日, 11/26/2006 - 00:00

今日は王であるキリストの主日です。聖書では、この王とは、羊飼いの王を指します。 つまり、この王はその民を気にかけ、護るものです。イエスは現世にこの神の国の 基礎を築くために現れました。私たちは普段「み国が来ますように」と祈り、唱えます。 この「み国」とはいったい何でしょう?この「み国」とは、平和の王国です。 (「平和」(ギリシア語ではアイリーン)は新約聖書では88回も使われ、 新約聖書のどの編にも現れています。)

この「み国」が何であるかを説明する、基本的な教えとして、イエスの有名な 「山上の垂訓」があります。ここでイエスは、「平和をつくり出す人たちは、 さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 (マタイ:5−9) と言っています。

これは、イエスが私たちにお与えになった大きな課題です。私たちは、 実際のところ、平和のために働いているでしょうか?私たちは、神の子供として、 神と良い関係を保っていきたいと真に望んでいるでしょうか?私たちは、 祈りを通じて、この平和の関係を深めようとしているでしょうか?

もしそうであるならば、私たちは「さいわいである」と言われたとおり、 心の平安を神から与えられるでしょう。

さらに、もしそうであるならば、私たちはこの恵みを隣人と分かちあって いるでしょうか。そしてこの「平和のための働き」が、どこで行われているので しょうか?家庭の中で、職場で、学校で、近隣社会で、日本で、そして世界規模で、 行われているでしょうか?

平和のための働き」がなされるためには、まず自我を忘れなければなりません。 アッシジの聖フランシスコの「平和のための祈り」の中で、私たちは「我をして、 慰めらるるよりも慰めることを求めしめ給え。理解さるるよりも理解することを、 愛さるるよりも愛することを求めしめ給え。」と祈ります。これが、 自我を忘れ平和のために働くということを示しています。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
日, 11/19/2006 - 00:00

全73編ある聖書の中には、書式として黙示的に書かれているものがあり、 今日の聖書、ダニエルの預言 (ダニエル12・1−3) とマルコによる福音書 (マルコ13・24−32) は、これに該当します。現代に生きる私たちが、 黙示文書を理解するのは少し難しいかもしれません。文字通りに解釈してしまった ならば、間違いなく意味を取り違えてしまうでしょう。黙示書は、比喩的表現に 満ちており、まったく夢を描写しているようです。古代には、黙示書には迫害を 受け苦しんでいる人々を励ますという目的がありました。ですから、黙示書の 書き方に惑わされるよりも、これが神からの希望のメッセージであるということに 目を向けましょう。神は言っておられるのです、「あなたが苦しんでいる時、 私はあなたを助ける」と。

この希望は何に基づいているのでしょうか?これは、聖書に示されている、 神が私たちに与えてくださった厳粛な約束「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。 私はあなたを守る」という約束にあります。この慰めの実現とともに、私たちも 今日の詩編(詩編16・8)にあるように、「神はわたしのそばにおられ、 わたしはけっしてゆるがない」と祈りましょう。

ここで私自身の例をたとえにとってお話ししたいと思います。私は夏には元気なのですが、 冬は不得意で、風邪を引きがちで、気管支炎、さらには肺炎になってしまったりします。 熱を出し、しばらく寝たきりになってしまうこともあります。そんな時には、 私は手かせ足かせをはめられ、牢屋に入れられてしまったような気持ちになって しまいます。しかし、幸いなことに、部屋には窓があり、そこからは青空、雲、 そして雲間から差し出る光などを見ることができます。言い換えると、私はわれに戻り、 空虚な心の中にも私は希望をみつけることができたのです。うつろになってしまった 私の心の中に、イエスが聖書の中で言った言葉、「恐れるな、私はあなたと共にいる。 重荷を背負う者は私のもとへ来なさい。」という言葉が私の心の中で響いたのです。 私は聖ペトロのように沈みかけていましたが、イエスが手を差しのべてくださり、 引き出してくれたのです。これが、希望、です。

この「聖書週間」のあいだ、聖書を開き、この「希望」についてよく味わいましょう

日, 11/12/2006 - 00:00

「やもめ」という言葉は、今日読まれた聖書の中で6回も使われています。 聖書では、「やもめ」(そして「みなしご」も)は、特別な意味を持っています。 彼らは、法的に正当な保護を受けられず低賃金労働にあえいでいる全ての人たちを 表しています。彼らは、助けてくれるひとは誰もいないことをわかっていました。 神だけが彼らを助けると約束してくださっていることから、頼れるものは神しか いなかったのです。

私たち現代に生きる者は、「精神的に貧しい」と言われていますが、これは むしろ恵まれたことです。新約聖書のなかでイエスが言っておられるように、 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのもの」 (マタイ5−3)、 なのです。

今日の第一朗読 (列王記上17:10−16) と福音(マルコ12・38−44) では、神が私たちを救ってくださるという堅い信仰を持っている二人のやもめが 語られています。福音にでてくる貧乏なやもめは、銅銭2枚しか持っていません でした。これが飢餓線上の彼女の全財産でした。彼女は神のためには銅銭1枚を 献金箱に入れ、もう一枚は自分自身のためにとっておくべきでしょうか? 彼女はそうしませんでした!彼女は神が彼女を助けてくださると信じていたので、 両方二枚ともに献金したのです。

どうか皆さんこのお話の意味を字句どおり受けとめないでください。 ここで重要なのは、私たちが何に最も価値をおくか、よく吟味することを求め られているということなのです。例えば、1日は24時間、1,440分ありますが、 私たちは一日何分神のために祈るのでしょうか?私たちの祈りは、銅銭1枚だけと なっているかもしれません。

今日のこの聖書の箇所を受けて、このように祈ってみてはいかがでしょうか。

私の主よ、私はあなたの子供です。
あなたが私を真に愛し、気にかけてくださることを感謝します。
私はあなたを信じ、私の人生、家庭生活、私の時間、私の都合、私の仕事、 私の学業、
友人と過ごす私の余暇、私の健康、すべてをあなたの御手に委ねます。
主よ、あなたは私を気にかけてくださると約束してくださいました。
私はあなたを信じます

日, 11/05/2006 - 00:00

どの国にも詩歌があります。詩歌では、言葉は象徴的に使われます。実際に存在するものが、象徴的な概念を表すために使われるのです。

俳人松尾芭蕉は、しばしば精神的な物事や大自然の不思議さを、現実の物事の上に重ね合わせました。芭蕉の句は、読む人を静かに人間の運命について考えるようにさせます。

例えば有名な句、

古池や
蛙飛び込む
水の音

この句の持つメッセージは、「静まれ。そして自然の営み、かすかな音に耳を澄ませ。それらは余りにもはかないものだ。」というものです。

聖書、とりわけ詩編では、実存する物事が抽象的な真実を教えるのに使われています。

詩編18章では、我々が神の摂理と呼んでいる真実が述べられています。

「主よ、あなたは私の岩」、これは「主は私の人生のよって立つ基盤です」ということであり、
「主よ、あなたは私の砦」、は「主は私を邪悪から守ってくださる」ことであり、
「主よ、あなたは私の盾」、は「主は私を攻撃してくる悪の槍を防いでくださる」ことです。

最後の祈り、

「主よ、あなたは私が逃げ込む岩」

には、興味深い背景があります。ダビデ王時代のイスラエル地方には小型の岩ウサギが住んでおり、天敵はワシやタカでした。一匹の岩ウサギは立って常に警戒にあたっており、それらが飛来する鳴き声をたてて、皆が安全な岩の裂け目に逃げ込めるようにしていたのです。(現在の北海道にも似た種類のウサギがあり、鳴きウサギ、と呼ばれています。)

この詩編のメッセージは、

神は私たち一人ひとりを守ってくださる、
神は私たちに関心を持ってくださる、
神は私たちに気を配ってくださる、
神はありのままの私たちを受け入れてくださる。

ひとことで言うならば、神は私たちを愛してくださる。

では、対する私たちの返事は何になるのでしょう。

神を信じるということです。

主よ、あなたの御手に私を委ねます。

今週は、神の素晴らしい真実をより具体化できるよう、これらの堅固な象徴を静かに想い、考えてみましょう。

日, 10/29/2006 - 00:00

イエスは今も私たちの間に生きておられます。信仰の眼をもってそれを 見ましょう。 今日の福音書(マルコ10・46−52)で語られていることは、 単なる2,000年前の出来事ではありません。 それを読むことにより、今現在、私たちは、その時と同じイエスに出会える のです。聖書で語られている、同じ場面をこの現在に再現して 神様を感じとりましょう。

