日, 11/20/2005 - 00:00

私の兄弟であるこの最も
小さいものの一人にしたのは、
わたしにしてくれた
ことなのである

来週からは待降節、新しい典礼暦がはじまりますので、今週は今年の典礼暦の上では最後と言えます。
最後にふさわしく今日の福音 (マタイ25・31−46)はこの世の終末と王であるキリストについて述べられています。この中でイエスは弟子たちに、終末に向かって「行いによる準備」を強く勧めています。今日の福音はつぎの四つのポイントがあると思います。
1)この世の終末が訪れる時、栄光に囲まれたイエスが再臨する
2)その時にすべての正義と不正義が明確にされる
3)正義を行った者には報いが与えられる
4)不正義を行った者には裁きが与えられる
皆さん、この教えは決して信徒の間に恐怖心を植えつけようとするような意図ではないことを申し上げたいと思います。まず、この聖書が書かれた時期は、原始キリスト教の迫害時代であり、厳しい環境の中で神による救いと解放が来ることを願っていた時代でありました。この終末の到来と裁きの今日的な意味は、我々信者が神からの呼びかけに対して、果たして日常の中でどのように応えているか、という神からの回心のよびかけです。今を実際にどう生きるか、という問いかけです。

終末が訪れ、王であるキリストは、ある人達を「私が渇いているときに飲ませず、飢えていた時に食べさせず、裸の時に着せず、病気のとき牢にいたときに訪ねてくれなかった」と咎めています。咎められた人達が驚いて、いつそのような無慈悲なことをしたかと反論すると、王であるキリストは、「この世で最も小さいものの一人に対してしなかったことは、私にしてくれなかったことなのである」と言いました。

この咎められた人たちは、キリスト教のうわべの信仰としては何も悪いことはしていなかったはずです。ただ、信じたことを実行できなかっただけ、形だけの信仰であったのです。イエスと日常の暮らしは切り離されしまっていたのです。

皆さん、イエスは困っている人の中にいるのです。お礼を返すことができない人々を助けることは、彼らの中にいるイエスを助けることなのです。報酬・見返りを期待できない慈善活動を通じて、私たちは私たちが普段無視している現実・現状に出会います。慈善活動を通して私たちはイエスの教え、「与えるほうが、もらうよりも多く受け取る」という真理の恵みにあずかることができます。

病人を見舞ったり、刑務所の人を励ましたり、あるいは外国人や社会の弱者とならざるを得ない人々を支える...。愛は言葉と行いを通して現われ出るものなのです。困っている人々への愛は実践により現われ出ます。

今日の福音の箇所は、マザー・テレサが「聖書の中で一番好きな部分」とある記者に答えたことでも知られています。もちろん、私たち皆がマザー・テレサのようにはなれません。しかし、いつでも、どこでも彼女がしたことの一部をすることはできるのです。同情の心、慈善の心、寛容の心...これら最も美しい神様からの贈り物を大切にし、実際の毎日の暮らしにあきらかにしていくことこそが、イエスの証し人であることなのです。私たちの信仰は、日常生活での行いを通して立証されていくものなのです

日, 11/13/2005 - 00:00

神様からいただいた
恵みを
他人と分かち合いましょう

今日の福音(マタイ25・14−30)は有名なタラントのたとえ話です。当時の1タラントは普通の人の年収の20年分とも言われますので、現在の1億円にも相当するたいへんな金額でした。たとえ話は、ある人が長い旅にあたって3人の部下に大金を預ける話です。能力に応じて、それぞれ5タラント、3タラント、1タラントが託されました。そして、長い不在の後、主人が戻ってくると二人の部下はそれぞれ預かった資産を運用して倍増していました。一方1タラントを預かった者は、リスクを恐れてお金を地中に埋め、少しも増やすことなく主人に返しました。主人はこの、少しも資産を増やそうとしなかった部下を「怠け者の悪い僕(しもべ)だ」として激しく怒ります。
さて、このたとえ話の現代的な意味はどのようなものでしょうか?
現代の価値でいえば1億円、5億円ととても大きな金額が言われているのは、神が人間に与えている贈り物はとても大きなものだということを示そうとしています。私たちは神から何らかの形で、とても素晴らしい贈り物を得ており、それらは「長所」と呼ばれます。その自分の素晴らしさ、「長所」をしっかり認識しなさい、ということが最初のメッセージです。私たちは困難・問題に直面するたびに自分の弱さ・短所を認識せざるを得ず、欠点ばかりを見がちです。しかし実際には私たちは皆、さまざまな才能を神からいただいておりさまざまな形であらわれる長所を持っています。私たちは皆、何かができるのです。その大・小は関係ありません。なぜならば状況次第で大が小となり小が大となるからです。
ありとあらゆる、いろいろな長所があります。たとえば、第一朗読をしてくださった方は編み物が上手です。ある人は思いやりがあり暖かくて聞き上手、ある人は絵がうまい、また歌がとても上手な人がいます。また商売の才覚がある人もいます。みなさまざまな形であらわれる神からの恵みです。その恵みをはっきりと心の中でとらえ、認めましょう。そしてその贈り物について神に感謝いたしましょう。神への感謝は、その才能を滅ぼしてしまいかねない危険な問題、「傲慢」を防いでくれます。
神への感謝は、どのような形で示したらよいのでしょうか。
神の希望は、結局「わかちあうこと」に尽きます。
「ほほえみは平和のはじまりです」(マザー・テレサ) 皆さん、暖かい挨拶・ほほえみを隣人と交わしているでしょうか。暖かい関わりのある挨拶・ほほえみを隣人に与える能力は、神が誰にでも与えた、最も基本的な才能です。
「与えることによって与えられ」、「命を他人のために捧げることによって、永遠に生きることができる」(アッシジの聖フランシスコ)というのはイエスの教えの根幹です。
神様から折角いただいた素晴らしい贈り物に十分気づかないことは、地中に埋めてしまうことと同じです。
どうしたら贈り物を大きく育てることができるか、考えてみましょう。

日, 11/06/2005 - 00:00

父なる神よ
子供たちとその両親の上に
豊かな祝福を
お与え下さい

今日の福音(マタイ25・1−13)の10人の乙女のたとえ話は、ちょっと厳しくて固いと思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女。賢い乙女たちは、灯油を用意していたので花婿が夜遅れて到着しても問題なく婚宴の席につけましたが、灯油の用意を怠った乙女たちは油ぎれとなり、油も分けてもらえず結局婚姻の席につくことはできませんでした。賢い乙女たちはちょっと厳しいなと思う人もいるでしょう。いつもお話しているように、たとえ話は私たちにものごとを考えさせることが目的です。ここに込められている神様のメッセージについて、少し考えてみましょう。

この時代のともし火とはこのようなものです(皿に灯心がついた灯火を掲げる)。このともし火の中の油は、イエスの時代には「おもいやり」「親切」のシンボルでした。このたとえ話の中で、「おろかな乙女たち」というのは自己中心的な人間を人々を指しています。油のない人、つまり世の中を照らすともし火の燃料である、親切心やおもいやりが無い人のことを言っているのです。今日ここに集まっている子供たち、皆さんに言います。「おもいやり」がどんなに大事かということについてよく考えてください。学校やそのほか子供たちが集まるところで、寂しそうにしている人、いじめられている人がいるでしょう。そのような人たちに暖かい声をかけましょう。そして自分たちを育ててくれるお父さん・お母さんに親切にしましょう。お父さんお母さんが家で疲れていてあまり声をかけてくれなくても、自分からお父さんお母さんに挨拶し、できることをしてあげましょう。自己中心的になってしまうことは一番良くないことなのです。

私たちの社会は、毎日とても忙しい物質万能の時代です。このような厳しい競争社会の中では、人々は自己中心的になるよう仕向けられがちですが、その結果、行き着くところはとてもむなしいところです。イエスの時代から、人間はその限界をわきまえ、神へのあこがれ、願いを素直に述べていました。
今日の答唱詩篇(詩篇63・2、3+4、5+6)にあるように、私たちは、飢え渇き、神を探し求めているのです。私たちは人間だから、その悩みの中にあって神を捜し求めているのです。
今年9月、読売新聞に「日本人の宗教観を問う」というアンケートがありました。この調査では、「あなたは何か宗教を信じていますか」という問いについて、75%が「特にない」という回答であったということです。現代人は毎日忙しい日々を競争社会の中で過ごし、心をすり減らす一方です。本当の意味で、その慰め、癒しになる「神」については、それを考える時間もないくらい忙しく暮らしているのです。そうした毎日の繰り返しで、物質的には満たされていても、砂をかむような味わいの無い日々に、深い疑問を持ち、さらには絶望に至る人もいます。
私たちは人間ですので、心の中に神へのあこがれがあります。神だけがそのあこがれを満たすことができます。心の渇きを満たせるのは、神のみです。長いおおげさな祈りはいりません。毎日、導きを神に頼みましょう。祈りを通した神との対話によって、毎日の暮らしに「希望」があらわれ、自分自身の心の持ち方に「明るい感じ」がでてきます。

今日は日本の慣習に則り、子供たちの成長を祝う七五三の祝福を行います。お父さんお母さん、子供たちが本当の知恵を身につけ神の愛とともに成長を続けますように。

日, 10/09/2005 - 00:00

イエスの食卓に
招かれた者は
幸いである

今日の福音(マタイ22・11−14)には二つのたとえ話がありました。ひとつは、ある王様が王子のために婚宴を催したのですが正式な招待を出した招待客が忙しいなどと言って来なかったので、新たに往来に居る一般の人々を呼び入れて宴席を満たしたという話でした。もうひとつは婚礼の席で礼服を着ていない参列者を王が側近に命じて宴席から追い出した話です。

先週は二人の赤ちゃんの洗礼式がありました。洗礼を赤ちゃんに授けながら、わたくしは70年前に自分自身が授かった洗礼、そして初聖体、堅信、叙階と続く、私が神様からいただいた恵みについて考えていました。これらの恵みは神様からいただいた、信仰への招待状でした。そしてその後、わたくしの人生の危機ともいえる病気の時や、あるいは毎年の黙想会の折にも、私はこの招待状をいただいています。

聖書では食事にかかわる言葉が多く使われています。今日の聖書でも、「祝宴」(イザヤ25・6)、「会食」(詩篇23・2)、「婚宴」「食事」(マタイ22・3−4)など多くの言葉が使われています。これら、共にする食事は、神との「交わり」を意味しています。神と人間は一緒に食事をして暖かい交わりを持つのです。私達と神とは、今のこの世での交わり、来世での交わり、とあるのですが、私達はこの交わりをどのように捉えたら良いのでしょうか。今日の第一朗読では、とても美しい文学的な表現で、神は私達人間の苦しみの涙を優しくぬぐってくださる、と表現されています。

この神との交わりの性格を知っている私達は幸せです。なぜなら人生の意味・目的地を知っているからです。それゆえ私達は人生の日々を目的をもって歩むことができるのです。それも決してひとりぼっちでの歩みではない、イエスという人間であることを経験された方と共に、イエスと手をつないで一緒に歩いていくことができるのです。

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4・13)

この意味で、私達は大変恵まれていて幸せなのですが、実は私達はそれがどんなに恵まれているかを悟っていません。今日の福音のたとえ話は、形式にとらわれ神の愛を実践しない当時のユダヤ教指導層への痛烈な批判です。神から最初に信仰への招待状が出されているにもかかわらず、それを無視したりあだで返したりする..。これは当時のファリサイ人に限ったことではなく、現代の私達にも心当たりがあることではないでしょうか。せっかく神の食卓に招かれているにもかかわらず、それに義務的に習慣的に参加しているだけに過ぎないということはないでしょうか。神との交わりを生き生きとしたものにするために、神への祈りと共同体への参加・隣人への愛が必要です。

現代に生きる私達は、毎日大変忙しい日々をおくっています。しかしどんなに忙しくとも、皆食事はとっています。なぜなら食事をとらないと死んでしまうからです。同じように、心の食事、霊的食事についてはどうでしょうか?忙しさに負けずに、心の栄養のために祈りと奉仕を捧げましょう

日, 09/25/2005 - 00:00

主よ、悔い改める心を
わたしたちにお与えください

(グンテル助祭)
みなさん、今日の福音(マタイ21・28−32)のメッセージはわかりやすいものではなかったでしょうか。

イエスの時代、ユダヤ教の律法は人々の暮らしの細部まで規定しており、その具体的な解釈を決める祭司長の立場は非常に高いものでした。このような祭司長や律法学者達にとっては、神の「憐れみ」「慈しみ」を伝えるよりも、いかに律法を厳格に守らせるかが重要であったのです。

