽くしたのに子供が全てを拒否し、親として失敗したと思うこともあります。どうか、知っておいてください。私たちの神、イエスは、「お前が悪い。お前のせいでこうなったのだ。」とは言いません。本当の失敗とは、つまづいたことではなく、つまづいた後に立ち上がろうとしないことなのです。

 ペトロは失敗しました。が、イエスは「お前のせいだ。」などと彼を責めたりはしませんでした。そうではなく、イエスは「ペトロよ、櫂を手にして再び沖に漕ぎ出しなさい。」と言ったのです。

 イエスは今も私たちに対して同じことを言います。責めることなどありません。ただ、「もう一度、一緒に始めましょう。」と言うのです。

 失敗の後に、立ち止まって祈れば、私たちは失敗一つひとつの裏に神からの呼びかけがあることに気づくでしょう。神は私たちに再スタートを切るよう呼びかけ、そして「私があなたのそばにいるのだから恐れることはない。沖へ再び漕ぎ出しなさい。」と言っているのです。

 日本のことわざにあるように、「失敗は成功のもと」なのです。 失敗しても自分を責めるのは止めましょう。私たちの優しい神様は決して私たちを責めません。失敗の後に、私たちは神様ご自身とその助け、その力に出会うことができるのです。試してみてください。

金, 02/05/2010 - 18:44

 神はわずか19歳のエレミアに、預言者になるように命じました。時は政治的動乱が続き、戦争の兆しが見られる危険な時期でした。エレミアは故郷を出て首都エルサレムへ行き、王に悔い改めさせよと命じられたのです。けれどもエレミア自身、自信は全くありませんでした。弱冠19歳、傷つきやすくもろい性格だったのです!この任務に彼の性格は適任ではありませんでした。しかし神はこう言ったのです。「エレミア、恐れるな。私はあなたと共にいるのだから!」この神の助けを得て、エレミアは人生における彼の仕事を達成することができました。
 今日、イエスは私たち一人ひとりに、「私はあなたと共にいる」(マタイ28:20)と言います。この深い意味を理解するために、祈りの心をもってよく考えてみましょう。
 この「私」とは私たちの神様のことですが、この神は私たちと同様に100%人間になられました。(同時に依然として100%神でもあります。)釣り合いをとって考えてみてください。神性により人間性を否定したり、またその逆をしないでください。イエスは本当に、私やあなたと同じように感じました。彼は本当に、真の人間だったのです。
 今日の福音の情景を見てみましょう。イエスは故郷を離れていましたが(荒れ野、ヨルダン川での受洗、カナの奇跡、山上の垂訓を経て)、故郷に帰ってきました。そこでユダヤ教寺院で聖書を読み説教をするように頼まれました。初めのうち人々は皆、イエスの言葉に打たれました。しかし次第に、彼はわが村の大工に過ぎないではないか!と思い直してきました。そしてイエスが、神の愛と憐れみは全世界の諸国民のため等しくある、と言ったので人々は憤激したのです。彼らはイエスを町から追い出し、崖から突き落として殺そうとすらしたのです。
 この時イエスがどんな気持ちであったか想像してみてください。あなたは、人から拒絶されたり軽んじられたりしたことがありますか?もしそうであれば、その時イエスはあなたとあなたの苦痛を共にしています。こののち、イエスは誤解をうけ、孤独、友人ペトロやユダの裏切りを経験します。さらには友人の死、いじめ、屈辱、空しさ、そして恐ろしい肉体的な苦しみを経験したのです。もしイエスがこれらすべてを経験していなければ、イエスは「私はあなたとともにいる」などとは言えなかったでしょう。
 私たちの神は人間であることを経験したからこそ、私たちがどのように感じるのかをご存知です。イエスは私たちの弱さに同情し、無原罪にもかかわらず、あらゆる点において、私たち同様に試練に遭われたのです。ですから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ人への手紙4:15)