エリコは砂漠の中のオアシスの町でした。その町の砂まみれの舗道わきに バルティマイという盲人の乞食がいました。彼は遠くから、群集の のざわめく音が聞こえてきました。「何の音だ?」と彼は尋ね、 「ナザレのイエスという者だそうだ」と聞くと、バルティマイは 痛みきった心の底から声をふりしぼって、「イエスよ、わたしを あわれんでください!」と叫んだのです。周りのものたちに、 「静かにしなさい。邪魔だ、迷惑だ。」と言われても、彼は むしろより声高に、「イエスよ、あわれんでください」と 叫び続けたのです。

バルティマイの苦しみは眼が見えないことでした。彼は心の底 からイエスを信じ、頼り、叫んだのです。

皆さん、私たちも皆、このバルティマイなのです。

私たちが今現在持っている苦しみ、悩み、心の傷。 それこそが、今日の福音が触れているものなのです。

聖書にでてくる、問題を抱えた人々は、決してその問題を 隠したり無いようなふりをしたりしませんでした。彼らは 主イエスに赤裸々にそれを話し、そして信頼と希望をもって 大声で神に願ったのです。

「重荷を背負って疲れたもの、私のところに来なさい。 休ませてあげよう」というイエスの言葉は、今この現在 生きた言葉として私たちに語られているのです。

「あなたの心配事を神に預けなさい。神はその面倒をみて くださいます」と聖ペトロは言っています。祈りのなかで、 私たちの神に強く願いましょう。

キリスト教の教会、特に東方教会では、イエスの祈りと言われる このバルティマイの祈りを大事にしています。 「イエスよ、わたしをあわれんでください」という祈りが 静かにゆっくりと、何度となく唱えられるのです。 私たちも祈ってみましょう。

日, 10/22/2006 - 00:00

第一朗読では若いソロモン王に夢の中で告げられた出来事が述べられています。
神はソロモンに尋ねます。
「何を一番望むか?権力か、富か、長寿か?」
ソロモンは答えます。
「主よ、私の望むものは知恵です。富はなんの意味もありません。」 聖書における知恵は、私達の普通の勉強によって得る知恵と異なります。 真の知恵とは、何が一番重要か判断できる知恵であり、神から与えられる 賜物です。この知恵により私達の日常の生活は導かれるのです。 たとえば、アーロンの法衣を上手に縫った女性は知恵を持っていました。 ノアの箱舟を建造した大工達も同じように知恵を持っていました。 つまり神の知恵とは、私達の日常生活において普通の出来事を行う 際に、導いてくれるものなのです。
しかし神の知恵は、私達が人生において重大な選択を迫られた 時に最も必要とされます。私達の人生において、何に優先順位を つけていくか ━ 手に取れる物質的なモノか、美しさか、仕事か? あるいは神か?

これが今日の福音に出ていた、人としての選択、なのです。 これは基本的な選択です。聖オーガスティンは、俗世において 富も、名誉も、名声も得た方でしたが、結局「私の主よ、私は あなたのもとで休むまでは、真の心の平安を得ることはできません」 と叫び聖者の道に入ったのです。

私達をとりまくいろいろな商品やモノそのものに、もちろん、罪など ありません。主イエスが今日の私達に問いかけているものは、それら 物質文明の中のいろいろな選択肢に、どれに重点をおくかということ です。

何が私にとって最も優先順位が高いものでしょうか、どのように 私は時間を使っていくのでしょうか。物質的なモノや名誉は心の基本的 な憧れ・欲求を完全に満たしてはくれません。唯一、神だけがそれを できるのです。ではどのようにこの知恵を味わうことができるので しょうか。この知恵が神からの賜物であることを思い出し、 少なくとも1日数分、静か環境で祈ってみましょう。 祈りの中、神との深いつながりのなかで、私達の1日の全ての行動を 正しく導いてくれるよう、神の知恵を願いましょう。まずはやって みましょう。あなたの一日に真の平安がもたらされるはずです。

日, 10/08/2006 - 00:00

今日の福音(マルコ10・2-12)は結婚についてです。

結婚は山登りのようなものだと言われています。これについて、はじめてエベレストに登った、ヒラリー卿についてお話したいと思います。百科事典には 「エドモンド・ヒラリー:ニュージーランド出身の登山家、1953年にエベレスト初登頂。」とあります。  しかし彼の自著伝では彼は次のように書いています。「私がエベレスト山頂に一番乗りした訳ではなかった。ネパール出身のテンジンとわたくしが共に エベレストを制覇したのです」と。

ヒラリーは続けます。「エベレストのふもとでは、(登山隊の)雰囲気はピクニックのような楽しいものでした。私たちは楽しくおしゃべりをし、エベレストの山頂 もはっきり見えていました。しかし、登攀も後半となると状況は困難になり、もはやしゃべるなどということはなくなりました。またお互いのちょっとした欠点も 目に付くようになり、口論も生じはじめました。霧のため山頂も見えません。そして私たちは、最後の山頂への危険な登りの地点まで到達しました。 お互いに命綱をつけ、互いに命を預けたのです。それはお互いへの信頼と尊敬が必要でした。私たちは互いの違いを脇に置き、信じあったのです。 息を呑むような壮大な大自然の前で、私たちは神はまさにそこにいると感じました。私たちは一緒に共同して努力できたからこそ、私たちはエベレスト の山頂に立てたのです。」

ヒラリーはこうも書いています。「結婚生活も似たようなものがあります。結婚生活の初期は、私と妻はすべてを話し合いました。それはとても楽しい ピクニックのようなものでした。しかし私はその後多忙となり、緊張する日々となっていきました。私の欠点もあらわれたことでしょう。私たちの結婚生活 も壁のぶちあたり、息子を失ってしまうという危機もありました。しかし、結局私たちは違いを乗り越え、手に手をとって人生に立ち向かい、頂上に ついたのです。私たちは神の手が、私たちと共にあったような気がしています。」

ここで私ケンズは、別居されたり離婚された方々に申し上げたいことがあります。どうか神があなたがたを神が見捨てたなどとお考えにならないでください。 そうでなく、まったく正反対に、神は傷つき、苦しんでいるあなたと共にいます。サマリアで、井戸端にたたずむ離婚した女性に対してイエスが示された 穏やかで優しい理解を思い出してください。イエスは今も同じようにあなたとともにいます

日, 10/01/2006 - 00:00

今日の第一朗読の旧約聖書(民数記11・25−11)では、モーセが70人の長老を選び、その長老達 にもモーセと同じく「霊」が与えられたことが記されています。ところが、この70人に入っていない、 ほかの二人にも「霊」が降り、預言状態となったのです。ヨシュアはモーセに走り行き、「彼らを止めて ください」と叫んだのです。新約聖書では、イエスは12人の弟子を選ばれ、権能を授けました。この 12人以外にも、同様の権能が授けられ、それを行っている人がいました。ヨハネはイエスに「止めさせて ください」と叫びました。しかし、モーセもイエスも、これらの弟子の要求を断り、やめさせようとしま せんでした。

これら、新旧聖書の場面は、現代の私達に何を語りかけているのでしょうか? それは、このようなものです。「視野狭く排他的になり、偏見を持ってはいけません。反対に、心を広く持ち、 異なった人たちに対しても受容していくようにならなければなりません。受容、というよりも、実際には 「コップ一杯の水をあげる」に象徴されるように、ちょっとした親切を施すことを神は望まれているのです。 これは現代に生きる私達にとって大仕事です。この問題を私達ひとりひとりにあてはめてみましょう。家庭、 学校、職場、教会あるいは近所の全員に対して、私達はわけへだてなく優しくしてあげたでしょうか?違う 意見・主義を持つ人、違う政治的信条を持つ人、違う性格を持つ人、違う価値観を持つ人、あるいは違う 宗教の人に、偏見を持っていませんか? ほんの一握りの人がテロに走るからといって、すべてのイスラム 教徒に対して偏見をもっていないでしょうか?ほんの少しのスリ団のせいで、あるいはごく限られた権力者 達が国を動かしミサイルを撃ったり拉致を行ったからといって、すべての韓国・朝鮮人に対して偏見をもっ ていないでしょうか?日本において広くはびこってしまっている「いじめ」と「偏見」の問題について、心 をくだいているでしょうか?そのような偏見に対して、私達は「ちょっとした優しさ」でもって対応してい るでしょうか?