一方、イエスは神の「憐れみ」「慈しみ」を説きました。罪人の悔悟を聞き、社会的に卑しめられていた徴税人と食事を共にし、罪深い女を励まし、業病を患い人々から隔離された病人を癒されました。これらの人々は当時の律法によれば、罰をうけたり卑しめられたりして当然とされていた人々でした。律法に詳しく、祭司長や律法学者とむしろ同じ側に立つと思われたイエスが、このような人々に対して暖かく振舞ったのですから、祭司長や律法学者達と大きな軋轢を生むようになっていたのです。今日の福音はこのような背景の中で述べられたものです。

父が息子二人に葡萄園へ行き働くように命じる。兄はいったんは断るのだが、のちほど考え直して葡萄園へ出かけていった。弟は良い返事で行くと言ったのだが、口先だけで結局出かけなかった...。イエスは「この二人のうち、どちらが父親の望みどうりにしたか?」と祭司長達に尋ねたのです。祭司長達は正しく、兄であると答えましたが、この「兄」とは祭司長・律法学者が罪人としている人々であるとイエスは説いたのです。そして律法を守り自ら完璧であると誇る一方、罪人達を断罪し、不寛容である祭司長・律法学者達は、口先だけの信仰で神の愛を理解していない「弟」であると厳しく言い渡したのです。

さて現代に生きる私達も祭司長・律法学者と同じような過ちを犯していないでしょうか。まことの信仰は教会のお御堂の外、普段の生活のなかで現れます。自らの非を自覚できた者こそが神の愛と許し、慈しみを体験できるのです。またそれゆえに隣人に対して、さらなる愛のみ旨を実践できるのです。

それぞれの信仰生活をふり返って、私達の信仰を口だけでなく行いによって証しすることができるように神の助けを祈りましょう。

(ケンズ神父)
果たして私達は「兄」であるのか、それとも「弟」であるのか...。自らを静かに省みてみましょう

日, 09/18/2005 - 00:00

「慈しみ」

今日の第一朗読(イザヤ55・6−9)は、これが書かれたのが2,600年前とは思えないほど現代の人間の心にピッタリくる内容です。紀元前587年、バビロンの軍勢はユダヤ軍を打ち負かし、エルサレムに入城しました。そしてユダヤの神殿は徹底的に破壊され、すべてのユダヤ人は捕らえられ、奴隷として遠くバビロニアに「拉致」されてしまいました。有名な「バビロン捕囚」の故事です。奴隷となったユダヤ人達は絶望のどん底のなかで、「これは神からの罰だ。我々が神を捨てた罰として、神も我々を見捨てたのだ」と思いました。この時、預言者イザヤは、「いや、絶対にそうではない。神の考え方は人間とは違う。神の慈(いつく)しみは永遠である。」と人々に宣言しました。

さて皆さん、自分の生活を考えてみましょう。私達は時として、大きな苦しみ・悲しみに直面し、そのどん底のなかで這い回ることがあります。そのような時こそ、私達は神の慈しみを感じることができ、その慈しみを希望としてその苦しい時期を乗り越えた時には、神の慈しみは実に永遠であると思うでしょう。

今日の答唱詩篇では「神の慈しみ」という言葉が三度でてきます。聖書を理解するうえではこの「慈しみ」という言葉はとても重要ですが、果たして私達信者はこの言葉を本当に理解しているでしょうか?うわべだけ、字面だけでわかったつもりでいるかもしれません。しっかり心にはいっているでしょうか?

では、今日の福音(マタイ20・1−16)を見てみましょう。朝一番に雇われて日没まで懸命に働いた者に1デナリオの賃金、日没ちょっと前に雇ってもらい1時間くらいしか働かなかった者にも同じ1デナリオの賃金。普通に考えれば不公平、びっくりするような話です。みなさん、これは雇用と賃金についてイエスが具体的に教えている訳ではありません(笑)。たとえ話として、皆さんに深く考えるよう促すものなのです。

まず神の思いは人間のそれとは違うことを認識しましょう。当時のファリサイ派の人々、神の典礼的な教えに通暁し自らにも厳しい制約を課し、自他とともに「神のエリート」として振舞っていた人々、これらの人々は他の人より神の恵みをたくさんもらえると思っていたことでしょう。こうした考えに対して、イエスははっきりと「NO」と言ったのです。

みなさん、今日のたとえ話は実は労働者の給料とは全く関係ありません。なぜなら、私達は全員、夕暮れ間際になんとか雇ってもらった幸運な人たちにあてはまるからです。自分自身の弱さ・至らなさ・みじめさに絶望せずに、それらを完全に理解し受け止めてくださる方がいることを強く思いおこしましょう。その方、私達の神は、私達が努力をすることについて「遅すぎる」と突き放すことはないのです。これが神の慈しみです。

カトリック聖歌667番「いつくしみふかき」(2番、3番)

慈しみ深き友なるイエスは 我等の弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈める時も 祈りに応えて 慰め給わん。

慈しみ深き友なるイエスは 変わらぬ愛以って 導き給う
世の友我等を 捨て去る時も 祈りに応えて 労わり給わん。

今週中、この「慈しみ」の意味を深く考えてみましょう。神の「慈しみ」を悟ることができたならば、私達の毎日の暮らしがとても面白い、味のあるものになります。いままでこだわっていた悩み、怒り、苦しみから解き放たれ、神の慈しみを味わいつつ真に人間らしく自由に生きることができます。神でありながら人間でもあったイエスは、全能の神でありながらも、貧しい未亡人に心から同情し、友人ラザロの死に涙しました。神が事情を完全に理解してくださりそのうえで強く愛してくださる、という実感を得ることができたならば、私達の暮らしはどんなに変わることでしょう。

神の慈しみを味わい、そしてその理解を深化させることができるように祈りを続けていきましょう。

日, 09/11/2005 - 00:00

「主よ、
あなたのみ手に
わたしのすべてを
委ねます」

今日の第二朗読(イザヤの書、4・3:1〜5)では、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という有名な一節があり、神様の私たちへの約束の言葉として頻繁に引用されています。この「神は私たちと共にいる」(ラテン語で「インマヌエル」と言います)、はキリスト教の中心教義の一つとなっています。

皆さんご存知のようにカトリックには七つの秘蹟があります。洗礼、堅信、告解、聖体、結婚、叙階、塗油の七つの秘蹟は、私たちの人生の節目節目に、飛び石のように顕れるのです。

敬老の日は19日ですが、私たちは一週間早く今日敬老のミサにあずかります。この敬老ミサでは私たちは塗油の秘蹟にあずかることができるのです。これはかつて「終油の秘蹟」と言われていましたが、今は「塗油の秘蹟」として心や体の痛みに直面する病者や高齢の方に与えられています。今日は60歳以上の方や、希望する方に塗油を行います。

塗油の秘蹟は、イエス様の時代から行われているとおり、「平和の按手」を行ったあと、司教様が祝別してくださった香油を塗ります。この塗油の秘蹟は私たちを力づけ助けてくれます。イエス様の言葉を思い出しましょう。

「疲れた者、重荷を負うものは、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイ11-28)

私たちはこのように、神様からすばらしい秘蹟をいただきます。では、私たちはどのように応えていけば良いのでしょうか。
それは、「信頼」です。入祭の歌にある、「神のはからいは限りなく、生涯私はその中に生きる」「主よあなたの御手にわたしをゆだねます」、このような心をもって秘蹟にあずかりましょう。

心や体の痛み、不安に直面する方々、どうぞ安心ください。
イエス様は言っておられます。

「安心しなさい、私はあなたと共にいる。」

日, 09/04/2005 - 00:00

「和解はイエス様の道です」

(グンテル助祭説教)

本日の福音(マタイ18:15-20)では、イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯した」場合について語っています。この中でイエスは、もし人が罪をおかしたとしても、私たちはそれを「裁く」べきではなく、むしろその人をできるだけ私たちの共同体の中へ引き戻す努力をすることがまず大切である、と言っています。

私たちはとかく自分には優しい一方、他人に対しては厳しく裁きがちですが、イエスはこれを戒めています。神と異なり、本源的には私たちは人を裁くことはできません。私たちの神はとても憐れみ深く、心から神のゆるしを乞えばかならず許してくださる方なのです。私たちの役割は神に替わって人を裁くことではなく、兄弟姉妹が悪い道に踏み込んでしまったとしたならば、そこから何とか私たちの共同体に引き戻そうと努力することなのです。そんな私たちの努力を、神はとても喜び、またそれゆえ私たちが犯してしまう過ちについても寛大に許してくださるのです。

神はご自身が私たちに憐れみをくださる一方、同じようなゆるし・忍耐・理解を私たちが隣人に与えるよう強く求めています。もっとも神と私たちの関係と異なり、人間同士の関係には限界があります。努力だけでは解決に至らない場合もあります。このような時には、わたしたち信者はまだ、できることがあります。それは祈りです。
神の恵みを信頼し、私たちが人をゆるすことができるよう、さらに理解しあうことができるよう、祈りましょう。

私事ですが、メキシコにいた際に刑務所を訪問したことがあります。自らの罪を本当に悔やみ、判決を心から受け入れている囚人が少なからずおりました。この人は本当に回心している、と思われる人もおり、このような人たちとは私は単に兄弟姉妹でしかない、真の意味では人は裁判官にはなりえないと思ったものでした。

私たち信者は、人の罪を指摘し安易に裁くことよりも、むしろ人と人の壁を乗り越え、平和と和解の道具となるように努力するものでなければなりません。困り悩む兄弟姉妹を助けるのが私たちなのです。

「二人でも三人でも、私の名によって集まるところに、必ず私はいる」とイエスは言っておられます。心をひとつにして祈るとき、どんな願いもきいてくださると約束されているのです。自信を持って神の恩寵を信じ、私たちが人をゆるし互いに理解しあえるよう願いましょう

日, 08/14/2005 - 00:00

「神の母聖マリア
今も死を迎える時も
わたしたちのために
祈ってください」

(ケンズ神父訪欧中のため、熊木建郎神父(横浜教区、南山大学教授)がミサを司式されました。)

本日の福音(ルカ1、39−56)で「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と言っています。乙女マリアが処女のままイエスを身籠り、そのうえで神への信頼・感謝・謙遜を明らかにした、有名な「マグニフィカート」と呼ばれる部分です。ラテン語でマグニ(拡大する)フィカート(形成する)、日本語では「大と為す」と言いましょうか、このマリアが神への崇敬を宣明する場面は、新約聖書の中でも最も文学的に美しいものの一つです。

福音というものは「神が人間に対してしてくださることを、いつの時代にでも信じなさい」という喜びのメッセージであり、新聞の報道記事のような文章ではありません。従って文脈・本質的な意味が重要であり、細部について拘泥する必要は必ずしもありません。

この「マグニフィカート」の中で私たちが特に注目したいのは、乙女マリアの神への崇敬です。当時のユダヤ人社会のなかで結婚前に子供を身籠るということは、現代の私たちが想像できないほど重大な意味をもっていました。そしてその子供が「この世の救い主である」と天使から告げられる...。若いマリアにとって、これらの出来事は完全に自分の理解力の範囲を超えたものでした。おそらくマリアも最初は戸惑い、悩んだことでしょう。しかし神へのあくなき信頼・感謝・謙遜により自分の理解を超えた事柄も受け入れることができたのです。このことにより乙女マリアは「神の母」として西方教会でも東方教会でも崇敬され、天国において神へのとりなしをしてくださる私たちの母として、信仰の対象となっています。

二千年前のイエスの時代から21世紀の現代まで人間は神の言葉を捜し求めてきました。福音を信じ、それを毎日の暮らしに反映させようと努力する私たちにとって、「マグニフィカート」の意味とは、神へのあくなき崇敬とそれによる悩みからの解放、ではないでしょうか。現代に生きる私たち、日本人として、またカトリック教徒として悩みは非常に多いはずです。また急速に変化していく社会にあって、自分の理解の超えた事態の連続に戸惑っている方もいらっしゃることでしょう。しかし、悩みは不健康なことではありません。深い悩みに捕らわれたときこそ、乙女マリアの謙遜、神への信頼、「マグニフィカート」を思い起こしましょう。

自分の理解を超えた事態にいきあたっても、乙女マリアのように謙遜に「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と信ずることができればどんなにすばらしいことでしょうか。どんなに悩みが深くとも、私たちは天におられる「神の母」マリアに神へのお取次ぎを願うことができるのです

日, 07/17/2005 - 00:00

「神様は私たちの
長所も短所も知っておられ、
ありのままに受け入れてくださる」

今日は毒麦のたとえ話についてお話したいと思います。

まず皆さん、「いつくしみ」という言葉を知っていますか。イエスはその教えの中で何度も使っており、この言葉の深い意味を知るのは非常に大切です。「いつくしみ」は神様の私たち自身への愛の特徴です。この神の人間に対する態度は、今日の答唱詩篇(詩篇86・5+6、15+16)において、とても美しい言葉で語られています。