木, 01/28/2010 - 09:10

以下は現代風のたとえ話です。ちょっと考えてみてください。
2区画にわたってアパートいくつも持っている裕福な地主さんがおり、そこには70世帯が住んでいました。住人はみな貧乏で、失業者も多くいました。多重債 務者は珍しくなく、家賃は6カ月も延滞となっていました。地主の代理人が各部屋を訪れ、子供や老人の数、家族の健康、借金の額などを聞いてまわりました。 この調査は住人たちに不安を抱かせることになりました。「私たちは追い出されるのではないか。そうなったら、行くところがない。」と彼らは思いました。お まけに開発業者がこの土地を欲しているという噂もありました。公民館で全住人向けの説明会があるから出席するようにという通知が地主の代理人から来て、住 人達の不安はますます大きくなりました。
住人は皆、沈む心で説明会に集まりました。希望など全くありません。責任者が立ち上がり、説明を始めま した。「皆さんには大きな借金があり、家賃が滞納となっています。しかしこのアパートの家主は優しい方で、あなた方の苦境を理解しています。良いお知らせ があります。彼は、借金をすべて帳消しすると発表しました! 家主はみなさんに新たな出発をしてもらいたいと願っています。家主は優しい人で、皆さんのこ とを信じています。」
暫くしんとしていました。事態を即座に理解できなかったのです! そして次の瞬間、お互いに抱き合ったり、喜びのあまり涙 ぐむ人もいました。「この優しさで私たちは救われたのだ。」 自宅への帰り道、彼らは青い空、木々の緑の濃さ、道端の花の美しさに気がつきました。いつも 見ていたものなのに、初めて見るもののようです。実際、日常生活は美しい味わいがあるものになったのです。(たとえ話終わり)


今日の福音ではイエスは神が人間の形をとった理由を述べています。それは、「神が私たち一人ひとりを愛してくださる」という良い知らせを 私たちに伝えるためです。神は、子供達の面倒を良く見る、愛情深い父なのです。神はありのままの私たち一人ひとりを受け入れてくださいます。「神はありの ままの私たちを愛してくださる」今週、何度も思い出し自分自身に言い聞かせてみましょう。あなたの日常生活に新しい味わいを与えてくれるでしょう。

日, 01/17/2010 - 00:00

私たち一人一人、自問自答してみましょう。「私は神様と温かくて親しい関係を築いているでしょうか?イエス様と私は親友でしょうか?」 これが今日の福音のテーマです。
聖書では深い真実を教えるために、具体的なたとえ話が使われています。今日の福音ではヨハネは、私たちが新しい時代にいることを示すために食事の際におきた奇跡を「しるし」として使いました。今では私たちは温く、親しく神と出会うことが出来ます。
カナの祝宴でブドウ酒が切れてしまいました。(これは、神が怖いものであった古い時代の終わりを意味します。)味気のない水が楽しみに満ちたブドウ酒に変 わりました。この変化は婚宴の楽しく親しい雰囲気の中で起きたのです。新しい時代が始まったのです。もはや神は遠く、怖いものではありません。新しい神 は、私たちの日々の暮らしに寄り添い、温かく愛情深い存在です。神は、あるべき私たちを問うのではなく、あるがままの私たちを受け入れてくれます。神は私 たちと一家団欒の食卓を囲み、共に喜びたいのです。神は親しく温かい交際に私たちを招いているのです。
神は私たち一人ひとりを、それぞれの名前で呼びます。(これは聖書において親しさを表すしるしです。)
婚宴で皆に話したり飲食した時、イエスは神の温かさを見せています。イエスは皆と一緒に楽しんだのです。
この時のぶどう酒ワインは最高級で、120ガロン(これは540リットル、ワインボトル800本もの量です!)だったと言われています。これは神の賜物はいつも最高級で、気前が良いというしるしです。
その同じ神様に今日、私たちも出会うことができるのです。神であるイエスは今も生きており、私たちのすぐそばにいます。祈りを通じてイエスと出会い、親交 を深め、一緒にいて親しく話しかけましょう。イエスの温かい友情を、聖体拝領というイエスご自身との食事の中で味わいましょう。
イエスは生きている声で私たち一人一人に語りかけます。「友よ、わたしはあなたを名前で呼ぶ。私のところでくつろぎなさい。疲れた者、重荷を負う者は皆、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」
何の恐れも心配もなく、親しく温かい関係を神様と持つことができる。この素晴らしい神からの賜物を味わいましょう。