これはイエスがまさに私達にお望みのことなのです。私達が隣人をあるがままの姿で受け入れる、ということ は、私達の神が弱い私達をあるがまま、愛情深く受け入れてくださる、とういことと表裏一体です。隣人を 愛情を持って受け入れ、感謝の念をお返ししましょう。 「微笑みは平和の始まりです。」(マザーテレサ)

日, 09/24/2006 - 00:00

山手教会にて叙階され神父となった山田です。保土ヶ谷教会の皆様のうち多くの人にとって私は初めてだと思いますので、 簡単に私の歩みをお話したいと思います。

私は成人後、洗礼を受けました。子供の頃はキリスト教と縁がないところで育ちました。このような私が何故神父になる ようになったか、ということは、一度に全部はお話できないのですが、サワリだけお話します(笑)。

就職し、会社の寮で3人で暮らすようになってから、同室の先輩の帰りがある日より遅くなっていきました。何故かと 尋ねると、聖書の勉強会に行っているとのこと。そしてその先輩から初めて聖書のことを教わるようになり、関心を 持ち始めました。もっともその先輩はいつの間にか会社を辞めてしまい、その先輩が通っていたところも後に、高額で 壺を売るなどで有名になってしまった宗教だったのですが...(笑)。それから私はプロテスタントの教会にも通い、 最後にカトリックへ到達したのです。こんな私ですので、私の聖書解釈は間違っているかもしれません(笑)。

さて、今日の福音はとても有名な箇所です。誰が一番偉い弟子かで議論する弟子たちに対して、「一番先になろうと思う ならば、一番後になり、みんなに仕える者とならねばならない」と言い、ひとりの幼な子を抱いて、「このような幼な子 のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」とおっしゃったのです。

弱く小さなものを受け入れなさい、全てのものへの奉仕者となりなさい、という強いメッセージです。 12人の弟子たちはこのことをよく悟っていませんでしたので、イエスは何度もこのような教えをされています。

私たちも、よくわかっていないかもしれません。「全てのひとに仕える。」 頭ではわかっていても、誰に具体的に どう仕える?どう実践する?全ての人に仕えていては、身が持たないでは、と戸惑うのではないでしょうか。

今日読まれたヤコブの手紙では、「ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。」と あります。もし私たちが善行を積もうとしても、私たちが利己心に負けては、結局人に仕えるどころか人を支配する ために自分が行動している、ということになってしまいます。

人は神から生かされています。私たちの中で、「聖霊」が働いているのです。「聖霊」の力を借り、まず相手の 気持ち・考えを聞こうとする良い「耳」を持ちましょう。聖母マリアは「常に神のみ言葉を心の中で思い巡らして いた」と言われています。相手の気持ち・考えをよく聞き、熟慮する成熟さ。このように私たち一人ひとりが なっていけば共同体の交わりは一層高まっていくのです。

日, 09/17/2006 - 00:00

今日の福音でイエスは聖ペトロに、「あなた自身、私を誰だと思いますか?」と尋ねています。 福音を通して、この今の瞬間も、イエスは生きている声で私たちに同じ質問を投げかけます。

私たち一人ひとりは、このイエスの問いに対する答えを用意しなければなりません。それには 二つの理由があります。

ひとつには、私たち自身の信仰のためです。イエスのイメージがぼやけたものであれば、私たち の信仰や祈りもぼやけたものになってしまいます。

ふたつ目には、もし誰かほかのひとから「イエスとは誰だったのですか?」と尋ねられた時の ためです。

私はいつも、イエスとは100%神であり、同時に100%人間である、と言っています。 イエスはこの世にて33年間生きましたが、この現在においても私たちと共に生きておられます。 イエスは私の人生において共に歩んでくださっています。それゆえ、わたくしは決してひとりぼっち ではありませんでしたし、イエスは非常なる力づけを私にくださいました。それにより私の人生 はとても味わい深いものとなりました。イエスは、特にわたくしが病んだり弱ったりした時に そばに来てくださいます(言い換えれば、共に十字架を背負ってくださいます)。

イエスは2,000年前に存在したと同じように、今も生きています。イエスはナイムで寡婦の 母に憐れみを示されました。イエスは人間の弱さと失敗を理解し、受け入れてくださいました。 このようなイエスは福音時代と同様、現代においてもまったく変わりはありません。

これが、わたしたちにとってのイエスであり、わたしたちの神なのであります。 このように親しみやすい神ではありますが、なお私たちは、木に登って神を見ようとした ザカロスのように、さらなる深いイエスとの出会いを求めていくのです。

日, 09/03/2006 - 00:00

私はクリスチャンの家庭に生まれ、3か月の時に洗礼を受けました。私たちは家族全員で毎晩お祈りをしたものです。ですから 私にとってクリスチャンであることは、まったく当たり前のことでした。しかし日本に来てから、悲しみに満ち虚ろな気持ちの人々と 出会い、その時本当にクリスチャンでいて良かったと思うようになりました。その一つの理由は、今日の第一朗読(申命記4−7)に あるとおり、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」を感じることができるからです。

私たちの神は私たちに近く、私たちを愛しておられます。神は優しく、近づきやすく、私たちの人間としての弱さをよくわかって くださっています。そしてあるがままの私たちを受け入れてくださいます。これは私たちの毎日の暮らしにとって、すばらしい真実 です。

しかし、これだけではありません。私たちの神はイエスとなって人間であることを経験なさいました。これにより、神はより 近づきやすい存在となったのです。イエスは言っておられます。
「疲れた者、重荷を荷う者は私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」

信者にとって、神に祈ることにより神に近づくことは、基本的なことです。私たちを気にかけてくださる神と毎日交流すること は、私たちの日常に新たな味わいを与えてくれます。

もし私たちの神というものが厳しく罰する神であり、ちゃんとした人だけを相手にするなどという考えをお持ちでしたら、それは 間違いです。完全な人などという人はいません。神は我々があるがままであることを望みます。私たちの心の中に今ある、あるがまま の気持が私たちの神への祈りの原材料です。私たちの本音を神様にぶちまけましょう。神はすぐそこに存在する、近しい存在なのです。

私たちの祈りは、うわべの言葉だけのものであってはなりません。心の底から本音を出し、それを実際に行動で示さなけ ればなりません(今日の福音(マルコ7・1−8、14−15,21−23)で言われているとおりです)。そして、私たちの祈りは、 隣人、とりわけ、今日の第二朗読(ヤコブ1・27)で聖ヤコブが言っているように、弱い人々へ優しくしてあげること、につながって いくのです。

日, 08/27/2006 - 00:00

聖書は「永遠の現在形で書かれている」と言って良いでしょう。これは、2、3千年前に書かれたものにもかかわらず、まさにこの現在 に関わっているからです。たとえば、私たち人間は何かをすることに夢中になっているうちに、本来のその目的を忘れてしまうことがあります。

今日の第一朗読で読まれたとおり、ヨシュアは人々を約束の土地に導き、40年の砂漠での放浪の果てに、人々はそこそこ繁栄した暮らしを 得ることができました。砂漠では人々は唯一にして真の神に敬虔でしたが、暮らしが落ち着いてくると人々は神を忘れがちになりました。 言い換えれば、神に慣れてしまったのです。

ヨシュアは12部族全員を集めて、「あなた達が選ぶのは、富(バアル神)か、真にして一つの神か?」と人々に鋭く迫ります。真の神が 砂漠で彼らを愛され助けてくださったことを思い出し、人々は反省し、「我々は真にして一つの神を選びます!」と答えたのです。

