日, 11/21/2004 - 00:00

今週から聖書週間ですので、これにちなみまして「聖書で祈る」ということについてお話したいと思います。

みなさん、聖書は神の言葉が書かれた本で、心に入る力がある特別な本です。 旧約聖書・新約聖書、は大昔に書かれたメッセージではなく、現代にあてはまる神様からのナマの声・生きている声です。

新約聖書については、イエス様みずから行ってくださる深いご説明、とも言え、これに私達は習いましょう。イエス様は、落胆し自分を見失っている弟子に聖書を説明してあげました。この弟子は旧約聖書をすみずみまで暗記しているような人物でしたが、イエスは聖書のその弟子自身にとっての本当の意味を教えました。

わたくしたちも、イエス様に「自分の心にとっての本当の意味を教えてください」、と祈りましょう。

典礼聖歌388番「ガリラヤの風かおる丘で」

ガリラヤの風かおる丘で 人々に話された 恵みのみ言葉を わたしにも聴かせてください。

嵐の日、波たける海で 弟子たちを諭された 力のみ言葉を 私にも聴かせてください。

ゴルゴダの十字架の上で 罪びとを招かれた 救いのみ言葉を 私にも聴かせてください。

夕暮れのエマオへの道で 弟子たちに告げられた 命のみ言葉を 私にも聴かせてください。

作詞 別府信男 典礼聖歌©1980,あかし書房より、

 

日, 11/14/2004 - 00:00

みなさん、夕べも肌寒く、秋もずいぶん深まってきました。
季節の変わり目ということなのでしょうが、私は不注意から風邪を引いてしまい、しばらく寝込んでいました。

体が自分のいうことをきかない、という意味ではまるで80歳代になってしまったような気分を味わいました。夏の元気な時には、40〜50歳でとおっているんですが(笑)。

病気で寝込んでいると気弱になってしまうものです。これからいったいどうなるんだろう...自分は大丈夫だろうか...などです。

みなさん、人はこのように精神的にも気弱になる時が必ずあります。そのような時にはイエス様を思い出しましょう。なぜならイエスは希望を述べられているからです。

今日の福音(ルカ21・5−19)では、イエスは戦争や暴動、様々な天災に満ちた終末のありかたについて語っています。キリスト者は大変な苦難や恐ろしい迫害に直面することになりますが、神は「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」ように保護してくださいます。

「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しいしるしが天に現れる」状況になっても、神様は私達について、「髪の毛一本一本まで数える」(ルカ12・7)まで、暖かい関心を持ち続けてくださいます。私達は神の愛につつまれているのです。

健康、学業、仕事、家族、わたくしたちには様々な悩み・不安があり、先行きが見えなくなるときがあります。そのような時にこそ神様の言葉を思い出しましょう。

「神はわたしのそばにおられ、
わたしは決して
ゆるがない」
(詩篇16・8)

みなさん、この神様の暖かい言葉を、沈黙のうちに味わいましょう。

 

日, 11/07/2004 - 00:00

今日の福音(ルカ20・27−38)では、イエスは保守的で旧約に厳しく忠実なサドカイ派の人々の質問をはぐらかし、復活のありかたについて語っています。

先週は「あこがれの祈り」についてお話しましたが、今日は私達の祈りの相手はどういう方か、ということをお話したいと思います。

私達が祈る相手は誰でしょうか。私達は普通に人と話すときに、このように人間同士、顔を見ることができます。ここにいるグンテル君の顔を見ながら話すように...(笑)

しかし、私達が神様と話す(祈る)ときには、神を信仰の目でみるのです。もし神に対しサドカイ派の人たちのように厳しい目、硬い目で見るならば、祈りも硬く、人の情けもないものになってしまいます。また、型どおり・形式的な、または曖昧な目でみると、祈りも心をともなわない漠然としたものとなるのです。

私達にとって、神はやさしいお父さんのようなものです。イエス様は神を「アッバ」(おとうちゃん)と呼びましたが、これはサドカイ派と同じように神を硬い目でみるファリサイ派の人々からは、「あまりにも失礼だ」、「敬虔ではない」と憤激を買ったと言われています。

イエスのように、神に対して、臆せず子供のように近づきましょう。昨日わたくしは天皇・皇后両陛下が被災地へお見舞いされる様子をテレビで見ました。皇后様は自ら膝をつかれて被災者の皆様にお声をかけていらしたのですが、小さな子供達は皇后様に駆け寄り、抱きついたりするなどまったく遠慮はなく、ほほえましいものでした。