火, 01/12/2010 - 22:05
イエスの受洗は私たち自身の洗礼の意味について教えてくれます。
私たちが洗礼を受ける時には水が、(大抵は場合ひたいに)注がれ、「父と子と聖霊のみ名によりあなたに洗礼を授けます」という言葉が唱えられます。この言葉はイエスご自身が言われた言葉です(マタイ28:19)。
教会儀式として行われる洗礼式を見てみましょう。(ちなみに、緊急の際には誰でも、洗礼を望む者に対して洗礼を授けることができます。)
最初に受洗者の名前が呼ばれます。「太郎さん(花子さん)、私はあなたに洗礼を授けます...。」
これは聖書の一節を思い出させます。神は「イザヤ、私はあなたを名前で呼びます。」と言い、イエスは「私はそれぞれの羊の名前を呼んで連れ出す。」(ヨハネによる福音書)
洗礼では水が使われます。水は清めと命の象徴です。人や植物にとって水は命の源です。私たちは神ご自身の命をいただくのです。
洗礼によって私たちは、父と子と聖霊の命と愛に入って行くのです。 私たちは神の愛の中に入っていくのです。15世紀のイコン画家アドレイ・ルブラーは三 位一体を3人の天使として描きました。そのイコン画は祈りに使われました。その絵を見ていると、描かれている絵の雰囲気、神の愛、に引き込まれていきま す。私たちはその、あるがままの私たちを受け入れてくださる神の愛に入っていくのです。
神父は受洗者に聖別された香油を塗油します。油は力と健康の象徴です。神は私たちに力と心の健康を与えてくださるのです。
過ぎ越しの大蝋燭から火が分けられ、受洗者の蝋燭に火がともされます。この時神父は受洗者に「光の子として歩みなさい」と言います。まさしく、暗闇の世の中と人生にある私たちに対して、神は光を与えてくださるのです。
洗礼において神は公に誓いを立てられています。神は、受洗者一人ひとりに次の厳粛な誓いを立てられます。
「恐れるな、私はあなたと共に居る。私はあなたを守る。」
私たちも誓いを立てます。(契約は常に双方向なのです。)
私たちは「私の神よ、私はあなたを心から信頼し、私自身をあなたの御手に委ねます」と言います。
洗礼において、憐れみと優しさの神は私たち一人一人に生きている声で、「あなたは私のいとしい子供です。私はあなたを愛しています」と言うのです。
何という慰め、何という勇気づけ、でしょうか!
火, 01/05/2010 - 20:08

公現の古代のお祝いは、神がすべての国民と民族の前に、ご自身を現したということを意味しています。イエスはあらゆる人々、あらゆる時代のためにおられま す。イエスのところに最初に来て礼拝したのは、ユダヤ人の羊飼いたちでした。そして次にイエスを拝みに来たのは、ユダヤ教ではない3人の博士たちでした。 これは明確に聖書学的に意味を持つ教え、キリストは全ての人々のためにおられる、ということです。
3人の博士たちは星によって導かれてやって きたのですが、なおイエスを探さなければなりませんでした。私たちも日常の暮らしにおいて、導きの星があります。それはキリストご自身です。しかし私たち も彼を祈りによって探さなければならないのです。そのために、静かな時間や導きの星であるキリストに対して私たちが敏感になれるように、静かな心を持つ必 要があります。そのような導きは私たちの日常に意味と味わいを与えてくれます。
公現は美しい祝祭ではありますが、厳しい一面もあります。私た ちはみな、キリストの神に受け入れられています。私たちは、自分とは異なった人々、つまり違う国、違う宗教、違う性格、違う趣味、違う考えといったものを 受け入れることができるのかと問われているのです。                                                                                    3人の博士たちはイエスに贈り物を捧げました。私たちもイエスに贈り物、私たち 自身を捧げましょう。イエスに静かな祈りの中で、価値ある時間を捧げましょう。人を助けるための時間を捧げましょう。イエスご自身がそうしなさいと言って いるので、安心してイエスに私たちのストレス、疲れ、痛み、空虚さ、寂しさを捧げましょう。そしてイエスに私たちができる最大の贈り物を捧げましょう。そ れは私たちを傷つけた人を許すことです。それがたとえ実行不可能なほど大きなものであっても、少なくとも、許すことができるように神の賜物をキリストに乞 いましょう。(これが私たちを傷つけた人を許す最初の一歩です。)
キリスト教に限らず多くの宗教で、神に対して贈り物をするのは習慣となって います。多くはお金やモノです。しかしそのような贈り物は私たち自身(心、思い、体)の贈り物の外面に過ぎないということは十分認識しておくべきです。神 に対しては、心の贈り物がより大切なのです。