わたくしが冒頭「永遠の現在形である」と言った意味をおわかりいただいたでしょうか?この、同じ厳しい質問が現代人である我々にも 投げかけられるのです。

今日の福音ではイエスは人々にとても困難な教えを与えています。それはイエスは神でありながら御父から遣わされた存在であること、 イエスがご自身の体をご聖体という食物の形で捧げられたこと、などです。多くの人は、「そのような教えは受け入れ難い。私たちは帰ります。」 と言って帰ってしまいました。イエスは12使徒に向かい、「お前たちも去るのか?どちらを選ぶのか?」と問いかけます。弟子たちの代弁者でも あったペトロは、イエスが命を与えてくださったり、価値を教えてくださったり、心の平安をもたらしてくれたことを思い出し、 「われわれはあなたを選びます。他の誰についていけるというのでしょう!」と答えたのです。

私たちも、何度も何度も心から言う必要がありそうです。
「イエスよ、私はあなたを選びます!」

日, 08/20/2006 - 00:00

皆さん、この保土ヶ谷教会での説教は二回目、本当なら懐かしい昔話などしたいところですが(笑)、今日のパウロの手紙 そして福音はあまりにも大事なので、まずこちらをお話ししなければなりません(笑)。

今日の福音(ヨハネ6・51−58)の中では、短い間に、9回も「私の肉を食べ」「私の血を飲み」とイエスは言っています。 これほど何度も食べること・飲むことが強調されている部分は聖書では珍しいことです。映画「マルセリーノ パーネ ヴィーノ」(「汚れ 無き悪戯」のリメイク版)では、戦乱が続くイタリアの小さな村で、修道士達がマルセリーノと名づけた孤児を育てる場面がありま す。お腹をすかせた少年がガツガツ飲み食べる様子はまさに必要なものをとり、修道士達と一緒になっていく印象がありました。

自分が持っている命を、生命の危機にある人に与える、そしてそれにより自分と一体化させる...これは究極的には自分の血と肉を他人 に分け与えることとなります。人間であれば、血と肉を与えるということは自らの死に通じてしまいますが、イエスは死んで終わること なく、また人間にイエスの肉体の死を連想させないように、奇跡によって自分の体をパンに変えたのです。これが現代に続く「ご聖体」 です。

ご聖体はしっかり「食べて」ください。昔は、聖体拝領の際には、誠に尊いご聖体に歯を当ててはいけないなどと言われ、 上手に飲み込むことに苦労したものですが(笑)、そのようなことよりも、イエスの体を食べるという意味をしっかり理解することが 大事です。至高の存在である神そのものが、食べることができる存在まで降りてきてくださる、そして食べることにより神と 一体化できるという幸せ。一体化することにより、これだけ問題や悩みを抱えた私たちも、神と一致できるという希望。

生きていながらも、神の命をいただくことができるということは、大変な誇りであり自信につながることでもあります。

それでは、強められ自信を持った私たちは、どこへ向かうのでしょうか?  今日の第二朗読(エフェソ5・15−20)では、具体的 に方法が示されています。ご聖体を得て神との一致を果たした私たちは、他人との一致に努め、神の愛を証しなければなりません。 他人を愛するにしても「賢いものとして、細かく気を配って歩みなさい。」と言われるように、丁寧に隣人に気を配らなければなり ません。また、「いつも、あらゆることについて、.....父である神に感謝しなさい。」とあるように、無条件に感謝する心は何よりも 大切です。とかく私たちは、感謝するよりも文句を言うことのほうが多く、感謝するにしても条件付きのことが多いです。あらゆる ことについて、条件をつけたがるのが、現代の暮らしです。  たとえば、この今日の暑さ。保土ヶ谷教会は冷房が無いです(笑)。これを、単に耐え忍ぶ苦痛と思い不平をつのらせるのか、 それとも暑さは四季だから当然と思い、夏らしい夏でよかったと、感謝の心を持てるようになれるか。大きな違いです。

最後に、昔軍隊では「同じ釜のメシを食った戦友」という表現で、強い連帯感、同志愛をうたったものでした。神のご聖体、 最強の「神の釜のメシ」を等しくいただいた私たちは、それよりもはるかに強い連帯感・隣人愛があるはずです。「私がしたように、 あなた方もお互いに愛しあいなさい」というイエスの言葉のとおりに、私たちはイエスにかわって、イエスのみ心を実践するの です。これがご聖体の原義です。

火, 08/15/2006 - 00:00

イエスの母、マリアに与えられた称号の一つは、「神の契約の娘」でした。
「神の契約」とは、「私はあなたと共にいる。私はあなたを守る。」という、私たちひとりひとりへの神の厳粛な約束です。 マリアは一生を通してこの約束を信頼しました。とりわけ、次のような苦難に直面した時には。

  • 精霊の力で妊娠したことをヨセフに伝える時、
  • 出産の直前に、どこの宿からも断られた時、
  • エジプトへの突然の夜逃げ、
  • ナザレの里でイエスの親戚友人がイエスを拒み、崖から突き落とそうとすらしたと見聞きした時、
  • 十字架上で息子が少しずつ死んでいくのを見る時。子の苦しみは、何歳になっても、母の苦しみなのです。 神は何事も最もよくわかっていらっしゃる、とマリアは神を信頼するしかありませんでした。マリアは神を信じたのです。 息子イエスと共に、「神の契約の娘」として、マリアは詩篇31節にあるように「父よ、私の命をあなたの御手にゆだねます」 と祈ったのです。

人生の苦難のさなかに神を信じることにより、マリアは人生の目的地、天国、に無事到着したのです。これは私たちにも 有効なことなのです。

マリア様、私たちのために祈ってください、今も死を迎える時も。アーメン。

日, 08/06/2006 - 00:00

イエスの一生のうちで二つの対照的な情景があります。

一つはタボル山頂で、イエスは神からの光と栄光に包まれ、イエスが変容されたことです。ペトロ、ヤコブそしてヨハネの3弟子 はイエスと一緒でした。山頂でイエスはご自身が神であることを示されたのです。

もう一つはイエスがゲッセマネの園で、精神的な拷問に近い苦悩に苦しむ姿です。イエスは暗い表情で沈思黙考していました。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネも一緒でした。この場面ではイエスは、ご自身がまさに人間でもあることを示されました。

この二つの情景を合わせ、私たちはイエスとは何であったかを知るようになるのです。イエスは100%神であり、また、100% 人間でもありました。聖パウロがフィリピ人への第二の手紙の中で言っているように、真の人間にもなるために、イエスは神の力を しばしおいておいて自らを空とされたのです。

この説明は、身近に感じられない神学上の解釈論と聞こえるかもしれませんが、実は私たちの日常の祈りに非常に関わるものです。 私たちは祈りの中で、さまざまな喜びや悲しみ、失敗、苦しみ、しなければいけない決断などなどについて、神に相談し、頼ります。 この時、私たちは、神が人間としての状態を実際に経験したことがあるので、確信をもって頼ることができるのです。

イエスは言っておられます。「疲れた者、重荷を担うものは、私の所へ来なさい。休ませてあげよう」

私たちも、神へ向かいましょう。

61年前の今日、とてつもない光が広島を覆いました。この光は死をもたらしました。
2,000年前、大きな光がイエスの体から発しました。この光は生をもたらしているのです。

日, 07/30/2006 - 00:00

今日の聖書は、神の私たちへの、そして私たちの隣人への、「寛大」が テーマです。第一朗読では神は100人の人々に食物を与え、その量は食べ 残しが出るほどたくさんでした。福音ではイエスが五千人の男たち(従って さらにもう五千人ほどの女たちにも)食物を与え、食べ残しが12カゴいっぱい に出るほどでした。この超過分、“食べ残し”は、「神は常に 寛大である」ことを象徴的に表しているとされています。神は我々に必要 最低限の助けや力、あるいは祝福を与えているのではありません。あり余る ほど与えてくださるのです。神はまことに寛大です。神のみわざ、あり余る 寛大さについて祈り、考えてみましょう。このような祈りに満ちた 内省によって、私たちは神を信頼しそのみ手にわが身を委ねられるように なるのです。神は寛大で私たちを助けてくださいます。 ところで、今日の福音に出てきた少年が示した寛大さを思い出してみまし ょう。イエスとともに荒れ野に出た群衆には、食べ物はなく近辺に店もありま せんでした。少年はイエスを信じ、自分の昼食用に持ってきたパンと魚を イエスにささげたのです。イエスは少年から得た寛大さを、神の力(すな わち奇跡)を用いて、とほうもなく大きくし、すべての群衆に分け与えた のです。神のみわざは、現代世界においてもこのように働きます。 福音では12カゴも食べ残しが出たように、実際、神は現代においても とても寛大です。
さて、私たちも自分に問いかけてみましょう。私は寛大でしょうか、 それともケチでしょうか。私は神の寛大さを信じ、それを隣人と分け合って いるでしょうか?
コリント人への第二の手紙<<a href="javascript:openpopup('2COR',9,6,8)">(9章6−8節)を読んでみましょう。 どのように隣人と分かち合うか、そのような分かち合いがどのような 結果となるかが示されています