神よ、あなたは恵み深く、心の広いかた。
あなたに助けを求める人にいつくしみを注がれる。
神よ、わたしの祈りを聞き、願いの声に耳を傾けてください。

神よ、あなたはあわれみに満ち、恵み深いかた。
怒るにおそく、いつくしみとまことにあふれておられる。
あなたのしもべに力を授け、あなたに仕える者を救ってください。

さて、神様の「いつくしみ」についてこのように理解したうえで今日の福音(マタイ13・24−43)にある毒麦のたとえ話を想いおこしてみましょう。

午後5時ごろ、昼の暑さもやわらぎ涼しい風が吹き始めています。地主が従者をつれて自分達の畑を見に来ています。豊かに実った一面の麦畑に二人はとても満足そうです。しかし二人が麦畑をみていると、ふと毒麦が中にまぎれこんでいるのを見て驚愕します。とりみだした従者は、すぐに毒麦をすべて抜きましょうと進言します。しかし地主はこれを制して、「いますぐに毒麦を抜こうとすると、地中で根が絡み合っている良い麦まで一緒に抜いてしまう。刈入れの時に毒麦を選別し、焼却すればよい。」と指示します。

さてこのたとえ話の意味はどのようなものでしょうか。たとえ話の目的は聞く人に考えさせることです。皆さんもよく考えてみましょう。

私は、ここでイエスは二つのことを言っておられると思います。

まず神様のいつくしみです。
神はすぐに悪いことに対して罰を与えるのではなく、回心を待ってくださいます。私たち人間の心の中にも、良い麦・悪い麦があります。この世に完璧な人間など一人もいません。心の中に光と陰、長所と短所、強さと弱さがそれぞれあります。これは中国の伝統的な思想である陰陽の考え方と同じです。私たちは、自分の「陰」の部分、暗い点を受け入れているのでしょうか。自分をまず受け入れなければ、隣人を受け入れることはできません。

つぎに私達の身近な人々、隣人へのいつくしみです。
私達の共同体の中には、熱心な信者・不熱心な信者・中くらいの信者などいろいろな種類の信者がいます。まわりの人がどうであろうと、神様の自分へのいつくしみは一緒、変わることはありません。私達は天使の共同体でなく、先ほどの陰陽の二面を持った、普通の人間の集まりです。相手をありのままに受け入れましょう。神様から戴いたいつくしみを、今度は他の人に与えるということは、もっとも基本的で重要なことです。

この麦のたとえ話について申し上げたいことは、明日を担う子供たちのことです。たとえ子供・孫達が自分の思うとおりでなかったとしても、「良い麦」となるかもしれないのです。親は自分の子供のために祈り、おじいさん・おばあさんは自分の孫達のために祈りましょう。

日, 07/10/2005 - 00:00

「私の心の土は
種を育てることが
できるでしょうか?」

私の母国はニュージーランドです。一時帰国すると母国の人々から
「なぜ遠い日本に行っているのですか?ニュージーランドでも今は神父様が不足しています」
と言われることがあります。
実はこの質問はよくあるので、わたくしはいつも次のように答えるようにしています。
「日本ではクリスチャンは人口の1%しかいません。わたくしは神の指名によって喜びと希望の種を日本に播きに行っています。私は、この種まきの喜びを神とともに分かち合いたいのです」、と。
この使命感・充実感・熱意といったものは常に一定ではなく、ある時には鈍くなったりうつろな気持ちを味わうようなこともありました。
まだ教会の基礎が固まっていなかった初代教会の人々も困難の連続でした。初代教会の信者達は、たとえ話を使って自らの改革・改善のために深い反省を行いました。これらは私の言葉でいえば「心の反省」、「良心の救命」、「心の棚卸し」といったもので、こうした深い反省を通じて新しい出発を行うことができたのです。
今日の福音(マタイ13・1−23)はイエスによる有名な「種まきのたとえ話」ですが、わたしたちに次の四つの質問を投げかけています。

(1)自分の「信仰の種」は、固く踏み固められた道の上に落ちてしまったのでしょうか?
本当にそうでしょうか? 少なくとも今イエスの話を聞いているということは、道路ではなく畑の土の上に落ちたということでしょう。実はその場所は、とても豊かな土なのではないでしょうか。ただ、イエスの言葉がしっかりと「心の耳」にはいっているでしょうか。「心の耳」が詰まると、イエスの言葉は単なる知識・学問となってしまいます。そして「心の土」は干からびた、道ばたの土のようになってしまうのでしょう。

(2)自分の「信仰の種」は、石だらけの土が少ないところに落ちていませんか?
イエスの言葉は聴こうとしていますが、イエスの言葉の美しさ・甘さのみを受け入れているため、「苦しみ」に出会うとたちまち信仰が揺らいでしまう人がいます。イエスの十字架の苦しみと向かい合いましょう。自己中心的な自己憐憫と決別し、自分の苦しみを通して隣人と愛を共感する。簡単ではありませんが、可能なのです。苦しみの時こそ、本当の祈り、「叫びの祈り」を通して神を近くに感じる時なのです。

(3)自分の「信仰の種」は、いばらの中、雑草の中に落ちてしまっていませんか?
この雑草とは、物質万能時代での富、世俗的な誘惑を意味するのでしょう。わたくしたちは生きていくのに現代社会と相応の折り合いを付けていかなければなりませんが、表面的な華やかさに幻惑され、日常の忙しさに負け、あるいは一面的な意味しかない競争が全てと誤解し、自分自身を見失っていないでしょうか。忙しくなればなるほど「祈り」は大事です。

(4)自分の「信仰の種」は、良い土地に落ちているでしょうか?
石を取り除き、雑草を抜き、肥料をいれ、よく耕せばよい土となります。私たちの「心の土」も同じことであり、手入れが必要です。一言で言えば、祈り。イエス様と親しいつながりを持つという意味で、祈りは絶対に必要です。少なくとも、朝・夕、簡単で自分の言葉で結構ですから、静かな場所で祈りの時間を持ちましょう。聖書などを読む、霊的読書ということも大事です。自分の信仰を大切にし、信仰の希望・喜びをしみじみと味わい、これを自分の隣人とともにわかちあう、これこそが明日への希望そのものです。「現代日本社会の最大の危機は「希望」がないこと」(大江健三郎)と言われていますが、わたくしはイエス様は常にその回答を私たちのために用意してくださっていると思います。

日, 06/26/2005 - 00:00

「暖かいもてなしは
キリスト信者の
特徴です。
私は?」

聖書に書かれているイエスの言葉を、杓子定規に表面の文字通りにとらえると、本質を見失うことがあります。
今日の福音(マタイ10・37−42)も、そんな部分があります。
「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも、わたしにふさわしくない。」、「自分のために命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである」、ということはどういう意味でしょうか。

実は、これらの言葉、次の三つの点をよく理解していないとよくわからないと思います。

まず第一の点として、奉献の考え方です。「イエス様が一番」という聖歌のとおり、自分の全てを父なる神にささげる奉献の心は信仰生活の基礎です。しかし、その奉献の中で、父母、息子娘との絆はさらに大きく、さらにしっかりしたものになっていきます。

そして第二の点として、自分への救いの考え方です。「自分のために命を得ようとする」とは自分自身だけのために自分一人であくせくする、ということを言っています。このお御堂に掲げられている14枚のレリーフ、十字架の道行きはイエス様の歩んだ苦しみの道行きを表しています。わたくし達が困難にぶつかるとき、私たちはその苦しみ・悩みに決して一人ぼっちで悩んでいてはいけません。必ずイエス様と一緒、二頭立ての馬車で立ち向かっていかなければなりません。

そして第三の点として、暖かいもてなしです。
49年前、私が初めて日本に赴任した時、その時はまだテレビが無い時代で、教会は電話がある数少ない施設でした。赴任先は必ずしも豊かとは言えない漁村でしたが、村の人々には大変あたたかい交わりがありました。皆で協力して行う田植え、魚市場の喧騒、八百屋の前でのいつ終わるともしれない立ち話...。そのような時代は終わりました。いまの時代は、自分一人一人のプライバシーのために厚いな壁をめぐらし、複雑で頑丈なオートロックをつけたマンションのようです。暖かい交わりが難しくなっています。

遠藤周作が「イエスの生活」の中で言っているように、イエスはさびしさを体験しました。今の日本社会で寂しさに苦しんでいる人は多いと思います。イエスもそのような寂しさを持っていましたが、ラザロ・ルコ・リアなどから暖かいもてなしを受けています。皆さん、私たちはどうでしょうか。

難しい人、気の強い人、意見の強い人...。私たちは人間ですから、様々な人たちがいます。難しさを強調しないようにしましょう。人によって性格は違います。そしてそれは健康的なものです。神様はつまらない私をありのままに受け入れてくださいます。では、私たちは私たちをどのように受け入れるのでしょうか?

今、日本の学校では、残念ですがいじめは非常に多く、子供の自殺も後をたちません。みなさん、このいじめは学校だけの話ではありません。大人の社会の中では、間接的ではありますが、もっと陰湿な形のいじめがあるのではないでしょうか。もし自分の職場や地域のなかで、寂しそうにしている人がいたら、暖かいもてなしの挨拶を自分からいたしましょう。

「暖かいもてなしの心」は教会の建物の中だけの話ではありません。もっとハッキリ言うと、たとえば車の運転はどうでしょう(笑)。相手のために優しく運転する、相手を思いやって運転する...。わかってはいるのですが、イライラしている時は、つい自分も荒い運転になったり意地悪になったりしませんか。

私たちが暖かいもてなしをすれば、それは必ず報いを受けます。アッシジの聖フランシスコの祈りにあるように、人のために生きることによって、私たちは心の平和を得ることができるのです。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さなものの一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(新共同訳 マタイ10・42)

私たちの肉体はいずれ塵に戻ります。その時、天国の門にイエスは立っておられ、「おかえりなさい」と私たちを出迎えてくださいます。その時、私たちは、イエス御自身から暖かいもてなしを受けるのです

日, 06/19/2005 - 00:00

「神よ 深い渕から あなたに 叫び
嘆き 祈る 
わたしの声をきいてください」(詩130)

今日入祭の時に歌った「ごらんよ空の鳥」は、人気のある聖歌です。この歌の歌詞は、必ずしもすべてが順調でない時にも、神様を信頼することにより得られる安心感を歌っています。

私たちの神様が私たち一人一人を優しく見守ってくれている、そして私たちをありのままに受け入れてくれる、という事実は私たちの祈りの土台です。

人は苦境に陥ると神に祈ります。日本でも昔から「苦しいときの神頼み」とやや揶揄されています。キリスト教では、「苦しいときの神頼み」はまったく構いません、いいことです。もっともこればかりでは残念ですが(笑)。

私たちは人間ですので、弱く、罪を犯しやすくまた自ら問題を招いたりして、苦境に陥ることがあります。このような時に神に祈り、神の助けを請うことはとても自然なことです。この祈りの時に、私たちは丁寧な「着飾った心」で祈ってはいないでしょうか。苦しいときの祈り、助けを請う祈りは丁寧である必要はありません。ありのままの自分をさらけだし、本当の自分を神にみせる必要があります。

このことに関して、イギリスのブルーン大司教が「祈りの学校」の中でつぎのように言っています。

祈りが的をはずれるわけ

私たちの祈りがよく的をはずれるわけは、
私たちが神のみ前に出ようとするとき、あるがままに
出るのではなく、自分自身がこうあるはずだと思う
姿として出ようとするからです。

又は神は私たちがこうあるべきはず、
つまり善良な人として出ると思っておられると、
私たちが思い違いをしているからです。

神は私たちがあるがままにあってほしいのです。
つまり、弱い、罪深い人間のひとりとしてです。

果たして私たちには、このように神から
受け入れられたこと自体、受け入れるだけの勇気が
あるでしょうか。

とても深い点をついている言葉です。今週もう一度よく読んでみましょう。神でありながらも人間でもあったイエス、イエスですら「父よ、父よ、どうして私をお見捨てなるのですか」と悲しみの祈りをなさったのです。イエスは、私たちとまったく同じように、悩み・苦しみ・痛み・恐れ・空虚な気持ち・見捨てられた気持ちなどをご自身で経験し、それらをよく知っておられるのです。

悲しみ、嘆き、悲嘆の祈りといえば、今日の旧約聖書でもあるエレミアの哀歌が最も知られています。人間の世界での失敗の時に、よく祈られています。皆さんも、誰かがもし悩み・苦しみを経験しているのであれば、この祈りをささげましょう。

哀歌の祈り方は次の四つの段階からなります。

最初の歩みは、私たちが神様に自ら近づくことから始まります。旧約聖書、哀歌130番にあるように、「神よ苦しみのどん底・最低にある私からの祈りを聞いてください」と祈りましょう。

次に自分の内の苦しみをありのままにさらけだしましょう。きれいな言葉でなく、自分の言葉であらわしましょう。神様にとって自分のありのままの言葉でしゃべることは、決して失礼なことではありません。