皆さん、私達もこの子供達のように神様に対して接しましょう。 「私を見たものは父を見たのだ。」というイエスの言葉があります。イエスを信じるということは、やさしい私達のお父さんである神を信じるということでもあります。そして、子供の心を持つ、ということは、強い信頼の心を持つことでもあるのです。

今日、これから子供達のために七五三の祝福を行います。もう一度、私達自身が神様の子供であること、そして神様は私達子供をいつでも受け入れてくださることを思いおこしましょう。

マルコ10・13−16 (そのとき、)イエスに触れていただくために、人々が子供達を連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

日, 10/31/2004 - 00:00

この5週間ほど「祈り」について語ってきました。今日のテーマは「あこがれの祈り」あるいは「期待の祈り」です。

今日の福音(ルカ19・1−10)に登場するザアカイという人物、これは現代に生きる私達にとって大変興味深い人物です。このザアカイは徴税吏のとりまとめをしていたといわれる人物で、経済的には裕福でした。しかし精神的にはに満たされておらず、心はうつろ、いつも何か足りないと深く悩んでいました。このような悩みから、ザアカイはイエスに強いあこがれを持ち、何としてでも会いたいと望んでいました。

そこでイエスがやってくる場に来てみたのですが、大変な群集で、つま先で立ってもイエスを見ることはできません。そこで、金持ちであるという自分の立場を忘れ、いわば恥も外聞もなく、木に登ってイエスを見ようとしたのです。

さて、私達は今現在このザアカイのように、「木に登って」までイエスを見ようとしているでしょうか。

私達は、人間だからこそ、神へのあこがれがあります。どんなに努力しても益々自分の足りないところが見えてしまう...これは神学的には「聖なる不満足」と言うそうですが、全能のやさしい神様へのあこがれ、イエスに会いたいというあこがれは人間としてまったく自然なものです。

毎日の生活が忙しい、忙しいと、このあこがれを圧殺することはできます。しかしその結果、真に味わいのある、人間らしい人生からは遠のき、ザアカイが悩んでいたように、経済的には満たされても精神的には満たされない日々が続くことになります。

心を開いてイエスを迎え入れましょう。祈りの第一歩としての「あこがれ」は重要です。イエスの言葉、「今日は是非あなたの家に泊まりたい」という強い言葉こそ、私達の祈りに対する返事なのです。

今日の話は大昔のエピソードではありません。

あなたもザアカイなのです。

神よ、わたしはあなたを慕う わたしの心はあなたを求め、 神のいのちにあこがれる (詩編42−3)

 

日, 10/17/2004 - 00:00

皆さん、私達は自分のためだけに神様に祈ってはいませんか?はたして、他の人のためにも祈っているでしょうか?

自分以外の他人のために祈る、これはカトリックでは「とりなしの祈り」と呼ばれ、尊いものとされています。

皆さんのまわりにも、あなたの祈りを必要としている人はいないでしょうか。病気に苦しむ人、結婚問題を抱えている人、学校や仕事の問題を抱えている人などなど、教会を離れていってしまった人々など、私達のまわりを見回せば祈りを必要としている人たちはたくさんいます。

自分のためだけでなく、他の人のために祈りましょう。大きな希望を持ち、絶えず祈るように努力いたしましょう。なぜならば「神はいつも私達の祈りを聞いてくださる」からです。

本日の第一朗読(出エジプト17・8−13)では、祈りについての示唆があります。この箇所ではレフィディムにおけるイスラエル人とアマレク人の戦いが記されていますが、神学的には戦いは重要ではありません。注目すべきことは、モーゼが手をあげ続け神に祈り、たとえ疲れても日の沈むまで手を降ろさず祈り続けたことです。そして、モーゼの友人であるアロンとフルがモーゼを助け、共に祈りつづけたことです。

たとえ苦しくとも神を信じ祈り続ける、そして単独で祈るのではなく信仰を共有する仲間と共に祈り、一致・励ましを感じることが重要なのです。

第二朗読(ニテモテ3・14−4.2)ではパウロが弟子のテモテを霊的に励ましている様子がわかります。弟子、というよりもパウロの幼な友達であったテモテ。そのテモテへのメッセージは「共に祈る」ということがどのようなものであるか示してくれています。