日, 07/23/2006 - 00:00

今日の福音(マルコ6・30−34)において イエスは私たちに 「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」 と言っています。これは、静かなところで一緒に祈りましょう、という 呼びかけです。
静かな祈りというものは、どの宗教においても伝統となっています。 神道の神社は森のなかにあり、仏教には禅があります。 しかしながら、物欲を満たす商品が幅をきかす現代社会においては、 音が無いことは何もしていないことと同じで(!)、静寂は無価値 なのです。私たちは、テレビ、パソコン、携帯、i ポッド、インタ ーネットなどを持っていますが、これらはえてして静寂を許さない 雑音となり、心はどんよりとした状態となっていきます。

今日の福音でイエスは、「愛にあふれる神と私たちが温かい関係 を持つため、また霊的な健康を保つため、私たち一人一人は静かな 祈りの時間を持つことが必要」とのメッセージを送ってくださっ ています。静かな祈りは、付随的に、私たち自身の毎日をより 上手に生きていくことができるようになったり(神の助けにより 私たちは日々のものごとを処理しているので)、身体的・肉体的 な健康に良い影響をおよぼしたりします。

今週、静かな祈りの時を持ちましょう。坐り、意識的に、肩、首、 あご、腕、脚、と順番に力を抜いて行きましょう。そして心配事や やらなければいけない計画ごとをひとまず忘れてみましょう。 ゆっくり深呼吸を数度し、リラックスし、そして自分自身に 言ってみましょう。「主イエスは私の優しい牧者。主は私を愛して くださる。」そして、言葉を発することなく、しみじみと神の愛を 味わいましょう。

このような祈りの果実は、私たちの他の人への愛となって結実 します。それが今日の福音におけるイエスの深い愛です。 あなたが共に暮らす人、あるいは共に働く人、あるいは(地震 の被害に苦しむ)ジャワ島の人々や(戦火に苦しむ)レバノンの 人々への愛を言っているのです。

日, 07/16/2006 - 00:00

ミサでは毎回4種類、その日ために定められた聖書の一節が読まれています。 この習慣は、第一回目のミサである、最後の晩餐に由来しています。

第二バチカン公会議では、「聖書朗読が教会でおこなわれるのであれば、 それを通してキリスト自らが話されているのである」とされています(一章七項)。 これこそが、なぜ聖書朗読をよく聞くことが大事であるかということです。 私たちは、今、生きているイエスの声を聞いているのです。

聖書は私たちの毎日の暮らしに、美しい均衡をもたらしてくれます。聖書は 私たちに、慰めと挑戦すべき課題をあたえてくれます。実際、私たちはこの 両方ともに必要としているのです。

さて、今日の聖書朗読では何が読まれたのでしょうか?
第一朗読:(アモス:7・12−15)
アモスは神に対して、自分は預言者となるような資質は十分備えていない と言いましたが、神は「構わない、行け」と命じられ、実際それでうまくいったのです。 (この成功事例を、私たちの毎日の暮らしに取り入れましょう!)
第二朗読:(エフェソ:1・3−14)
聖パウロの手紙では、私たち一人ひとりが神に愛される子供として選ばれている ということが述べられています。なんという特権でしょう。私たちはその価値を 真に理解しているでしょうか。神に感謝しているでしょうか。
福音:(マルコ:6・7−13)
イエスが12使徒を全世界へ布教に遣わすときに、イエスはお金・雄弁術・ 宣伝のための仕掛けに頼るなとおっしゃいました。頼るべきものは、イエスが 彼らに(そして私たちにも)お与えになった力のみだ、ということです。
詩編(詩編85・9)
「神の語られることばを聞こう。神は平和を約束される。

日, 07/09/2006 - 00:00

神はイエス・キリストとなり、私たちと同じ人間となりました。この時、 イエスがお生まれになったのは、宮殿だったでしょうか?
いいえ!馬小屋でした。
イエスは一流の大学(ガマリエル等、当時のユダヤ教の大学)を出ていたでしょうか?
いいえ!30年大工をやっていました。
イエスは布教を続けるにあたり、著名人を選んだでしょうか?
いいえ!イエスは貧しい漁師と賤業とされていた徴税吏を選びました。
イエスは彼を賛美し讃える人々に取り囲まれながらこの世を去ったでしょうか?
いいえ!罪人として十字架上で刑死しました。

言い換えれば、神はこの世の価値観をひっくり返してしまったのです。そして これらすべての出来事の後に、イエスの復活があり、神の価値観の正しさが 証明されたのです。

今日の第二朗読(二コリント12・7−10)の中で、聖パウロは現代の私たち の毎日の生活にもあてはまる原則を述べています。それは、人間的な弱さに 私たちは苦しんでいるという事実を謙虚に認めてこそ、神が助けとなって やってくることを発見できるようになる、ということです。えてして、私たちには プライドがあり、そのプライドが神の助けを阻害してしまうのです。

私たちは自らの人間としての弱さを認めるでしょうか? それはある人にとっては体の弱さでしょうし、ある人にとっては性格上の弱さで しょう。またある人は誘惑に弱いこと、またある人にとっては痛みを伴う過去の 失敗、別のある人にとっては鬱になりやすいなど、かぞえきれないほどです。 聖パウロは彼を苦しめる「心のとげ」、人間的弱さが何であるかは明示してい ません。しかし、聖書学的な意味では、人間である以上、私たちは誰もが 固有の人間的な弱さを持っているのです。これを認めることは、決して 弱虫である、ということではありません。

私たちは、自分固有の人間的な弱さを認め向き合うことができるでしょうか? それともそれを無視して逃げ出してしまうのでしょうか? 私たちは自分の 弱さを、はっきりと具体的に、何が弱いと特定できるでしょうか?

自分の心の状態をイエスと共に話し合う時に、自分の弱さというものが、 その対話の原材料として役立っているでしょうか? そして、自分の弱さを 通じて、神の慈悲に出会えているでしょうか?

イエスは聖パウロだけでなく、現代に実際に生きる私たちに対し、生きている 声でおっしゃっています。 「あなたが自分の弱さを認めた時に、私の力は強さを最も発揮する」

弱っている時こそ強くなる。 −なんと困難な挑戦、なんと素晴らしい慰めでしょう

日, 07/02/2006 - 00:00

今日の福音(マルコ5:21−43) の中でイエスが示された行いの中で、私はとても奥深い意味を持つ、 三つの言葉についてお話したいと思います。

まず、「思慮深さ」です。 ここでいう「思慮深さ」とは他人が置かれている状況やその心境まで思いやる、 ということをいいます。自分自身をしばし忘れ、その人自身の立場にたって 感じてあげる、とういうことです。
次に「情け」です。 英語ではcompassion。語源を分解すると、共に(com)イタイ思いをする(passion)、 ということです。他人の心と感情の中にはいり、同じような思いをする、 ということです。
最後に「力づけ」です。 生きる喜びや希望、そして生きがいを他者に与えることです。

今日の福音では12年にもおよぶ出血に苦しむ女性が出てきます。 当時の厳格な律法では彼女は「穢れており」寺院に入ることはできませんでした。 他人から拒絶され、希望を失い、そして孤独に苦しむ彼女の心の傷を、イエスは見、 そして「情け」をかけられたのです。
そして優しさに満ちた「思慮深さ」で、「娘よあなたの信仰があなたを救ったのです。」と 言ったのです。イエスは新しい命と希望で、彼女を「力づけた」のです。