そしてイエスの御言葉を思い出しましょう。「恐れるな私はあなたのそばにいる」というイエスの力強い希望の言葉です。暗闇の中にさまよう自分であっても、終わりのない夜はなく、曙のなかに光る星のように、やがて光に包まれるときがくるのです。

最後に、「前もって感謝する」ことです。神様からの愛に本当の意味で気がつくことができれば、目前の悩み・苦しみなどはすべて相対的なものに過ぎないと感じられることでしょう。目前の悩み・苦しみがそれぞれ解決・解消するしないにかかわりなく、神の愛に対して前もって感謝いたしましょう。

日, 06/12/2005 - 00:00

「収穫は多いが、働き手は 少ない」

(グンテル助祭)

マタイによる福音書は、イエスによる許しや癒やしの場面が多く語られています。今日の福音(マタイ9・36−10・8)では、そのようなイエスによる許し・癒やしが、さらに弟子たちを派遣することによって、より大きな布教活動へ変わっていく様子が述べられています。

イエスは群衆が「飼い主のいない羊のように」弱り、打ちひしがれているのを見て深く憐れみました。そしてたくさんの人々が神の助けを求めている様子を、畑にたくさんの作物が実ったのに、それを収穫する働き手が少ない、とたとえられました。イエスは弟子たちを呼び、神の教え・許しと秘蹟によって、イスラエルのすべての人々に神の愛と許しのメッセージを伝えるよう送り出したのです。

この神からのメッセージを伝えるという大きな仕事のために、イエスは弟子たちに権能をお与えになりました。弟子たちは自分達の声でなく、イエスの名において宣教を行ったのです。

これらの弟子による最初の宣教が、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町にはいってはならない」とイスラエルのみに限定されていることに、厳しいと感じるかもしれません。弟子たちがさらに特別な権能を与えられ、文字通り全世界へ派遣されていくのはイエスのご復活の後、神の御約束がイエスの復活により成就された後のことなのです。

弟子たちは病者を癒やしたり、悪霊を追い出すなどの権能をイエスからいただきました。しかし、この権能は神からいただいたもの、イエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と弟子たちを厳しく戒め、自らの利益ために利用することを禁じています。

物質的には豊かになりましたが、現代の複雑化した世の中で、神の癒やし・助けを求める人々はますます増えています。物質的、外見的には普通でも、その内面はまさに「弱り・打ちひしがれている」、のではないでしょうか。私たちイエスに従う者たちは、言葉と行いによって神の愛と許しのメッセージを全ての人々に伝えていきます。彼等が忠実にその任務に応えられるように、収穫の主である神様に私たちの祈りを捧げていきましょう。

日, 06/05/2005 - 00:00

「私に従いなさい」
心の船に帆を張り
風によって帆を
調節しなさい

皆さん、私たちが聖書を開くとき、決して大昔のことを書かれたお話と思わないでください。今日の福音(マタイ9、9−13)は遠い二千年前のできごとではなく、今、現在の私たちに対する神様からの直接のメッセージなのです。今日、この瞬間、イエス様は「私に従いなさい」と呼びかけているのです。

信仰生活というものは平坦な一本道ではありません。子供時代の信仰、青年時代の信仰、大人時代の信仰というように、その内容とありかたは変わってきます。変化に対応して、順調の時も逆境の時も、目的地に到着することを信じて、帆を操る...。わたくし達の信仰生活は、この挿絵に描かれた帆掛け舟をあやつることに似ています。この挿絵は百科事典から写してきたものですが、順風で波も穏やかな時には普段の帆の外に特別な帆(*)を前に張って、スピードを出します。一方、嵐になった時には小さな帆をはり(**)、小さな帆をたくみに操って嵐をやり過ごすことになります。

私自身の信仰生活も、この帆掛け舟のようでした。20代では元気いっぱい、すべての帆を張り、思いっきり勉強と仕事に打ち込みました。30代にはいり、大きな病気をはじめて経験しました。これは信仰の帆を操るわたくしにとってまさに最初の嵐の経験でした。嵐の中の帆の調節はとても難しく、暗くうつろな心の嵐の中でのつらい経験でした。そして40代では、心の雑音ばかりで、私の帆掛け舟はとまってしまい、漂流しはじめたのです。

このように暗くてつらい嵐の中にあっても、水平線上にわずかに輝く、あけぼのの光のように、私は「主イエスは必ずあらわれる」というお招きの声を聞くことができたのです。そして50代になると私は新しい出発をきることができました。日本に戻り、日本での仕事の中に「私に従いなさい」というイエスの声をあきらかに聴くことができたのです。

ところが、です。60代にはいり脳梗塞で倒れてしまいました。乗り越えたと思ったらまた嵐、一難去ってまた一難です。また、神様への沈黙、「うつろな気持ち」の再来です。しかし、私は懸命に祈り、「私に従いなさい」という声を聴くことができました。70代に入った現在では、記憶力・体力・健康の衰えは、残念ながら隠すことはできません。嵐、の連続であります。しかし嵐になっても、もう私は落ち着いて信仰の帆を操ることができます。私の帆掛け舟は沈むことはありません。

エンジニア、事務員、会社員、自営業...ここにはいろいろな種類の職業の人がいます。そして人はそれぞれの人生のなかで、様々な人生の転機を迎えます。就職、結婚、出産、子育て、巣立ち、そして愛する人との別離、死別など。それぞれの人生の中に、それぞれの転機がむしろ唐突に生じ、まさに人生の大嵐というべき巨大な悩みや苦しみの中に放り出されることがあります。

このような嵐の時こそ、心の帆を張りイエスからの呼びかけ、「私に従いなさい」という声に気づきましょう。そしてこの呼びかけに応えて、神様のために時間を使いましょう。
神様のために時間を使うということは、
(1)祈りを通じて神様と直接心の交流を図る、ことと
(2)隣人のために時間を使う、ということです。

婚姻の秘蹟の誓いにあるいように、「順調の時も逆境の時も、健康の時も病気の時も」、私たちは心の舟に帆を張り、風によって帆を調節します。暗闇の嵐の中でこそ、小さくとも帆を張り、神様からの呼びかけに耳を澄ましましょう。

「私に従いなさい」

*普段の帆、特別な帆
一般的なクルーザー型ヨットではメインセール(主帆)、ジブ(横帆)の外にスピネーカーという大型の帆があり、順風(およそ75−180度のポジション)の場合のみ展張される。
**小さな帆を張る
強風・荒天時には、ヨットは風に合わせて帆を縮小し(「縮帆」(リーフ))、重心点を下げるとともに操舵性を確保しなければならない。通常、まずメインセールを縮帆し、次にジブを小さなものに交換していく。強風下のジブ交換は技術が必要である。また極端に小さなジブに交換すると速力の低下を招きかえって危険な場合もある

日, 05/22/2005 - 00:00

父と子と聖霊の
温かい愛に
入りましょう

今日は三位一体の主日です。
私たちは祈る時に、あるいは神様からのご加護を願う時に、「父と子と聖霊」の十字のしるしをきります。この十字のしるしは、三位一体を信じるという信仰宣言にほかなりませんが、この三位一体の神秘は私たちの実際の毎日にどのようにかかわってくるのでしょうか。

春は教会の教義にとって重要な主日が続きます。四旬節の後にご復活、そして聖霊降臨とともに教会が始まったことを記念し、そして今日の三位一体の主日となります。

長いカトリック教会の歴史のなかで、様々な神学者たちが三位一体の神秘を議論し解説してきました。今日は神学的、学問的な意味ではなく、わたくし達の日常の暮らしのなかで三位一体がどのような意味を持つかお話したいと思います。

わたくし達が生きる現代の世の中では、マスメディアの発達のおかげで極めて大量の情報が瞬時に得ることができます。わたくし達は世の中の人々の動きについてよく知っています。しかし自分自身について、親しい人間的なコミュニケーションをまわりの人たちととれているでしょうか。現代社会が効率を求め競争的になっていけばいくほど、わたくし達も利己的・排他的とならざるを得ず、隣人をも競争者として見てしまいがちになります。
今の日本では多くの人が大きな町や横浜のような大都会に住んでいますが、本当に親しい人間的な交わりを持てる機会は実は少ないのではないでしょうか。さらに言えば、現代社会の競争的な雰囲気に流されて、折角得た隣人とのコミュニケーションもうまくいかず、大都会の中で孤立し寂しさを感じている人は少なくないと思います。

三位一体の教えの基本は、まず神の本性は「愛と感性の交わり」であるということです。「父と子と聖霊」から成る神の本性は愛であり、その愛は感性の共同体の形をとっています。この愛の共同体の中には利己心や憎しみはありません。今日の福音(ヨハネ3・16−18)にあるように「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。三位一体の教えのわたくし達の日常への意味は、わたくし達が隣人と連帯し愛の交わりを拡大していく模範・励みになるということです。

もちろんわたくし達は神ではなく限界ある人間でありますので、利己心や憎しみを捨て去り愛の交わりを広げることは簡単なことではありません。努力すればするほどその難しさを認識することもあるでしょう。しかし困難に直面しても、それは失望することではなく、むしろ乗り越えるべき障害、キリスト者としてあらたな仕事が現れたと考えましょう。祈りによりわたくし達の信仰を強め、与えられた使命を果たせるように、愛の連帯を強めていきましょう

日, 05/15/2005 - 00:00

今日は聖霊降臨の主日です。この日は別名、教会の誕生日とも言われます。これは聖霊が降り、そして初めてキリスト教会として布教が始まったからです。

私たち信者は「父と子と聖霊」の十字のしるしをきります。また「聖霊の交わり」という言葉もよく使われます。父なる神、その神がこの世に遣わされた御子イエス、は私たちにとってイメージしやすいものですが、それでは「聖霊」とは何でしょうか。
私たちの信じる神は、父と子と聖霊の三つの部分からなるとも言われ、あるいは三つの面があり、唯一、一つの神となっています。聖霊も神の一部あるいは一つの面であり、私たちを助け、慰めてくれるものです。自分の人間的な弱さを認め、神の助けが必要であることを認めることは、抵抗があるかもしれません。しかし謙虚にならなくては、自分一人よがりで祈っていても、その祈りには味がありません。私の祈りに風味を与えてくださいと聖霊に祈りましょう。共同体の人々とうまくいかず教会に来にくいような時、聖霊に来てくださいと祈りましょう。聖霊によって助けてもらえるのです。
聖パウロのコリントの教会への手紙の中で、教会が分裂と対立の危機に瀕していたとき、聖パウロは祈りと聖霊の力によって「多様性の中の一致」を実現していきました。
今日、お知らせの裏に掲載した「聖霊への祈り」を祈ると私はたくさんの響きを感じます。皆さん、今週はこの「聖霊への祈り」をゆっくりとかみしめて祈ってみましょう。

聖霊への祈り
聖霊、来てください。
あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな想い、
ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむときの励まし、暑さのやすらぎ、
うれいのときの慰め。
恵みあふれる光、信じるものの心を満たす光。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、かわきをうるおし、
受けた痛手をいやす方。
かたい心をやわらげ、冷たさを暖め、
乱れた心をただす方。
あなたのことばを信じて、
より頼む者に尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え。
恵の力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン

イエスは神でありながら人間であることを経験されました。イエスのとりなしの力のおかげで私たちのもとへ聖霊がきてくれます。聖霊とはおだやかな風のような、神からの息吹です。

皆さん、この鐘の音を聞いてみましょう。(鐘を打ってならす。残響が長く静かな聖堂に残る。)

説教中の眠気をさますのにはよいでしょう?(笑)
聖霊とはこのように静けさのなかで感じとられる、やさしい穏やかな、神からの息吹です。私たちは日々忙しい毎日のなかで、心の雑音でいっぱいです。しかし、静けさに包まれ祈る時間をすこし持つことは、不可能なことではありません。祈りを通して聖霊の助けをいただきましょう。

今日の福音(ヨハネ20・19−23)は、イエスの弟子たちが、イエスがこの世から去ったあと、ユダヤ教徒の来襲をおそれて隠れ家で共に祈っている場面から始まります。弟子たちは、ユダヤ教徒からの来襲をおそれていただけでなく、公の場でイエスの「証し人」となろうと思っていても、そうなる自信がありませんでした。そこへイエスが現れたのです。イエスはそんな弟子たちを優しく受け入れ、息(ルーハ)を吹きかけたのです。この聖霊の息吹を得て、弟子たちはイエスのメッセージを伝えるべく、隠れ場から出て、すべての国、すべての民族への布教を始めたのです。

聖霊の助けがなければ、私たちの信仰は口先だけとなってしまいます。心の耳を澄ませ、聖霊の助けを受けましょう。聖霊の力により、私たちがすべての人々への証し人となれますように。