幼な友達といえば、私は先週、45年前に赴任していた和歌山の教会へ行ってきました。今や長いお付き合いとなっている友人達は、皆とても元気でいらっしゃいました。その中に野田さん、という方がいらっしゃいます。45年前に野田さんの家庭に招かれた時に、食事の前に野田さんとその家族全員は、短いが自分の言葉で、食前の祈りを唱えてらっしゃいました。その時一緒にお祈りしていたほんの小さな子供達も、今や50を超える立派な大人。とてもしっかりした、すばらしい方々です。祈りを、自分自身のものとして共に祈る家庭の素晴らしさを改めて思いました。

今日、ラファエラ(中村明日香ちゃん)、マリア・ポラス(グレイビー・ナタリヤ・恵美ちゃん)の二人が受洗されました。ご家族の方々、そして私達皆も改めて、家庭で共に祈る、希望をもって共に祈る大事さを思いおこしましょう。

 

日, 10/03/2004 - 00:00

これから数週にわたって「祈り」について語っていきたいと思います。

私達の祈りは時として、上品で丁寧すぎるということはないでしょうか。 神様との交流にもかかわらず、あたかもよその人と社交をするような、 「着飾った心」で祈るということはありませんか?

今日わたくしが申し上げたいテーマは、それら虚飾をすべて捨てた、叫びの祈り、 嘆きの祈り、わめきの祈りです。すべてのことに行き詰まり、 不平不満のどんぞこに落ち、そこから 「神様、どうしてわたしだけがこんな目に...」と叫ぶ祈りです。

今日の旧約の朗読(ハバククの預言:ハバクク1・1−3、2・2−4)の前半には、 神様に失礼ではないかと思うような「叫び」の祈りがあります。 「主よ、なぜ私の助けの願いを聞いていないのか!なぜ私の苦しみに無関心なのか!」と。
これらの叫びは正常な祈りで、失礼ではありません。むしろ、 心の底から自分自身をさらけだした本当の祈りという意味で、 神様の意向にまったく沿った祈りなのです。私達も苦しみがあったならば、 神様のみまえにすべてをさらけだしましょう。
聖書では神は次のようにハバククに答えています。
「たとえ遅くなっても、待っておれ。それは必ずくる、遅れることはない」と。
これは現代に生きる私達へのメッセージでもあります。

今日の第二朗読(二テモテ1・6−8、13−14)でパウロはエフェソ教会の 指導者であったテモテに繰り返し、強く、雄雄しくあれと鼓舞しています。 テモテは善人ではありましたが、臆病でおどおどしていたと言われています。

私達も勇気をもって、そして時にはハバククのように自分自身をさらけ出して、 神様と親しく話しましょう。神様は人間の弱さ、罪、欠点をよく知っており、 ありのままを受け入れてくださいます。神の子たるイエス・キリストご自身でさえ、 最期の祈りは叫びの祈りでありました。 「父よ、父よ、どうして私を見捨てられるのか」  この祈りによってイエスは最期の瞬間に、神様からの勇気を得たのです。

苦しみの中にこそ、神は近いのです。その時にこそ、ありのままの姿で、 本音の心で祈りましょう。

 

日, 09/26/2004 - 00:00

今日の福音は、私達にとってとても挑戦的なテーマをなげかけています。 はたして私達は、「保土ヶ谷(シオン)に安住し、横浜(サマリア) で安逸をむさぼって」いるのでしょうか?

今日の福音(ルカ16.19−31)は、よくできた3幕の劇のようです。

第一幕は現世の描写であって、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと病気の 貧しいラザロが対比されています。物質万能主義で極めて自己中心的な金持ちは、 自分の家の門前にいるラザロに気づくことすらありません。大きな「怠りの罪」 を犯していると言えます。

第二幕は来世が描かれていて、金持ちが生前の罪を悔やんでいる情景となっています。 どんなに悔やんでも、死後の世界ではすべては遅すぎ、取り返しがつかないと いう状況が厳しく示されています。

第三幕は、現代の世の中に戻り、大勢の我々自身で占められている現実の世の中が 映し出されます。そしてそのほとんどの人たちは、金持ちと同様に物質万能主義で あって自己中心的な行いを改めようとしない...。