その後、ヤイロという者の家に行き、イエスは亡くなった12歳の女の子を生き返らせるという 奇跡を行います。家族一同は当然、大喜びではしゃぎまわりますが、実際には「女の子 が生き返った」という事実に喜んでいるのであって、「女の子当人の気持ち」まで誰も 気にしてはいませんでした。
イエスは「思慮深く」女の子の気持ちを察し、女の子がまず空腹であることに気付き、 喜び騒ぐ人々に、彼女に食べ物を与えるように言ったのでした。

イエスは私たち一人ひとりに、「私から学びなさい」、「私がするように、あなたもしなさい」 と呼びかけてらっしゃいます。

私たち自身の内面に向き合い、次の問いかけを自らにしてみましょう。

(1)わたしは他人が(心の中で)求めているものについて、思いやることができるでしょうか。
(2)わたしは他人の隠れた心の傷について敏感であり、共に苦しむことができるでしょうか。
(3)わたしは人に喜び(たとえば、優しい笑顔)、希望(たとえば、励ましの言葉)、そして賞賛    と感謝(簡単な”ありがとう”の言葉)を与えられるでしょうか。

神よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

日, 06/25/2006 - 00:00

今日の聖書朗読(ヨブ38・1、8−11;  詩編107マルコ4・35−41)では、 「嵐」が共通のキーワードとなっています。 私たち人間は、人生においてたくさんの嵐に出会います。病気、苦しみ、孤独、 人との軋轢、いじめ、などなど、たくさんの嵐があります。
このような嵐に遭遇し、自分の心が暴風雨に翻弄されているような時、私たちは、 神様や神様が約束してくださった助けや慰めといったものが 実は存在しないかのような気持ちになりがちです。もしこんな気分になった時には、 今日の聖書の箇所をゆっくりと、そして思慮深く読むことを 勧めます。神を近くに感じることができない時があるかもしれません。 しかしイエスは今日の聖書の箇所の中で、生きている肉声でハッキリと 言っているのです。「恐れるな、私はあなたと共にいる」と。
嵐におののいた弟子たちは、(共にボートに乗っており、眠っていた) イエスを揺り動かし、礼儀正しいとはもはや言えない切羽詰った様子でイエスに お願いしています。「イエスよ、私たちの舟は嵐に沈もうとしています。 私たちを気にとめてくれないのですか?」
皆さん、私たちの祈りも、私たち自身の心理状況を反映して、 このように切羽詰った叫びの祈りになることがあります。
イエスは私たちをありのままに受け入れてくださいます。
私たちの祈りは私たちの心の真情を吐露するもので良いのです。
今日の聖書のメッセージは、(嵐の時においても)私たちがイエスの 約束の言葉を信頼することができるか、ということを問いかけています。
「恐れるな、私は常にあなたと共にいる。」

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日, 06/18/2006 - 00:00

「イエスの食卓に
招かれた者は幸い」
その幸いを他人と
わかちあいましょう

イエスの最後の晩餐は、過越の祭の時でした。過越の祭の時には酵母を除いたパンを食べることになっており、 イエスもこの種無しパンを最後の晩餐の折に使ったのです。このことから、今でも私達は種無しパンをミサの時に使います。

さて、イエスは最後の晩餐でこのパンをとり、「これはわたしの体である」と言いました。この時、神の力で、この種無しパン はイエスご自身となったのです。同じように、ぶどう酒は「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」となりました。 今日の第一朗読(出エジプト24・3−8)では神と人間の契約が語られています。契約にあたって、雄牛の血を祭壇に 振りかけ、さらに民に振りかけるなど、現代の私達は「血だらけ」と思うかもしれません。

しかし極めて重要な約束をするとき、その約束は「自分の血を流してでも守られる」という証のため、人は血を用いて きました。アメリカン・インディアンは二人が親指を傷つけあい、流れる血を併せて約束としました。また日本においても 血判を押すことは広く行われていました。

同じように、神であるイエスは十字架上で血を流し、契約を守り、証しとしたのです。

神と人間との契約、というと何か厳しい・難しいものと思う人もいるかもしれません。 しかし、神が御子を遣わし、血を流してでも約束されたこと、「私はいつもあなたたち人間を見守る。とこしえに。」と 私たち人間に誓ってくださったことを深く思いましょう。イエスのすばらしい約束がこのように確実であると、真に知ること ができれば、私たちの毎日の生活に何かしっかりした支えができ、毎日安心して暮らすことができるようになります。 一人ぼっちで人生の道を歩まずに、イエスの御手に、「わたしのすべて、悩み、心配、苦しみ、その他一切」を委ねましょう。

みなさん、「イエスの食卓に招かれた者は幸い」。
神に感謝。

日, 06/11/2006 - 00:00

父と子と聖霊の
暖かい交わりを
味わいましょう

神父は洗礼を行うときに、「父と子と聖霊の名によってあなたに洗礼を授けます」と言います。 洗礼式そのものは簡素なものですが、しかしこの時、神は非常に偉大な力を授けるのです。 すなわち、洗礼を受けた者は「父と子と聖霊」の交わりの中に入るのです。

この「父と子と聖霊」は私達が信じる神の内面的な意味です。私達の神は、この「父」と「子」と「聖霊」 の三つから成る一方、唯一にして不可分です。三つにして、一体不可分。人間が完全に理解すること はできない奥義とされています。神学的・学問的な説明・解釈よりも、この神様の私達へのかかわりあい をまず理解しましょう。

私達の神様は、全能の神、すべての創造主であるにもかかわらず、遠い・恐ろしい存在ではありません。
今日の第二朗読(ローマ8・14−17)にあるように、イエスは父である神を「おとうちゃん!(アッバ!) 」 と呼んだのです。当時、ファリサイ派など旧約聖書に通じていた人々は、このイエスの神への親しい 呼びかけを冒涜と感じました。ファリサイ派にとって、神とは畏敬すべき簡単には近づけないものであった のです。神であり人間でもあったイエスは「子」として、神の真の愛と優しさを人間に教えました。そして、 人間に暖かい慰めや優しい助けを与える「聖霊」の存在を知らしたのです。

この「父」と「子」と「聖霊」による暖かい安らぎの愛にあふれた家への招待状、それが三位一体の交わり なのです。

日, 06/04/2006 - 00:00

聖霊来て下さい
「あなたは私の支え
恵みの力で
救いの道を歩み続け、終わりなく
喜ぶことができますように」

今日は、このようなお祝いの赤い祭服を着ています。祭壇も赤い布で整えられています。 何故だかお分かりでしょうか。 今日はめでたい誕生日、ほかでもない私達の教会の誕生日なのです。

私達クリスチャンの特別なしるし、十字架のしるしを切る時には、 私達は「父と子と聖霊」と唱えます。 また洗礼を授けるときに、神父は「父と子と聖霊の名において」洗礼を授けています。 私達の神様は、唯一の神ですが、その内的な性格は「父」と「子」と「聖霊」の三つの性格があり、 三つにして一体(三位一体)であると言われています。
この「聖霊」についてですが、「聖霊」とは私達の助け、慰めてくれる存在です。 皆さん、自分の生活の中で助けが必要でしょうか。 自分の人生の中で慰めが必要でしょうか。 私達はみな、聖霊の助け・慰めが必要であり、そしてそれをいただくことができます。

聖霊の助け・慰めを受ける最初の一歩は、まず自分自身の弱さ・限界を認めることです。 謙遜に、謙虚に自分達の欠点・至らなさを認めましょう。 そして「聖霊来てください」と祈りましょう。教会に来てもピンと来ない、 教会にいても特定の人が気に入らない、イエスの教えもよくわからない...。 このような人たちも時間を見つけて祈りましょう、「聖霊来てください」と。

実はあの12人の弟子達も、イエスの教えを分かってはいませんでした。 今日の第一朗読(使徒言行録2・1−11) にあるように、イエスの昇天後、 聖霊が下りはじめてイエスの教えが完全に理解され、そして教会が始まったのです。 現代に生きる私達の共同体も、それぞれ個人の反省と祈り、そして聖霊の恵みがあって、 暖かい心の平和を与えあう人々の集まりとなるのです。 これが祈りの中でいう「聖霊の交わり」なのです。第二朗読 (ガラテヤ5・16−25) にあるように、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」なのです。