月, 12/28/2009 - 09:07

2009年「今年の漢字」は「新」でした。(聖書現代英語版の)詩編80章18節には「神よ新しい命を私たちに吹き込んでください」とあります。このクリ スマス(=キリストのミサ)に、新しい命、新しいスタート、新しい心を準備しましょう。今日の聖書朗読は私たちを導いてくださいます。
ミカは紀 元前700年にいた預言者、つまりは神の代弁者でした。その当時、王侯貴族、寺院の神官や裕福な商人は自分たちの贅沢にしか興味がありませんでした。貧乏 な人たちは地に這いつくばり、絶望のうちに暮らしていました。預言者ミカを通じて神は、「希望を持ちなさい。ベツレヘムから平和が訪れます。彼はあなたが たの優しい羊飼いとなるでしょう。」と言ったのです。神は有名な首都であるエルサレムではなく、そこから10キロ離れたところにある村を選ばれました。神 はいつも世間の弱者を気にかけますが、それは彼らが神に頼っているからです。それでは、私たちは神に頼っているでしょうか?
神に恵みを願うことは、私たちの祈りの大事な一部であります。詩篇80章に書かれている、神の助けを求めるお願いを見てみましょう。私たちはそのように神に恩寵を乞い願っているでしょうか?
今日の聖書朗読のヘブライ人への手紙の内容はちょっと難しいかもしれません。しかしこれには私たちの日常の暮らしに役立つ、私たちが新しくなれる大事な真 実が含まれています。全能の神は天の栄光を脇に置き、イエスという名前の、私たちと同じ人間となりました。イエスは私たちに現世と天の国での平和を与える ために十字架上で自らの体を捧げました。イエスは私たち一人ひとりに対して、次の厳粛な約束を更新し続けています。それは、「神である私はあなたととも に、常にいます。私はあなたを守ります。」 私たちはこの約束を信じるでしょうか?
今日の福音ではマリアの例が描かれています。神の母となるこ とに同意した後、マリアは天使より従姉妹のエリザベスが妊娠したことを告げ知らされます。自分自身の都合はさておいて、マリアは即座にエリザベスを助けに いきます。エリザベスの家までは、険しい130キロの道のりを歩いて4日もかかりました。私たちは思いやりや助け、励ましを人々に与えているでしょうか?
上記の四つの質問について自分自身と向き合い、自問自答してみましょう。これがクリスマスを迎える準備です。そしてこれこそが新しい自分、生き生きとして希望と喜びにあふれる自分になれる道なのです。
「ああ神よ、新しい命を私に吹き込んでください。」(詩篇80章18節 現代英語版)