日, 05/08/2005 - 00:00

今日は主イエスの昇天の祝日です。イエスはイスラエルの地で33年の生涯を終えただけではありませんでした。この昇天、人間であることを経験なさり天にお戻りになったこの昇天のおかげで、今保土ヶ谷の皆さんの心にイエスがあるのです。今日の第二朗読で、イエスが昇天の後、神ご自身の右の座に着いた(エフェソ1・20)とありますが、これはイエスが人性を経験したのちに、神性に戻られたことを意味しています。右の座、すなわち神そのものになったということを意味しています。神でありながらも人間であった経験を持つ神様は私たちのことをとてもよく理解してくださいます。

今日の福音(マタイ28・16−20)にあるイエスの言葉、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これはとても優しい、また力強い言葉です。そしてパウロの手紙(エフェソ1・17−23)にあるように、主イエス・栄光の源である御父が、知恵と啓示を与えてくださるのです。ここでいう知恵とは頭の知恵ではなく、「心の知恵」とでもいうものです。物質的な知恵は、物質的なことに追われ忙しい日々を過ごす私たちの問題解決には役立ちません。父なる神は御子イエスをこの世につかわしてくださいましたが、このイエスそのものが啓示です。イエスは私たちの喜びの源、人生の意味、希望の源です。 私たちが聖書を読むとき、「上からの光」が必要です。祈ることによって、私たちがこの「上からの光」に照らされるように、神に祈りましょう。聖書を読む時は、学問的・神学的に読むのではなく、「神様を心の中に経験する」ようにいたしましょう。「心の目を開き、」(エフェソ1・18)、神様と親しい心の交わりをいたしましょう。私たちはまだ、ピンときていないのです。聖書にあるように、道端の盲人が「主よ私を憐れんでください!」と叫んだように、心の目を開くように祈りましょう。イエスは盲人を癒したように、私たちの心の目をひらいてくださいます。イエスの優しい言葉「疲れたもの、重荷を背負うものは、誰でも私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」は神のお招きの言葉です。神の力によって眼が開くように、神の力によって悟るのです。孤独な、一所懸命な努力はいらないのです。全世界に働く神の力、この力を信じ、どうぞ開かれた心をもって神との心の交わりを持ってください。

かつて3年にわたり保土ヶ谷教会の主任司祭でもあったデイキン神父様が、金曜日に突然ご帰天されました。神学校での私の同級生であり、同じ修道会にて56年間共に日本で働いていたとても親しい仲間でした。最後までとても元気で、実際水曜日には一緒に夕食をとり、次の大きな旅行のプランや今年迎えるはずだった叙階50周年のことなどを話していたところでした。金曜日の夕食中、突然眠るように亡くなられたのです。彼はオーストラリア・ビクトリア州の必ずしも裕福とは言えない田舎に生まれ、14歳で郵便配達、17歳で海軍に入り、そして24歳でカトリック司祭を志したのです。学究肌ではありませんでしたが、彼こそ「心の知恵」を持ち、常に「もてなしの心」をもって人と交わっていきました。デイキン神父様の死はとても悲しく残念でありますが、同時にとても希望があります。なぜならば彼は神の永遠の栄光にうちに入っていったからです。「私はいつもあなたがたと共にいる。」このイエスの言葉をあらためてかみしめたいと思います。

日, 04/24/2005 - 00:00

今日の福音(ヨハネ14・1−12)では、最後の晩餐において、イエスが弟子たちに「私は道である」と述べられています。これはどのような意味でしょうか。

最後の晩餐において、イエスは現世的な意味での別離を弟子たちに伝え、動揺する弟子たちに向かってイエスは確かな約束を語るとともに、大きな信頼を求めています。この時、トマスという弟子、この人は後にイエスが復活なさった後もなかなか信じようとしなかったのですが、このトマスが「イエスが今後どこへいくのかわからないし、後を追おうにもその道を知ることもできない」と言います。これは、それまででイエスが言い続けてきた教えをトマスが十分理解できていない、イエスの教えを十分に信じていないということになるのですが、そんなトマスをイエスはあるがままに受け入れ、優しくはっきりと「わたしは道である」とおっしゃっています。トマスの信仰は、私達の信仰と同じように薄いものでしたが、神様はこのように優しく受け入れてくださるのです。逆説的ですが、トマスの薄い信仰・疑いのおかげで神の美しいみ言葉を聴くことができたのです。

さて道といえば、私は東山魁夷の絵が大好きで、この道の絵がとても気に入っています。(掲げる)一直線に天に向かって伸びる終わり無き道。私たちは人生の道を歩んでいき、いずれ神様のところへ帰ります。今、その途中です。そのようなはてしない雰囲気をこの絵から私は感じます。

また自分のことで恐縮なのですが、20年前、私が初めて大磯教会へ行ったときのことです。大磯駅を出て、私は親切そうな人に「大磯カトリック教会はどこですか?」と尋ねました。その方は「ああ、よく知っています」と答え、熱心に説明してくれました。「ここをしばらく行って左に曲がってから道なりに行って、国道一号線にでるのでそこで左折して、それから5百メートルくらいあるいてヤクルトの工場があるところで道をわたって右に曲がり、それから右に曲がって路地にはいり、それから最初で左にまがりそれから二つ目で右...」 私の顔は暗くなっていたことでしょう。そんな私の顔をみて、その方は「では、わたしも一緒にその教会まで一緒にいきましょう!」と言ってくださいました。その時、その方は私の道となりました。

イエス様はこのような方です。私たちと一緒に人生の道を歩んでくださいます。私たちは決して一人ぼっちではなく、人間的な弱さもよく理解しているイエス様から、大きな慰め・支えをいただくことができます。

私達が信じるこの宗教が「キリスト教」と言われるように、いろいろな教義やその他の大切なものの中でも、最も基本的で大切なものが主イエス・キリストそのものです。「私は道である」とおっしゃってくださった私達の友なるイエスの御言葉を味わいましょう。

日, 04/17/2005 - 00:00

(開祭の儀でのケンズ神父お話)
皆さん、ミサが始まるときに、入祭の歌と挨拶の後に私達は回心の祈りを捧げます。この回心は神様からの助けをいただく準備としてとても重要です。回心、「まわる心」と書きますが、まさに私達の人生において一生ついてまわるプロセスです。私達は人間だからこそ、暗い部分、足りない部分、惨めな部分などがあります。勇気を持ってこれに向かい合い、自分の至らなさを謙遜に認めましょう。回心の準備として、謙虚・謙遜の心をもつことが必要です。

(ことばの典礼でのケンズ神父お話)
今日の第二朗読(一ペトロ2・10b−25)で読まれる聖ペトロの手紙は西暦90年頃に書かれたといわれています。その時代はローマ帝国によるキリスト教の大迫害が始まったころで、苦しみの中で信者達はどうしたら良いか、悩み続けていました。ペトロの言う、苦しみの中にあってイエスとともにいること、イエスが示された模範に続くこと、は今も昔も変わりません。

(説教:グンテル助祭)
皆さん、今日は召命祈願日です。私達は召命というと司祭、修道士の召し出しだけを考えがちですが、神様は私達信徒全員にキリストの弟子としてその証しをするように求めておられます。私達はみな、神様から一人ひとり特別な賜物をいただいており、それぞれ何かできることがあります。いただいた賜物を生かして、神の証しとすることができるようにいたしましょう。この意味で司祭・修道者・信徒は皆同じ神の証し人なのです。この証し人の中で、特に司祭・修道士は自分自身を神に捧げるものです。私のことになりますが、大学生のころ先にヨハネ・パウロ二世の伝記を読んで深い感銘を受けました。著者はユダヤ人のテレビアナウンサーでしたが、私はこんな人がいるのかと驚いたものでした。神様はいろいろな形でインスピレーションを与えて下さいます。若い人たちが、これからの教会をささえていく司祭・修道者となるように祈っていきたいと思います。今日の福音(ヨハネ10・1−10)は、羊は羊飼いの声を知っているのでついていくが他の者には決してついていかない、と言っています。私達もこの羊と同じように神の声を聞き分けたいと思います。

(ケンズ神父のお話)
皆さん、嬉しいお話があります。先日東京大神学校の校長様から手紙が届き、グンテル神学生は今後一年間引き続き保土ヶ谷教会にて働くことになりました。(大きな長い拍手)

テレビなどで皆さんすでにご存知かもしれませんが、明日よりバチカンではコンクラーベ(conclave)と呼ばれる教皇選出の集まりが始まります。コンクラーベとは「鍵の掛かった中」という古い言葉ですが、その言葉のとおり世界から完全に隔離されたなかで、集まった115人の枢機卿のなかから新しい教皇が選ばれます。コンクラーベの中に神様の聖霊が降りるようお祈りいたしましょう。

さて一粒会について少しふれておきたいと思います。一粒会は信徒の皆さんが祈りと献金を通じて司祭・修道者の召命を支援する会です。祈りと献金をお願いいたします。

また、新しいキリスト教入門講座が今月から始まります。信者・未信者を問いませんので、信者の復習としても最適です。また皆さんのまわりにキリスト教に関心がある方がいれば是非おすすめください。できるだけ多くの未信者に参加していただきたいと考えています。

日, 04/10/2005 - 00:00

先週の日曜日の朝、ヨハネパウロ2世教皇様が亡くなられました。教皇様の晩年は病との闘いでありました。そのような中、昨年10月に「聖体の年に関する使徒的書簡」を発表されましたが、これが実質的に教皇の遺言となりました。その書簡の中で教皇は「私達の疑い・困難の中でイエスは現れ、希望と励ましを与え、そして一緒に旅人として歩んでくださる。」とおっしゃっています。これこそイエスご自身がご自身の死と復活の秘蹟によって示してくださった現代に生きる私達へのメッセージです。
今日の福音(ルカ24・13−35)はこの教皇の最後のメッセージをもっともよく表している部分で、皆さんにもよく味わって欲しい箇所でもあります。

イエスの死後、二人の弟子がエルサレムから去っていく夕暮れの道で、イエスは同じ道を歩む旅人として姿をあらわします。イエスと気がつかない二人に対してイエスは聖書全体を説明し、そして同じ宿でパンを取り賛美を捧げ割って二人に与えたのです。その瞬間、「二人の目が開け、イエスだと分かった」が、イエスの姿は消えてしまったのです。

「イエスの死」に落胆し暗い顔をしてエルサレムから去っていく二人に、イエスはその姿をお見せになります。この落胆する二人へのイエスの働きかけは、弱さを持った私達普通の人間と神とのかかわり方を、よく示しています。イエスと出会った後、二人が復活を信じ他の人たちに伝えるようになるまでの展開は、私達と神様との関係のありかたをよく示しており、それゆえ毎週のミサの中で繰り返し再現されているのです。

「ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(24−25)
これはミサにおいては「回心の祈り」で、まず私達の信仰の薄さを認めるものです。

「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(24−27)
これは「み言葉の祭儀」にあたり、神の言葉を確認します。

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24−30)
パンがご聖体となる聖変化であり、私達の「目を開く」ものです。

「...わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さず出発して...」(24−32)
これは派遣・宣教の決意宣明で、閉祭の儀で行われるものです。

さて私達はこのエマオへの道の二人のように、イエスと出会うことができるでしょうか。それにはまず祈りと聖書を読むことが必要になります。聖書を読むときには、神のみ言葉が自分自身に入ってくるように、観想的な沈黙と敬虔な姿勢が必要です。聖書を読む時には、はっきり、ゆっくり、噛みしめるように読みましょう。教皇様は「教会で聖書を朗読する時には、語る方はイエスご自身です」と言っておられました。聖書を通して、あなたの人生の同伴者であるイエスを今一度発見してください。

主イエスキリストは今生きておられます。

日, 04/03/2005 - 00:00

(第一説教)
現在のこのごミサの名前ですが、初代教会ではギリシア語でユークリスチア(感謝)という言葉を使っており、さらにその前は単に「パンを裂く式」といっていたそうです。このように...(パンを割り裂く)昔からカトリックの神父はパンを割って裂き、そして共同体全員と分かち合ってきたのです。 いうまでもなく、これにはとても深いシンボル的な意味、イエスはご自身を私たち皆と分かち合ってくれる、そして私たち共同体も深い一致を成し遂げる、といった意味があります。 この命のパン、ご聖体をいただいた私たちは深いところで繋がった同じ仲間です。 自分の時間、自分の都合は誰にとってもとても大事なものです。 しかし、この自分の時間、自分の都合を犠牲にして、自分を他の仲間達とわかちあいましょう。 アッシジの聖フランシスコの平和の祈りにあるとおり、 私たちは「人のために命を捧げることによって永遠に生きる」のです。

(第二説教)
今日の「聖書と典礼」には今日は「神のいつくしみの主日」とあります。カトリックでは「慈しみ」はよく使われる言葉ですが、はたしてその意味は何でしょうか。

ケンズ個人の意見ですが、葬儀でよく歌われる聖歌657番「いつくしみふかき」、これは大変美しい歌ですが、もう少し、色・味をいれることができればと思います。神様の深い慈しみ、これを具体的に思い起こすことです。では、具体的に神様の慈しみとはどんなものでしょうか。聖書を見てみましょう。