自分自身の弱さ・限界を素直に認め、聖霊の助けを求めましょう。長く続く、 この鐘の音の余韻のように(鐘を鳴らす)、聖霊の助け・慰めはゆっくりと、 穏やかにしみ通ってきます。

聖霊の続唱
1.聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らして下さい。
2.貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
3.優しい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのない拠りどころ、
4.苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
5.恵み溢れる光、信じる者の、心を満たす光よ。
6.あなたの助けがなければ、すべてははかなく、消えて行き誰も清く生きては行けない。
7.汚れた者を清め、すさみを潤し、受けた痛手を癒す方。
8.硬い心をやわらげ、冷たさを暖め、乱れた心をただす方。
9.あなたの言葉を信じて、依り頼む者に、尊い力を授ける方。
10.あなたは私の支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことが出来ますように。
アーメン。アレルヤ。

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日, 05/28/2006 - 00:00

多様性の中の一致
結びあいは
イエス様です。

今日の福音(マルコ16・15−20)の中で、イエスは「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい。」と言っています。
私たちも自分がそれぞれ関わる小さな社会の中で、信仰の喜びを他人と分かち合いましょう。
今日の福音の中では、手で蛇をつかむことができたり、毒を飲んでも大丈夫であったり、また病人に手をおけば 治るなどの劇的なしるしが描かれています。これは初代教会の時代のしるしであり、現代に生きる私たちには もっと穏やか・微妙ですが、きわめて重要なしるしが求められています。
そのしるしとは、微笑みです。

今日の第二朗読(エフェソ4・1−13)にあるように、紀元63年ごろ聖パウロはローマにて囚人でありながらも 遠いエフェソの共同体に宛てて、お互いに柔和で寛容の心を持つようにと、助言を行なっています。エフェソの 初代教会も、さまざまな人々がおり、人間関係の問題は絶えなかったのです。

みなさん、2,000年前のエフェソの教会も、現代の保土ヶ谷教会も、違いはありません。教会にはさまざまな 人たちが集まります。異なった年齢層、職業、学問的・経済的背景の人々が集まり、また全て一人ひとり 異なった性格と個性を持っているのです。私たちがイエスをあかしするために、特に大げさな奇跡は必要ありません。
これだけ素晴らしく異なった人々が集まるなかで、イエスの教えのもと「多様性の中の一致」、「愛をもって 霊による一致」を実現できれば、それこそが教会のあかしなのです。

愛をもtってお互いに忍耐し、相手を受け入れることができるように祈りましょう。欠点のある相手を、欠点がある ままに受け入れることができるよう祈りましょう。カトリック教会の中であっても、人間同士の集まりですから、 摩擦・競争・好き嫌いなどはあるのです。このような問題があることは自然であるとまず認め、そしてイエスの 助けを願い解決するよう努力しましょう。

皆さん、私たちは皆、神の平和の道具となりたいと願っています。ただ、そうであっても、「私などは能力が無く、 何もできない。バザーなどにも、何も貢献できない」と思う方もいらっしゃるでしょう。そうではありません。私たちは 何かができます。神様に祈ること、そして隣人に微笑みを与えること、から始めましょう。

マザーテレサは「平和の始まりは微笑みです」とおっしゃっていましたが、そのとおりだと思います。皆さん、 かかわりのある暖かい微笑みを、教会の中でも外でも、隣人に対して与えましょう。

私たちの努力と神様からの助けにより、多様性の中の一致を実現いたしましょう

日, 05/21/2006 - 00:00

「わたしはあなたを友と呼ぶ」

今日の第二朗読と福音の中で、キリストの核心部分が触れられています。すなわち、「神は愛」(1ヨハネ4・7−10)なのです。
そしてイエスは言っておられます。「わたしはあなたを友と呼ぶ」(ヨハネ15・9−17)と。
しかし皆さん、この大切な言葉、「愛」と「友」は、テレビが支配する現代社会においてとても安っぽく使われるようになり、「愛」と 言われても、「友」と言われてもピンとこない人もいるかもしれません。かつて祈りをテーマとした講習会で、信者の方々と分かち 合いを持つ機会がありました。その時ある方は「私はこの年に至るまで友といえる友人を得ることはありませんでした。」とおっしゃり、 またある方は「私は友情を確信して自分の真実を友人に打ち明けましたが、その結果友人は私から離れていきました。」と苦しい 経験を話されました。皆さん、このような傷を負っても「愛」と「友情」について絶望すべきではありません。
5世紀初頭、聖アウグスチヌスは「友とは、自分のことをすべて承知のうえ、ありのままの自分を受け入れてくれる者」と言ってい ます。これは無条件の愛です。われわれがすべての秘密を無二の親友に打ち明け、その親友が我々の欠点を含めてすべてを 受け入れたならば、どうでしょうか。これこそがイエスが私たちに与えてくださる愛です。
旧約聖書では、「神の友」として神と親しい交わりを行った特別な人たちが語られています。代表的には、アブラハム (イザヤ41・8)とモーゼ(出エジプト33・11)でありました。知恵の書(7・27)やシラ書(6・14−17)では、「友」に関する 非常に美しい叙述があります。イエスはもちろんこれらをよく知っておられ、新約聖書の彼の言葉、「わたしはあなたを友と呼ぶ」 はこれらを踏まえた言葉です。
新約聖書の中でもイエスは個人的にラザロ、その妹マルタそしてベタニアのマリアたちへ大いなる友情を示しています。
このように神であるイエスは、旧約時代と異なり、私たちすべてが神と親しい友人としての交わりが可能であると言っているのです。
厳しい主人としもべとの関係でなく、親しい無二の友としての関係を神と結びましょう。主人としもべの関係は、主人はしもべに 対してすべての理由を説明することはありませんが、親しい友人同士ではお互いに隠し事はありません。
祈りにおいて着飾った心を持つ必要はありません。喜び・悲しみ・不安・反抗など、自分のありのままの「こころの叫び」をそのまま 神にさらけ出しましょう。そして神の声に耳を澄ませましょう。
祈りの博士と言われたアヴィラの聖テレジアの言うように、「祈りとは神との親しい対話」なのです。
親しい無二の友愛を神と取り結び、それを隣人に広げましょう。

シラ書(6・14−16)
誠実な友は、堅固な避難所。
その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。
誠実な友は、何ものにも代えがたく、
そのすばらしい値打ちは計り難い。
誠実な友は、生命を保つ妙薬。
主を畏れる者は、そのような友を見いだす

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日, 05/14/2006 - 00:00

「わたしはぶどうの木
あながたがは
その枝である」

イエスと私たちとの深い結びつきについてお話したいと思います。
弟子トマスがイエスと深く出会ったように、我々も深い意味で、イエスと出会い、親しい交わりあいを望んでいます。
今日の福音(ヨハネ15・1−8)では、その関係はブドウの幹(イエス)とブドウの葉と実(わたしたち)に例えられています。
ブドウの幹から葉や実へ、樹液・養分が送られているようにイエスから私たちに「いのち」「力」「元気」が送られています。
これによって私たち信者は生き生きとした人間となり、自信と勇気を持って隣人愛を実行することができます。確かな価値観を持ち、
落ち着いて毎日を過ごすことによって余裕が生まれ、今まで見えてこなかったことが見えるようになります。そして自分の人生について、
より深くすばらしさを味わうことができます。

ではこのイエスさまのいのち・恵みをどのように得ることができるでしょうか。
まず第一は祈り、イエス様との親しい交わりあいです。自分の心の言葉は、祈りの材料となります。
決まった文章の祈りも重要ですが、自分の言葉で、自分の内面をさらけ出す祈りが大切です。
沈黙のうえにイエスからいただく命を味わいましょう。イエスとの深い?がりあいを感じましょう。
もしすぐに感じることがなければ、感じさせてくださいと祈りましょう。