月, 12/28/2009 - 12:55
私は時々、イエスやマリア、ヨゼフがあまりにも高い壇上に掲げられているように感じます。私たちは彼らを超人扱いしています。神ご自身は私たちと同じ人 間になられたのです。イエスは超人ではありません。そのようにイエスを扱うのは、イエスを私たちから遠ざけることになります。遠くて、近づきがたい存在と なってしまいます。こうなると、私たちの祈りは冷めたものになります。イエスは「疲れた者、重荷を負っている者は皆、私のもとへ来なさい。休ませてあげよ う。」と言っています。イエスは、心配、恐怖、痛み、裏切りなどで疲れるということをご自身で私たちと同じように経験なさったのですから、とても近づきや すい存在なのです。
イエスの義父であるヨゼフと母であるマリアにも同じことが言えます。マリアもヨゼフも、光り輝く無痛の世界に住む存在ではありませんでした。今日の聖書の 一節に、彼らの実際の生活の中での苦しみの一端が表れています。例えば、マリアが特別な子供を産むための部屋すら借りることができなかったヨゼフの情けな さを想像してみてください。マリアは自分の赤ちゃんを、かわいいゆりかごではなく、動物のかいばおけの中に寝かせたのです。そしてその後には外国であるエ ジプトに、脱出しなければなりませんでした。これらの苦しみに耐えるには、神への信頼が必要でした。私たち自身が神の愛や恩寵、神との親しさを感じること ができない時でさえ、神は私たち一人ひとりを非常に注意深く思いやってくださっています。私たち一人ひとりは、私たちの父の子供であり、神は私たちを非常 に愛してくださいます。(1 ヨハネ)
今日の福音では家族の誤解が描かれています!これは誰の家でも起きていることです。マリアは、「なぜこん なことをしてくれたのです?」と問いただします。同じように私たちも苦しみに出会った時、祈りの中で神に向かって「神よ、どうしてこんなことをしてくれた のですか?」と言ってみることは大事であると私は信じています。おそらくその時、あなたは傷ついていたり神に対して怒っていたりすることでしょう。神はあ りのままの私たちを受け入れてくださるのですから、それで構わないのです。大事なことは、私たちが祈りの中で神に出会い、神が希望と平安、そして苦しみの 真っ最中であっても喜びを、私たちに与えてくださるような機会を持つことなのです。是非試してみていただきたいと思います。これはききめがあります。
私たちと同じ人間という存在を経験した神がいるということはすばらしいことです。私たちの神は、極めて理解に富み、近づき易い存在です。マリア様、ヨセフ様、若いイエスを育ててくださって、ありがとうございます。
木, 12/17/2009 - 20:55
私はあまり調子がよくない時に誰かに「頑張って!しっかり!」などと言われると、かえって反発を覚えます。電灯のスイッチを入れるように簡単に、心の中 の喜びの灯をつけることなどできません。しかし今日の聖書朗読の中では、神ご自身が私たちに「喜べ!」と言っています。さあ、そうであるならば話は全然違 います。神は私自身の人間の力で喜ぶのではなく、神に頼るように言っているのです。神は私たちに喜びと平和、そして勇気を贈り物としてくださるのです。私 にとってそれは大きな慰めと励ましであり、痛みと空しさの真っただ中でさえ喜びを与えてくれるのです。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これ が私たちの愛情深い神のはたらきなのです。
今日の聖書朗読の中からいくつかのことばについて考えてみましょう。
「王なる主はお前の中におられる。」(ゼファニヤの預言)
「神は私の力、私の歌。」(イザヤ書)
「主は近くにおられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。」(使徒パウロのフィリプの教会への手紙)
続けて聖パウロは祈れば平和と喜びが私たちにもたらされると言っています。
祈りはなぜこのように効果的なのでしょうか。それは、私たちが祈りの中で神とともにリラックスできるからです。神はありのままの私たちを受け入れてくれる ことを、私たちは知っています。神は無条件に私たちを愛してくださるのです。この素晴らしい真実を理解することで、私たちは心の平和と喜びを得ることがで きるのです。
イエスは生きている声で私たちを招いていらっしゃいます。「疲れた者、重荷(心労)を負っているものは誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。恐れるな。私はあなたのそばにいて、あなたとともに人生の旅路を歩く。」
これらの言葉はわたしを元気づけ、私は真に喜ぶことができるのです。
私はこれを読むすべてのひとが、神がお与えになる平和と喜びを得ることができるよう祈ります。
火, 12/08/2009 - 23:38

バラクの時代、ユダヤ人達は絶望のどん底にいました。彼らの美しい寺院は破壊され、遠くバビロンに虜囚として拉致されたのです。彼らの心は暗闇にさまよっ ていました。バラクはそのような彼らに、神が助けてくださるから希望を持つようにと説いたのです。神は自由を約束してくださいます。詩編126章にあるよ うに彼らは救われたのです。神は彼らの闇を光に変えたのです。