例えば、ルカ24章(復活に驚くマグダラのマリア)、ヨハネ20章(復活をなかなか信じない弟子トマス)を見てみましょう。イエスの人間としての死に悲嘆にくれていたマリアに対し、イエスは実際に復活した自らをみせることで信仰の目を開かせています。また信仰が浅く、弟子たちの共同体のなかでやや浮き気味であった弟子トマスにも、自らを見せて復活の事実を示しています。復活について、実際に目で見るまでは信じることができなかったマリアとトマス。復活を信じなかったことについて咎めることもせず、イエスはとてもやさしくありのままに二人を受け入れ、ご自身を示されています。これこそイエスの「慈しみ」の具体的な例です。イエスはこのように人間的な弱さを理解してくださるのです。

私たちイエスを信じる者はこのような慈しみを味わい、また他の人に慈しみを与えることができます。

聖歌657番「いつくしみふかき」(2番)
いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りてあわれむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん

私たちの日常は普段、雑音ばかりの大変忙しい毎日を送っています。 皆さん、どうかたまには時間をつくり、聖書を読み祈ることで、神様との交流を持ちましょう。神の慈しみはまず神様から与えられます。今週はヨハネ20−21章をじっくり味わってみましょう。

イエスの”死”を嘆いたマグダラのマリア、証拠を見せられるまで復活を信じようとしなかったトマス、そしてイエスを一晩に三度も否んだペトロ、これらは昔の人たちではありません。自分の薄い信仰を認めましょう。そして祈りにより、目を開いたトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだように、私たちも真に神に出会いましょう。

土, 03/26/2005 - 00:00

皆さん、わたくしは常に、神でありまた人間でもあったイエスについてお話しています。

イエスを理解しようとするにあたって、イエスの神性を強調しすぎないでください。また、それと同時に人性を強調すぎるのも誤りを招きます。この「神でありまた人でもあったイエス」は、カトリックの奥義です。過去二千年にわたって有名な聖人、神学者達が説き明かそうとしてきましたが、私たちに完全にハッキリわかる説明はありません。私たちにわかることは、イエスは100%神であるとともに100%人間でもあった、ということです。日本の有名な作家、遠藤周作は「私のイエス」のなかでとても良い自分の解釈をしています。皆さん、ひとりひとり自分のイエスをうち立てなければなりません。イエスは神様です。同時に人間としての経験を積み私達のことを完全にわかってくださっています。

今晩、二千年前と全く同じようにイエスの復活があります。イエスの復活は決して二千年前の昔の話ではなく、現代の私達に直接かかわることなのです。私たちが神様からいただく、なぐさめ・励まし・ご加護などはこの復活のたまものです。復活のおかげで神様は私たちとともにいるようになり、私たちは神様からおそれなく想い・赦し・愛をいただけるようになり、また私たちの隣人にも同じものを与えることができるようになりました。今夜の、この復活のおかげです。

イエスは最初のミサで、「私はあなたを友と呼ぶ」と言いました。 このあたたかい呼びかけに応えましょう。

イザヤの書(43:1−5)
わたしたちを造られた主、神は今、こう言われる。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名前を呼ぶ。
わたしは主、
あなたの神 あなたの救い主。
わたしの目にあなたは
価い高く、貴く
わたしはあなたを愛している。
恐れるな、
わたしはあなたと共にいる。」

写真1
復活祭の様子
写真2
復活祭を終えた若者

日, 03/13/2005 - 00:00

今日の福音(ヨハネ11・3−7、17、20−27、33b−45)は大変長いので、聖書を読みながらわたくしのお話をしていきたいと思います。皆さん着席して黙想ください。

今日の福音の箇所は、イエスが親しくしていた友人のラザロの死、そしてその姉妹からの要請によりイエスがラザロの家を訪問し最後にはラザロを蘇らせるまでのお話です。このお話のポイントごとに解説を加えていきたいと思います。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(11−5) ここで私達が注目したいのは、イエスが自分の愛する人たちに対して、わかりやすくはっきりと愛を示しているということです。現代社会に住む私達は、他人への愛を示すことについて、極めて慎重かつ控えめです。間違って愛を示すことにより自分自身が傷つくことを恐れるのです。みなさん、クリスチャンであれば心の中で愛情・好意をもっている人に対し、臆することなく正しく丁寧にあらわしましょう。

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11−25) これはイエスの基本的な問いかけです。これは聖書の物語ではなく、直接神様から私たちへの真正面の問いかけなのです。私たちは神様のこの問いにどのように答えていくのでしょうか。

「イエスは涙を流された。」(11−35) イエスは友人ラザロの死について、心底悲しみ、いきどおりました。イエスは神様だけでなく人間でもありましたので、人間の持つ一番すばらしい面・素質を示しています。私たちは、イエスのように他人に対して心の底から喜んだり悲しんだりするでしょうか。わたくしの感想ですが、かつて日本民族はとても人間的かつ親しみやすい人たちであったと思います。しかし今やすべてがコンピューターで高度に管理され、人間の中にあるはずの豊かさを見ることは随分難しくなってしまいました。経済的な豊かさと引き換えに人間的な豊かさを損なっていないでしょうか。

「しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。」(11−37) この冷たい目でみる冷ややかな観察者をみてください。現代の私たちの姿そのものです。ものごとを悲観的にとらえ、他人を非難の目で観察する...。社会が高度に複雑になればなるほどこのようになっていく傾向があるのではないでしょうか。私たちは、このように人から距離をおく冷ややかな観察者であってはなりません。私たちは暖かい目で人を見つめ、積極的に自ら人とかかわっていくのです。

「(イエスはこう言ってから、)「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」(11−43) さてここでいうラザロには二つの意味があります。表の意味としては、もちろん当時存在したラザロという名前の男性です。しかしもう一つの裏の意味としては、ラザロは私たち自身を意味しているのです。人間的な豊かさをあらわすことができなければ、私たちは自分の狭さ・暗さという「墓」に閉じ込められ、死んだも同然です。イエスが「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、手足を布に巻かれたままの死者が蘇り歩いて出てきました。これはまさに、回心の呼びかけに応え自分の持つ人間の豊かさに気づいた私たちが、「死んでいた状態」から「生き返った」ことを意味します。人間的豊かさを損ない死んだも同然の状態であったとしても、イエスの力強い呼びかけに応え、私たちは、包帯を巻いた死者が歩き出すように劇的に、回復することができるのです。

「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(11−45) 信仰を持ち、いきいきと生きはじめた私たちをみて回りの人も変わっていくことができます。主イエスの死と復活を迎えるこの四旬節にあたって、私たちは自分の心の中で死んでいる部分はないか反省し、もしあったならば再生させるようにいたしましょう

日, 02/27/2005 - 00:00

今日も祈りについて話したいと思います。アヴィラの聖テレジア(1515−1582)は祈りの博士として多くの本を書きました。その本のなかで、「イエス様は私達をありのままに受け入れ愛してくださいます」とし、そして私達神に祈る者は「その神の呼びかけを受け入れ、親しい友としての交わり・対話を行う」ことが祈りであると説いています。

今日の福音(ヨハネ4・5−42)はこの聖テレジアの説く「神と人間の親しい交わり」がイエスご自身によって示されています。

今日の福音、おそらく聖書で一番重要な「井戸端会議」でしょう(笑)、神と人間の親しい交わり、祈りの模範というべきものです。

旅に疲れたイエスがサマリア人の町の、とある井戸のわきで休んでいます。そこに通りかかったサマリア人の女にイエスは「水をのませてください」と頼み、会話がはじまります。当時のユダヤ人はサマリア人を律法にそむいた人々として毛嫌いしており、サマリア人と口をきくことすら穢れるとして禁じられていたのです。そのような背景のなか、イエスは自らお願いをすることから会話を始めます。

神との祈りのありかたを象徴する、このイエスとサマリア人の女との会話には三つの特徴があります。第一の点は神は人間のことをよくわかってらっしゃるということです。イエスは人間の体験をなさいました。イエスは実際に人間として「疲れて、のどが渇いて」おり、「水を飲ませてください」と女に頼んだのです。

第二の点はイエスは私達とはなしたいのです。話しかけられた女は、はじめはとてもびっくりしましたが、徐々にイエスに心を開いていきました。そして、はじめはむしろ失礼なものの言い方で始まった会話も、イエスが神であると確信するようになっていきます。他の人が書いた祈りを使って祈ることも大事ですが、一番重要なことは自ら自分の言葉で神と親しい会話、祈りを行うことなのです。

第三の点は、神は私達を、心の一番下の部分のあるがままを、受け入れてくださるということです。サマリア人の女は、過去五回結婚し現在は別の男と同棲中でした。イエスは女の過去について非難することもなく、淡々とそのことを知っていると述べ、あるがままを受け入れています。女はそのようなイエスに安心し信頼するようになります。

皆さん、このように神はありのままの私達を受け入れてくださいます。人間関係で心の傷を負った時、人や自分を許せないと思う問題があった時、ありのままの自分を神に示し、神と親しく話し合いましょう。それにより真の自由、解放を得ることができます。これこそが「命の水」と呼んでいるものなのです。

イエス様は私達の良い点悪い点すべて受け入れてくださいます。遠慮なく、すべてをさらけ出して祈りましょう。サマリア人の女はイエスとの会話の後、自分の周りの人々にイエスがまさにメシアであると伝え始めました。これはキリスト教の宣教の基本となっています。

神との心と心の親しい話し合い。四旬節の運動としてこのような祈りをいたしましょう。

日, 02/20/2005 - 00:00

今日の福音(マタイ17・1−9)は、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登り、光り輝く神の栄光をお見せになった場面が述べられています。イエスの姿は弟子たちの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。変化したイエスは、天から現れたモーセやエリヤと語り合ったり光り輝く雲に包まれるなど、まさにイエスご自身が真の神であるという証しの場面となっています。

このイエスの神性を強く示す「光り輝く山上」の一節は、対照的なもう一つの一節と読み合わせるとよく理解できます。この一節とは、イエスのご受難の夜の「暗闇に包まれた平地」の部分です。

「彼らはゲッセマニというところに来た。イエスは「私が祈る間ここに座って待て」と弟子たちに命じ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れていかれた。イエスは激しい恐れと悩みに打ち沈み、「私の魂は死なんばかりに悲しむ。あなたたちはここにいて目を覚まして待て」と言われ、少し進んで地にひれ伏し、できればこの時が遠ざけられるようにと祈られた。「アッバ、父よ、おなたには何でもおできになります。この杯を私より遠ざけてください。とは言え私の思いのままではなく、あなたのみ旨のままに」といわれた。」(マルコ14・32−36)

この一節では、イエスが司祭長達に捕縛される直前、深い闇の中で悩み苦しむ人間イエスが描かれており、イエスご自身が神であるとともに、真に人間でもあったという証しとなっています。

神であるものが人間となって現れたこと、これは神学的には「ご託身」あるいは「受肉」などという言葉で表しますが、これは難しい教義上の理屈ではなく、私達の毎日の生活のため、普通の人の信仰のために重要です。毎日の祈りの中に反映されるものなのです。

「光輝く山上に立つ神であるイエス」と「暗闇の平地に祈る人間イエス」の二つの面を合わせて真のイエスなのです。イエスは外見上だけではなく、私達とまったく同じ人間性を持った、肉を持ち血もかよった人間でした。私たちの神はみずから人間を経験したので我々人間をとてもよくわかってくださっています。私たちの神は、決してぼやけた・わかりにくい・遠い存在ではありません。神ご自身が「我々であること」がどんなことであるかみずから経験なさっているのです。親しみやすく、祈りやすい存在なのです。

皆さんこの四旬節の間、毎日の祈りのなかでイエスと話しあい、暖かい心のつながりを築きましょう。イエスは「着飾った心」は望まれませんので、私たちの「ありのままの心」を捧げましょう。「私は今日はこのような気分・気持ちです。」と素直に、親しい友達に語りかけるように話しましょう。

「疲れた者、重荷を背負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」イエスの親しいお招きに応えましょう。

最後に、四旬節第二週にあたりヨハネ・パウロ二世教皇からメッセージがあります。教皇様は84歳ですが、過去にお腹に銃弾を受けられ、また最近ではパーキンソン病などの病気と闘っておられます。教皇様は社会の高齢化にあたり、高齢者を排除するのではなく、高齢者との共生をめざすことを説かれています。四旬節には、私たちは(1)祈り、(2)犠牲、(3)施し(愛の献金)の三つの場を通して神に近づく努力を行いますが、今年の愛の献金は高齢者のためにも使われます

日, 02/13/2005 - 00:00

四句節が先週の水曜日(灰の水曜日)から始まりました。灰の水曜日とは、四旬節の第一日曜日に先立つ前の水曜日でその日、灰の祝別式と塗布式とが行われるところからその名前があります。古くから行われている、ひたいに灰を塗るという儀式、これは四旬節のはじめにあたり深い痛悔の象徴と考えられています。