私達は現代に生きる兄弟姉妹ですが、私達はあわれみの心を持っているでしょうか。 イエス様にあわれみを求めるだけでなく、私達が他者に対してあわれみを与えて いるでしょうか。財産を持つことは悪いことではありません。しかし大事なことは それをどのように使うかということです。

テレビのお陰で私達は門前にいかないまでも居間で、世界で何が起きているかと いうことを知ることができます。例えば、スーダン内戦での悲惨な状況、苦しむ人々、 これらはまさしく私達にとってのラザロです。イエスの説く「あわれみ深い者は幸い、 神のあわれみを受けるであろう」とはまさに今を生きる私達へのメッセージなのです。

今日は世界難民移住の日です。私達はこうした問題に対して単に献金をしていれば 良いということではありません。このような貧しい人、恵まれない人と本当の意味で 共感し、そのうえで助けることが大事です。聖パウロが言った「全財産を貧しい人々に ささげても、愛がなければ、それは私にとって何の意味もない。」という言葉を 思い出しましょう。

 

日, 09/05/2004 - 00:00

イエス様は現代の信者達に、生きている声でつぎのようにおおせられます。
「すべての心を尽くして私に従いなさい。」 
この意味は、100%の心を捧げてイエスの道を歩むように...ということです。

今日の福音(ルカ14:25−33)のなかでは、びっくりさせる言葉があります。
「もし誰かが私のもとに来るとしても、父・母・妻・子供・兄弟・姉妹をさらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら私の弟子ではありえない。」

この厳しい戒めを、もし私達が単純に字句どおりに従ったならば、それはイエスの教えに全く逆行する危険かつ誤った行いとなってしまいます。当時の時代背景や言葉遣いを良く知る聖書学者達の研究によれば、ここでのイエスの意味は次のとおりです。

「心の中で、神であるイエス様が第一であるようにしてください。もし自分の心の中で、神様、イエス様が第一となるのであれば、第二の存在である父・母・妻・子供・兄弟・姉妹との絆は、前よりも強く、そして暖かいものとなるのです。」

具体的な行動として、イエスの弟子に100%なるためには、祈りは絶対に必要です。毎日祈りをすることによって、イエスは私達の心の中心になっていきます。イエスの心は私達の毎日の出来事の中にゆきわたり、また私達の人間関係の中にも広く深く及びます。人に対する思いやりと理解が生まれてきます。そして、生きがいと意義のある、また味わいもある毎日の生活が始まります。
もう一度繰り返します。祈りが大切です。

【朝に祈る】  「主イエスよ、今日一日中の出来事の中で私を助け、導いてください。」

【夕べに祈る】  「主イエスよ、今日起きた良かったこと嬉しかったことを感謝いたします。(失敗したこと、至らなかったことがあれば)、お許しください。明日もあなたの助けに頼って、あなたと共に頑張ります。おやすみなさい。」

 

火, 08/24/2004 - 21:06

  福音:「人々は東から、西から、また南から、北から来て、神の国で宴会の席に着く。」(ルカ13-29)

  「カトリック教会」のカトリックという言葉は、ギリシャ語で、全ての人の教会、普遍性、公け、皆のための教会を意味しています。結局、イエス様の教会は、各国と各時代のためです。イエスは中東の国イスラエルで2000年前に、教会を創立し、徐々に地の果てまで広がりました。それとともに、カトリックという言葉も広がっていきました。

  しかし私達信者は、そのカトリックという言葉の裏には、実行上のチャレンジがあることを思い起こさなければなりません。これは、ひらかれた心をもって、全ての人間に縁を感じるようになる、というチャレンジです。

  神様は私達みなの父であり、私達はみなその子供です。
  同じお父さんをもっていますから、本当の意味で、皆兄弟姉妹です。具体的な例として、例えば、故郷から追い出されたアフリカのスーダンの苦しんでいる難民の人は、私達と遠い無関係の人ではなく、兄弟姉妹です。

  またカトリック教会の私達共同体は、イエスの模範と教えに従って、私達の教会に来る人たちに、どうしても暖かいもてなしを示さなければなりません。また、共同体の中にいろいろな人、いろいろな性格、いろいろな地位、学歴、政治的な考え方、いろいろな国籍もあります。それぞれの皆はイエスと結ばれ、皆イエスの御前にあって大事なものです。イエスは皆、ありのままに受け入れてくださいます。イエスは私達の模範と力づけです。真のカトリック信者であるという深い意味を考えて祈りましょう。