私たちは誰でも心に何らかの闇を持っています。希望と自信を持って、光がやってくるのを待ちましょう。「主は曙の光のように必ず現れる」(ホセア書6:3) イエスは、暗闇の中での私たちの光なのです。

福音の中で、洗者ヨハネは私たちに、光の源、救い主イエス キリストの来臨に備えるように言っています。
しかし私は今日の福音から一行だけ選びたいと思います。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」という一節です。聖書の中で荒れ野とは、象徴 的な意味を持った特別な言葉です。祈りの中で神と出会える静かな場所なのです。忙しい現代の都会暮らしの中で、私たちも皆、自分自身のための小さな荒れ 野、静かな時間が必要です。忙しい日々の中に静けさが必要なのです。テレビやパソコン携帯電話やi-podなどで雑音にあふれた忙しい日常がもたらす雑音 のさなかにいる私たちの心は平静を要しているのです。忙しくなればなるほど、私たちは静かな祈りの時を持つ必要があります。祈りの中で神と出会い、日々の 仕事は己の力のみではできないと実感するのです。私たちは神の力に頼みます。神と一緒であることを実感することによって、最も穏やかにストレスを解放する 効果を私たちの全人生にもたらします。人生の道は、よりまっすぐに、より平坦になっていきます。私たちの心に光が灯るのです。

待降節は私たちが基本的なことを考える時です。神は私たちの近くに来てあたたかい光を当ててくださるために人間となられました。
神ご自身がいかに優しく身近なものであるか感じられるように、静かな時を持とうとしているでしょうか。私は私の心を明るくしてくれるよう神に頼むでしょうか。確かな希望を持って、祈りそして待ちましょう。
「主は曙の光のように必ず現れる」(ホセア書6:3) さあ、私たちも「荒れ野」に行きましょう。

火, 12/01/2009 - 20:37
「不安指数、日本は11カ国中最高値」という見出しが今朝の新聞に載っていました。不安、恐れ、心配事は私たちの住む現代社会を蝕んでいます。ご自身を 振り返ってみてください。本当に幸せで満ち足りているでしょうか。恐れは人の心を最も不調にさせてしまうもので、心の癌のようなものです。私たちは自分自 身をも恐れます。私たちは自分自身のありのままを心から受け入れているでしょうか。他人を恐れていないでしょうか。自分の将来を恐れていませんか。病や誰 もが避けることのできない死を恐れているのではないでしょうか。(私たちは、忘れようとすることによってこれらから逃げることができますが、心の底ではこ れらへの恐れは厳然としてあるのです。)私たちは誰でも、何か恐れがあるのです。私たちを愛し受け入れてくださる、私たちを助けたいと思っている神のみ前 で、恐れていることを挙げていくことは良いことです。

今日の第一朗読(エレミヤ33:14-16)で、バビロン捕囚の身になって絶望と恐れの淵にあった人々に神は希望を与えています。今日、もし同じ神を信 じれば私たちも「安らかに住まう」ことができます。同じ神は私たちに寛大であり、私たちの中で働いてくださるので、私たちは隣人や人類全体への愛を強める ことができるのです(第二朗読:テサロニケ3:12)。イエスは福音(ルカ21:34-46)の中で「生活の煩いで心が鈍くならないように注意しなさ い。」と言われ、 さらに。「生き残るための力を得るよう、目を覚まして祈り続けなさい。」と続けます。これが待降節のメッセージなのです!クリスマスま での4週間という短い間、毎日少なくとも5分、沈黙の祈りをささげましょう。私たちの心の中で神様が働いてくださるようにするのです。忙しさや、心配や恐 れに心が捉われていると、私たちの心で神が働くのを妨げてしまうかもしれません。

今週、聖書の中から次の4ヶ所を考えてみましょう。
(1)詩編25 (今日の答唱詩編)「神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。」
(2)1ペトロ5:7 「思いわずらいは、何もかも神にお任せしなさい。」
(3)マタイ11:28 「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。 」
(4)イザヤ43:5、ルカ12:32 「恐れるな、私はあなたと共にいる。」
これらの祈りによってあなたの恐れや不安は朝露のごとく霧消することでしょう。