あなたはちりであり、ちりに帰ってゆくのです。(創世記3-19)

この言葉は決して暗いイメージでとらえられるべきではありません。人間である以上、肉体的な滅びは免れませんが、復活があるからこそ回心して復活を信じなさい、というものが本当のメッセージです。

今日の第一朗読(創世記2・7−9,3・1−7)は有名なアダムとイブの話です。創世 記の1章から10章までは、神話のように面白いストーリーでこの世のはじまりが示され ています。私たちはその面白さ・字句上の事柄よりも、その裏の深い意味に注目しなくて はなりません。それは、まず人間は神との間に暖かいかかわりあいがあったこと、そして その関係は人間が悪と関わることにによって壊れてしまったこと(原罪)ということがあ ります。この原罪という概念は、いろいろな国においても、キリスト教の神を怖い・厳し いものと誤解させることがあります。

しかしここで重要なことは、救い主イエス・キリストが現れ、損なわれた人と神との関係を回復させ、親しい交わりを回復させてくれたということです。今日の第二朗読(ローマ5・12−19)でも「恵みの賜物」について説明がありましたが、この恵みにより神におそれることなくに近づくことができるようになりました。神は暖かい友情を人に与えてくれました。「私はあなたを友と呼ぶ」とイエスは最後の晩餐の際に言いました。私たちはこの友情に応えることができるでしょうか。

4世紀、聖アウグスチヌスは神は「私達をすべて知っていて、つまらない私たちのありのままをすべて理解し受けとめ、そして深く愛してくださる」と説明しています。これを深く信じるならば、私たちの毎日の生活は大きく変わります。イエスは100%神であるとともに、100%人間でもありました。イエスの人間性を通して、私たちは神に近づくことができます。イエスは人間でもあったので、友達からの裏切り、様々な誘惑など人間の経験することはすべて経験しているのです。

あわれみを受け、「恵みの賜物」に向かって大胆に恐れずに近づいていきましょう。結局、神様は「愛」なのです。それは回心し、福音を信じることによって可能となるのです。

私たちは肉体的にはいずれは死に、ちりに帰っていかなければならないので回心を先延ばしにすることはできません。祈りを通して暖かい交わりをつくることができるようになります。

これから皆さんに灰を塗りますが、自分の具体的な回心とはどのようなことでありえるのか、考えてみましょう

日, 02/06/2005 - 00:00

洗礼式の際、私は受洗者に「キリストの光を受けなさい」「光の子として歩みなさい」と言います。これは、この現代の社会において、私たちは「心の灯(ともしび)」「地の塩」になることを意味しています。

今日の福音(マタイ5・13−16)の中でも、イエスは弟子たちに「あなた方は地の塩である」そして「あなた方は世の光である」とはっきりおっしゃっています。世の中に「味わい」や「光」をもたらす者、とはどのような人でしょうか。

昨日(2月5日)は日本26聖人殉教者の記念の祝日でした。今から400年前、1597年2月5日、長崎において26人が信仰を貫き天に召されたのでした。私は歴史が好きですが、この日本の26聖人の殉教に心惹かれます。特に、厳しい冬のさなか、京都から長崎まで彼らが護送された最後の旅には心打たれます。

キリスト教禁教に背いた見せしめとして、彼らは耳をそがれ、大変悲惨な姿で各地を巡ったのでした。太閤秀吉の意図は一般民衆にキリスト教の無力さを見せつけることにありましたが、実際にはまったく逆の結果となってしまいました。国籍も違い(26人中、20人の日本人と6人の外国人)、階層・職業も違う(侍、農民、商人、大工など)26人は、どんな苦難にあっても、どんな棄教の誘いにあっても、お互いを優しく思いやり、一致して信仰を守りました。また、人々に信仰の喜びを語り、そして自分達を処刑しようとする人たちをも許すと述べています。大勢の人々はそれを見て感銘を受けました。ある人は「彼ら(26聖人)を見てはじめてキリストの生き方を理解しました」と言っています。

26聖人はまさにイエスの「証し人」でした。皆さん、この平成の時代に横浜・保土ヶ谷で、私たちは「証し人」となっているでしょうか? 私たち一人ひとりが、家庭・学校・会社・地域など、関わりを持つ様々な集いのなかで「証し人」となっているでしょうか。

単に「私はカトリックです」、というだけでは何にもなりません。マザー・テレサは「微笑みは平和の始まりです」と言っています。難しい社会、難しい状況に流されて、難しい顔ばかりしていませんか? 人間関係で傷を受けた時であっても、人に許しを与えることができるでしょうか。

私たちは平成時代の証し人です。社会の味となれるよう、光となれるように、笑顔で天に召されていった26聖人のご加護を願いましょう。

聖トマス小崎の母への手紙 (当時14歳)
「母上様、聖主のお恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。罪標にしるされている宣告文にありますとおり、私達霊父様以下二十四名(途中二人が追加された)の者は、長崎で十字架につけられるようになっています。どうか私のことも、父上ミカエルのことも、何一つご心配なさらないでください。天国で母上様のおいでをお待ち申しております。 この世の全ては夢のごとく消えうせてしまうことを思い、天国の永遠の幸福をゆめゆめ失うことのないようにおこころがけください。ひとが母上にいかなることをしようとも、忍耐し、かつすべての人に多くの愛をお示しください。 それからとりわけ弟マンショとフィリポに関しては、彼ら二人を異教徒の手にゆだねることのないように、よろしくお取り計らいください。安芸国三原の牢獄より
日, 01/30/2005 - 00:00

今日の第二朗読(一コリント1・26−31)は、現代に生きる私たちにとって分り易い教えを示しています。それは、「誇る者は主を誇れ」ということです。

コリントはアテネに次ぐギリシア第二の都市でした。パウロが説いたキリストの教えを受け入れ、そしてコリントにおける初期教会の中心となった人々には、ギリシア哲学や弁証法などににたけた学者・知識人も多くいました。パウロが次の伝道地に去った後、これら学者・知識人・高学歴の人々は一般の人々を見下し、派閥争いを始めました。せっかくできた教会は四分五裂となり、パウロは何度も手紙により指導を続けなければなりませんでした。

パウロは、「誇るなら主を誇れ」と説き、逆説的に自分の能力・家柄・権力を鼻にかけることを厳しく戒めています。自分では決して勝ち得なかった贈り物、信仰の恵みによってイエスに出会うことができた、という基本的な点において、我々人間は皆一緒であり、等しいものであるからです。誇るものなど主の恵みそのもの以外はない、ということをパウロは説いています。

旧約聖書ではさらに直接的に次のように説いています。

知恵者はその知恵を誇らず、
強者はその強さを自慢せず、
金持ちはその富に高ぶるな。
むしろ、誇る者は、
知恵のあること、私を知ることを誇れ、
私はあわれみをもって、
公正をもって、
正義をもって、
地で行う主なのだから。
(エレミア9・22−23)

 

この一節を思うと、私は45−6年前、日本語を学んでいた逗子教会の藤瀬さんという方を思い出します。とてもやさしく、謙遜な方でありましたが、実は大学の高名な先生でテレビにもよく出ている方だと後で知り驚いたものです。すでに故人となっておられますが、アタマの知恵よりも心の知恵をもった方でした。わたくしにとっては、彼こそが自らを誇らず、主を誇る人でした。

皆さん、主イエスを誇りましょう。イエスのおかげで私たちは面白い人生、生きがいのある人生を送ることができます。苦しみにぶつかっても、同伴者イエスとともに人生を着実に歩んでいくことができます。

昨年12月、私の叙階記念と誕生日のおり、私は自分のいままでの歩みを振り返ってみました。一番の大きな試練は35歳の時に脚を悪くし9ヶ月も入院した時のことでした。あまりの苦痛や絶望に、私の信仰も大きく揺らいでしまいました。しかし、支えてくれた人々のおかげで神から離れることもなく、また病も結局わたくしから去っていきました。日本語で「艱難汝ヲ玉ニス」といいますが、わたくしの場合まさにそうであり、その試練は自分自身の成長のために必要なものでした。

その後も片瀬教会時代には脳梗塞で倒れたり肺炎にかかったりといろいろありましたが、もう信仰がゆらぐことはありませんでした。苦しくなった時には、「私だ。私はあなたと共にいる」というイエスの声を感じます。とても力強い言葉です。

典礼聖歌で歌う「力の御言葉を私にも聴かせてください」、これは使役動詞です(笑い)、イエスに「あなたの力を発揮してください」と強く願う祈りです。

祈りにより神と通じ、さらに信仰が強まる...皆さんにも似たような経験があるはずです。祈りにより神との接触を日々続けることはとても重要です。主を誇り、恵みの御言葉を聴きましょう

日, 01/16/2005 - 00:00

今日の第一朗読(イザヤ49・3、5−6)のなかで、「わたしの神こそ、わたしの力」という一節があります。 みなさん、この力強い言葉をよく噛みしめて味わってください。そして何度も繰り返してみてください。それはとても良い祈りとなるでしょう。

「私の神」は、旧約・新約を問わず聖書のなかでは非常によくでてくる、なじみ深い言葉です。ここでいう「私の神」のイメージとは、すなわち私自身の弱さ・至らなさ・人間的な弱さすべてを知って、全てを受け入れてくださる優しい神様、というものです。イエスご自身も「あなたの弱さの中で、私はあなたの力」と言っており、このような優しい「私の神」こそ自分の力の源泉になるということを言っています。

それではどのように「私の神」が自分の力となるようにするのでしょうか。それにはまず自分の人間的な弱さを認めなければなりません。自分の失敗、限界、悩み、苦しみに正直に向かいあいましょう。人間であるがゆえに私達が抱える弱さ・惨めさはとても大きいものがあります。聖書ではこれを「貧しさ」と言っています。宗教的な深化だけでなく、毎日の日常的なつとめをはたすためにも、まず自分の弱さ・「貧しさ」を認めましょう。

そして祈りです。今日の答唱詩篇(詩篇40・2+4a, 6, 10)にも、自分自身の祈りの材料があります。

神よ、あなたの不思議なわざは数えきれず、
そのはからいはたぐいなく、
わたしがそれを告げ知らせても、
すべてを語り尽くすことはできない

今週中、何回も日常の仕事をしながらも、「わたしの神こそ、わたしの力」という一節を思い出しましょう。

さて、自分の「貧しさ」と向き合うこと、そして「祈り」により自分の優しい神様と対話することをお話しました。次に、隣人・まわりの人との関わりかた、教会で言う「交わり」についてお話いたします。

今日の第二朗読(一コリント1・1−3)の中で、パウロは非常に長い呼びかけをもってあるべき「交わり」を示しています。コリントとは当時あった地中海沿岸の都市で、貿易港としてたいへん栄えていました。金銭的には潤っていましたが、港町の特徴として良くない評判もあったところです。パウロはそこで最初の教会をうちたてます。その後、パウロが他の町に移動するとコリントの教会はいくつかの問題に直面するのですが、パウロはこの「コリントの教会への手紙」で問題の解決を示しています。

その問題とは信徒共同体というものが、つい独善的になりがちで、外に対して排他的なクラブのようなものになってしまう、ということです。私達は独立的な存在ではなく、人との「交わり」を求め、内外に開かれた共同体であることが大事なのです。そのためにも一人ひとりが積極的に「交わり」を持つことが求められているのです。

最後に、この「交わり」の極めて具体的な例として二つのことを申しあげたいと思います。 まず今月22日に第三地区の信徒養成会が開かれますが、私たちが保土ヶ谷教会のみにこもっているのではなく、広く近隣教会の仲間と連帯できるように、積極的な参加をお願いいたします。 もう一つは今回のインド洋大津波に対する当教会からの義援金(カリタスジャパン)のことです。もう説明はいらないと思いますが、困っている多くの人々、特に子供たちについて、無関心であることはないと思います。よろしくお願いします

日, 01/09/2005 - 00:00

先週、聖書の読み方について、お話ししました。
聖書には、歴史的事実を記録している「表面の意味」と、その下にひそんでいる「深い意味」があると言いました。「深い意味」は、真理や本質にかかわることが、間接的・預言的に述べられているものです。

さて今日の福音(マタイ3・13−17)では、イエスが洗礼を受けたことが描かれています。先ほどの二つの意味でいうならば、「表面の意味」としては、イエスが洗者ヨハネからヨルダン川において洗礼を受けた、という歴史的事実を意味するのみです。それでは「深い意味」としては何を意味しているのでしょうか。それは、イエスの洗礼とは私達自身の洗礼を意味している、ということです。

洗礼式は、儀式としてだけみるならば、簡単なものです。「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けます」という、短い言葉とともに洗礼が授けられるのです。しかしこの簡単な言葉には「深い意味」があるのです。神様自身がこの簡単な言葉の中に入り、洗礼を授かった者は父なる神の子、イエスの兄弟となり、そして聖霊の助けを受けるようになるのです。

洗礼を受けた者は、「私の愛する子、私の心にかなう者」となり、「あなたは私の愛するものである」と父なる神から大切に思われるのです。洗礼を受けたならば、幾つ歳をとっても、神の愛に包まれた、神の子供として明るい毎日を過ごすことができます。

洗礼を授かり、父なる神の子供となったことで、洗礼を受けた者は同じ神の子イエスの兄弟となります。神であるとともに人間でもあったイエスは、わたくしたちの直面する人間としての弱さ・苦しみをよくわかってくださいます。このようにわたくしたちを身をもって理解してくださる優しいイエス様が、洗礼によりわたくしたちの兄弟になってくれるのです。イエスと同じく洗礼により神の子になる、という意味でイエスの洗礼とは私達自身の洗礼を意味しているのです。

洗礼を受けた者は聖霊の助けを受けることができます。私たちはこの世において様々な使命・責任がありますが、それらを行ううえで聖霊は私たちを助けてくれます。

このように洗礼とは大変すばらしいもの、毎日の祈りを通じて神と親しみ、信仰を大切にしましょう。

日, 01/02/2005 - 00:00

みなさん、あけましておめでとうございます。

今日は主の公現の日です。公現とは、神なる父が自分の御子イエスを正式にこの世に現した、ということです。

イエスが生まれたその夜、最初に馬小屋に集まってきたのは羊飼いでした。これら羊飼い達は地元の人々で、ユダヤ教を信じていたものと考えられます。次にやってきた人たちは、東の国からやってきた三人の博士達でした。これらの人たちは、ペルシア、イラク、北アフリカなどから来た天文・占星学を修めた学者達といわれており、黄金・乳香・没薬の贈物を捧げています。ユダヤ教徒ではありませんでしたが、特異な星の輝きにより救い主がお生まれになったことを知り、どうしても会いたいと、贈り物を持ってやってきたのでした。輝く星は旅する彼らを導き続けました。

さて皆さん、聖書を読む時には、「表面の意味」とその下の「深い意味」の二つの意味に注意したいと思います。「表面の意味」は、もちろん、二千年前の歴史的事実を記したものです。しかし、その下の「深い意味」とは、真理や本質に関わることがらを間接的・象徴的に示しているのです。

この「深い意味」で、羊飼い達がユダヤ教徒を代表するのであれば、この東方の三博士はユダヤ教徒でない他の諸国の人々、つまり私達自身の代表なのです。ユダヤ教徒ではありませんでしたが、自ら輝く星に気がつき、その星に導かれイエスに出会うことができ、そして贈り物を捧げる(もっとも私達は心の贈り物を捧げるのですが)、これは私達自身の姿をあらわしています。このように初めから、イエスの誕生は、ユダヤの人たちだけでなく、全世界のすべての人にとって良い知らせであったのです。

わたくし自身のことになりますが、私はつくづく日本に来てよかったと思います。母国ニュージーランドでは、多くがプロテスタントでカトリックはそう多くありませんが、基本的にはほとんどがクリスチャンであり、キリスト教はあたりまえのこととして受け入れられています。一方日本では、クリスチャンは人口の1%以下、特別のことです。信仰を持っていることそのものが、大変特別で恵まれたことなのです。

異国にあっても、輝く星に導かれ、イエスにめぐりあった三人の博士を想いおこしましょう。私達もイエスを求めて旅する旅人です。私達は人生という旅において”方向オンチ”かもしれません。しかしイエスという光り輝く星の導きによって、生きがいのある人生、味わいのある人生をおくることができるのです。

今週は自分の信仰の意味を考えてみましょう。信仰を大事にし、毎日の祈りを通じて神との接触の機会をもちましょう。
そして三人の博士のように、心のプレゼントを神様に捧げましょう。

黄金のかわりに....
人に対する価値ある思いやりを、
乳香のかわりに....
人に対して関わりあいのある笑顔を、
没薬のかわりに....
人に対する許しを。

主の公現を感謝し信仰の喜びをわかちあいましょう。

(注) 乳香:紅海沿岸産のカンラン科の植物から得られるゴム質を含んだ樹脂。黄色透明の堅い塊状物質で、炭火上に投入すれば芳香を放つ。没薬とともに古代オリエント、エジプトの代表的香料で、薫香として使用された。
没薬:ミルラともいう。アラビアやアフリカ産のカンラン科ミルラノキ属の植物から得られるゴム質樹脂。不規則な塊状物質で粉末は黄色。特異の臭気と苦味を持つ。中国医学では血行を促し腫れを消す作用があるとされ打撲傷、切り傷等に内用・外用する。古代エジプトではミイラ製造に利用。

日, 12/26/2004 - 00:00

今日は聖家族の日です。 聖家族は、ヨセフ、マリア、そして幼きイエスの三人家族を意味します。わたくしたちは、この聖家族を何か私達から遠く離れた、聖なる完璧な家族として考えがちですが、そうではありません。

マリアもヨセフも、人間でありましたので、完璧ではありませんでした。聖家族といえども、人間的な暗闇、苦しみ、他人からの誤解もあったのです。聖書からもそのようなことを垣間見ることができます。

例えば、貧乏なためどの宿からも宿泊を断られ、初めての子供の出産を馬小屋でさせなければならなかった...この時のヨセフの気持はどのようなものであったことでしょう。自分はダメだと落胆したとしても、それは人間として自然なことです。

また今日の福音(マタイ2・13−15、19−23)の中で、ヨセフが妻と幼い子供を連れてエジプトに行かざるを得ない状況となったり、そこから再びイスラエルに移動する様子が描かれています。突然、親戚も友達もいない外国へ行くことになり、そこで生活をしていかなければならない状況、これは現代の私達にもその難しさはよくわかることです。

イエスが12歳の時、巡礼から帰る途中親からはぐれ、3日間行方不明になるということがありました。イエスは神殿にて見つかりましたが、一生懸命さがしたマリアとヨセフの不安・困惑は大きいものであったことでしょう。率直に言って、マリアは自分の子供イエスについて、いろいろなことがわかりませんでした。わからないままに、マリアは懸命に神に祈り、助けを求めたのです。ヨセフとマリアは、詩篇をよく読んだと言われています。

現代の日本では様々な事柄が速い速度で変化しており、定まらないことが多くなっています。こうしたなかにあって、安定した家庭生活を営むことはますます難しくなってきています。夫婦の仲があまりよくないのは、現代の日本社会の残念な特徴です。

どんな人でも、聖家族ですら、人間である以上みな問題をかかえています。皆さん祈りましょう。「どうして」「どうして」と自分一人で悩み、苦しむのはやめましょう。ヨセフ様、マリア様の助けを求めましょう。

さて皆さん、神様はご聖体の形でこの聖櫃のなかにいらっしゃいます。一方、この聖堂ではマリア様とヨセフ様の像がこのように左右にあります。これらはただの石膏の像ですが、私達がマリア様・ヨセフ様を思い出すためにとてもよい助けとなるものです。優しいお顔をしてイエス様を抱くマリア様、また材木を持ち、頼もしそうな様子のヨセフ様...。聖家族の助けを祈りましょう。

わたくしは47年前に日本語学校を卒業し和歌山の教会に赴任しました。着任したその日の最初の仕事として結婚講座の話をしなければなりませんでした。そこで私はアシジの聖フランシスコの祈りを勧めました。この祈りは、私が好きな祈りなのですが、家庭のための祈りとしてもふさわしいと思います。

アシジの聖フランシスコ 平和の祈り

神よ わたしをあなたの平和のために用いてください
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみのあるところに喜びを
暗闇のあるところに光を
もたらすことができますように助け導いてください。

神よ わたしに
慰められることよりも 慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されることよりも 愛することを
望ませてください。

わたしたちは与えることによって与えられ
すすんで許すことによって許され
人のために命を捧げることによって
永遠に生きることができるからです

 

土, 12/25/2004 - 00:00

みなさん、クリスマスおめでとうございます。 子供たちによる聖劇は大変楽しく、可愛らしいものでした。

今日わたくしは、この劇の裏にある深い意味についてお話したいと思います。 イエス様がお生まれになったということ、これは単なる二千年前の遠い昔のできごとではありません。現在に生きる私達に対しておきたことなのです。

神様は、その完全無欠・満ち足りた天国から、いろいろな意味で不完全で問題・矛盾に満ちたこの世に現れになりました。その時以来、人間はひとりぼっちではなく、優しい神様と親しく話せるようになったのです。この年末、何か寂しい思いをすることがあれば、神様を思い出しましょう。私達はもはや一人ぼっちではありません。

また神様は、わざわざ、お生まれになる場所として、物質的には最も貧しい馬小屋を選びました。このエピソードは、物質的なものよりも、精神性・心の宝物のほうがはるかにまさっていることを神様が示されているのです。

今日ここに集まっている子供たち、幼いイエス様に宝物をささげた三人の博士のように、皆さんもイエス様に宝物を捧げましょう。心の宝物、温かい心の贈り物です。人への思いやり、親切、何か特別の助け、などです。まずは、まわりの人すべてに対して暖かい挨拶からはじめましょう。

ここにいる大人たち、皆さんも、「神の子」として子供たちと一緒に宝物をささげましょう。

「平和のはじまりは、微笑みです。」 (マザー・テレサ)

 

日, 12/19/2004 - 00:00

本日、私達は待降節のゆるしの秘蹟を行います。ゆるしの秘蹟を通じて、私達は理解に満ちたイエスに出会います。

しかしゆるしの秘蹟の中には、もちろん、むずかしさ・恥ずかしさがあります。他者に自分の罪を告げることが恥ずかしいということだけでなく、自分自身が自らの至らなさに目を向けるということは、大変むずかしいことです。

しかし、ここで私達はペトロを思い出しましょう。ペトロは何回もイエスから離れてしまいましたが、その度に深く反省しイエスのもとに帰って来ました。そんなペトロをイエスは深く愛し、何度もいつくしみを示して赦したのでした。ペトロの痛悔の祈り、これは私達にとって手本となるものです。

自らをふりかえってみる時に、私達は次の4つの関係から自らを見つめ直すのでしょう。

  1. 自分と神との関係
    (「わたしは共におられる神に感謝し、信仰の喜びを他人と充分わかちあっているでしょうか?」)
  2. 自分と人との関係
    (「キリスト教的な暖かい隣人愛を惜しみなく与えているでしょうか。むしろ差別、傲慢、厳しい皮肉などに流れていないでしょうか?」)
  3. 自分自身との関係
    (「自己を愛せない人は他人を愛することは難しいです。自己嫌悪・卑下に陥らずに、自分の性格・短所を受け入れ、優しい神様に自分が向上するよう助けをお願いいたしましょう。」)
  4. 自分と自分の使命
    (「父・母、夫・妻、あるいは社会の様々な職場での使命について、自分はどのように答えていくのでしょうか?」)

ゆるしの秘蹟の中で、司祭を通じて本当のイエスに出会うことができます。

そして神のあわれみの深さを知ることができるのです。

 

日, 12/12/2004 - 00:00

キリストの教えの中で、現代のわたくしたちにとって逆説的に響く教えは多くあります。 今日のテーマは「貧しい心」についてです。

「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものである」(マテオ5−3)とは、有名なイエス山上の垂訓の最初の言葉ですが、「貧しい心」、これは一体何を意味しているのでしょうか。

聖書でいう「貧しさ」の意味をみてみましょう。創世記や出エジプト記が書かれた旧約時代においては、貧しいということはまさに経済的に恵まれていないということのみを意味していました。その後時代が移り社会が複雑になってくると、経済的に貧しいということは、本来正当に得られるような社会的権利、例えば公平な裁判を受ける権利、を喪失している状態も意味するようになります。つまり貧しい人ということは、資力も権力もまったくなく、もう自分を守るのに神に頼ることしかできない状況にある人、ということを意味しています。

この意味で、心の貧しい人は幸い、なのです。

さて不況が続くといっても、やはり豊かな日本において日々を暮らすわたしたちは、このような「貧しさ」を認めることができるでしょうか。なまじ資力・権力があると、かえって神に頼らなくともやっていけるとつい思うのではないでしょうか。そして結局、資力・権力では解決できないはるかに大きな問題に直面し、苦悩・挫折していく...。このようなことから、頼るものが最初から神しかない「心の貧しい人」がむしろ幸いとされるのです。

自分の人間的な貧しさを正面から認めましょう。認めれば認めるほどイエスからの恵みを受け入れられるようになります。自分が貧しいと認めることは、神への信頼の基礎となるものです。

資力・権力その他ありとあらゆる自分の持ち物を総動員して、一人ぼっちで一生懸命努力すること...このようなことはもうやめましょう。ストレスになるばかりか決して良い結果をもたらしません。自分の力だけで仕事をすることをやめ、神の力を借り、神と共に歩みましょう。

イザヤの預言(イザヤ35-4)
心おののく人々に言え。
「雄雄しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」