私は司祭として、奉献の時に、この葡萄酒(神性を表す)に少しだけ水(人間性を表す)を加えます。この時私は次のように祈ります。
「この水と葡萄酒の神秘によって私たちは人間であるイエス様の神性・神の命にあずかることができますように。」と。
この時、私たちの中に神の命がはいっていくのです。
ブドウの木のたとえ話のようではありませんか。この神の命が樹液のように私たちの中にはいっていけば、私たちの毎日はもっと うまくいきます。お父さんはお父さんとして、お母さんはお母さんとして、子供は子供として勉強や友達との遊びの中で、それぞれの中で、 この祈りをとおしていただく神の命はとても大きな栄養となり、私たちは毎日を落ち着いて、楽しく、うまくやっていくことができます。

私たち信者は、第一朗読(使徒言行録9・26−31)のなかででてくるバルナバのように、異なる人々の間にはいっていき、 人々に希望と慰めをあたえることができるでしょうか? イエスから樹液をいただいていれば、葉が茂り、実が実るように、 私たちは隣人愛を行うことができるのです。

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日, 05/07/2006 - 00:00

今日は召命祈願日です。司祭・修道者が増えるようにお祈りを捧げましょう。
「実りは多いが、刈り取る人は少ない」 これはイエスからのお願いです。幸い、保土ヶ谷教会の皆さんは一粒会(司祭・修道者の育成を支援する活動)に大変に熱心です。ありがとうございます。一粒会の運動として、献金は大切なことです。しかし、同じように重要なことはお祈りです。保土ヶ谷の皆さんは、この教会に派遣されているディン神学生のために特にお祈りいただければと思います。

さて、今日はわたくし自身の召命についてお話ししたいと思います。
私がカトリック司祭になろうと思ったのは、高等学校から大学へ進む時でした。大学より大工のほうが向いている(笑)、と思っていた私は、神学校に進路を見出したのです。神学校では他の神学生との暖かい交わりがありました。そして、海外派遣。わたくしはビルマを希望したのですが、総長様は日本を任地として示されたのです。

3年間日本語を勉強してから和歌山の教会に赴任しました。当時の和歌山は、不況の真っ只中でした。ながらく地元経済を支えていたメリヤス工場や木材工場が、経済の変化とともにつぶれてしまったのです。そんな中、私は和歌山や串本の教会で、「神父はワンマンでならなければならない」と考え、孤軍奮闘していました。町に新しく会社が入ってきて景気が回復し日曜学校の子供たちが50〜60人ほどもいました。毎週、その日曜学校のために、1人でテントを立てていたことを思い出します。今から考えれば孤軍奮闘でなく、他の方法があったかと思います。

そのあと熊本の崎津教会へ行きました。そこで膝の病気を患い、歩くことができなくなってしまったのです。何ヶ月も歩くことができず、おおいに悩みました。神に祈っても、神は沈黙していると感じたことすらありました。それでも無事快癒し、退院してずっと後になって考えてみると、この苦しい時期に、私は霊的成長をとげることができたと思います。日本語でいう、「艱難汝ヲ玉ニス」とはまさにこのことだと思いました。空白と思った時期も、イエスは実はわたくしの横にいてくださったのです。

さて退院しても病気は半分残り、私は小教区で司祭職を全うするのは無理だと考えました。帰国し、老人ホームでの司祭を務めることになりました。そこでイエスからのメッセージとして、「自分ひとりでは何もできない」という悟りを得たのです。人生の最後を迎える方々に「塗油の秘蹟」を行ううちに、単なる儀式ではなく、秘蹟を真に意味あるものにするために何をすべきかに考えを巡らせました。そして「聖書を読むこと」「祈り」「暖かい交わりを共同体・隣人と結ぶこと」、そしてこれらを「わかちあうこと」の重要さを再発見することができました。その後大神学院を経て、23年前の5月5日、日本に戻ったのです。テレビが一般化する前と後では、日本語は随分変わりました。久しぶりの日本語は大変でした。

語学が弱く、健康も強くなく、そして小教区を組織する力も特にある訳でもないわたくしが、司祭としてきちんとやれているのであれば、その理由は「自分の弱さをみつめることを通して、イエスと出会うことができた」からだと思います。

聖パウロの言葉、「私は弱っている時こそ強いのです」(2コリント 12:10)を思い出しましょう。

わたくしは司祭としての使命がありますが、みなさんもそれぞれの使命があります。母として、父として、職業人として、ある時は限界に直面して、思い悩むこともあるでしょう。孤軍奮闘はせず、心の耳を開きましょう。
自分の弱さを認め、見つめることで、イエスの助けを得ることができるのです。

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日, 04/30/2006 - 00:00

イエスは、聖書を悟らせるために
わたしたちの心の目を
開いてくださいます。

皆さん、私たちは本当にイエスの平和を味わいたいと思っているでしょうか? 神様から多くの恵みをいただきたいと望んでいるでしょうか? 容易ではない人生を切り開くため、イエスの力を得たいでしょうか? そして神様からの救いを望むのでしょうか?

私たちはイエスが示された、希望と永遠の命にあずかりたいと願っています。それではそのイエスの平和、救いと永遠の命を得るよう努めなければなりません。まず、必要なこととして、祈りがあります。そしてそのために、祈りの雰囲気のなかで、聖書を読みましょう。なぜなら、聖書は今現在に生きる私たちへの、神様からのメッセージだからです。

聖書を開く前に、「神様、私に心の目を開かせてください。私に命の言葉を聞かせてください。」と祈りましょう。祈りの雰囲気の中で聖書を読み続けるうちに、何かあなたの心に響くものが出てくるはずです。

今日の福音(ルカ24・35−48)の中では、イエスの出現の様子が語られています。イエスのご受難後、弟子達が夜集まってイエスについて話していると、突然イエスが現われたのです。弟子達は死んだはずのイエスを見て、亡霊が現われたと思い恐怖におののきます。当時死んだ者が現われるのは、亡霊が生きている者へ恨みをはらすためにだけ、と思われていたのでした。

イエスはこの全く見当違いで、教えを理解していない弟子達に対して立腹することはありませんでした。イエスは弟子達の恐れ、不安、驚きをよくわかっていたのでした。亡霊ではなく、肉体を伴っている存在であることを示すために、まず「何か食べるものはあるか。」と尋ね、そして焼き魚を食べてみせたのです。そして、聖書を引用し、自らの復活を示すとともに、弟子達の「心の目を開かせた」のです。

人間の限界を熟知していたイエスは、不信心な弟子達をとがめることもなく、動揺する弟子達をやさしく落ち着かせ、さらに神の力により「心の目を開かせた」のです。私は日本語学校で文法は弱かったのですが(笑)、使役動詞という言葉は覚えています。私たち弱い人間は自分の力だけで神の言葉を聞くことはできません。使役動詞が必要です。「あなたの声を聞かせてください。」と神に祈るのです。

聖書は普通の本ではありません。神様の御言葉ですから、「神様からの言葉を私にも聞かせてください。心の目を開かせてください。」と祈りつつ、読んでみましょう。

みなさん、ちょっとだけでも良いのです。毎日5分間、聖書を開けて読んでみてはいかがでしょうか。私たちは皆、とても忙しい日々をすごしており、そんな5分間も無い、と思う人もいることでしょう。しかし、この5分間で、神様の声・息吹・励ましを感じることができたならば、どんなに違った毎日になるでしょう。神を身近に感じ、とても落ち着いた気持ちになることができます。忙しさに打ち勝ち、心の平和とともに毎日を過ごすことができるのです。

皆さん、主の平和。

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日, 04/23/2006 - 00:00

わたしたちも
弟子トマスと同じように
イエスの慈しみを
味わいましょう

聖書の中に「慈しみ(いつくしみ)」という言葉は何度もでてきます。これは神の大事なメッセージですので、あいまい・ぼやけたとらえかたでなく、しっかりその意味を理解したいと思います。

神の慈しみは、ご復活の後のイエスの行いによって示されています。
イエスの復活のあと、マグダラのマリアは墓からイエスの亡骸が無くなったことを悲しみ、寂しさに泣いていました。イエスの復活を理解せず、イエスが近づいてきても理解できなかったのです。イエスは「マリア」と優しく彼女の名前を呼び、彼女の心の目を開かせたのです。イエスの処刑後、共同生活をあきらめて帰郷しようと、エマオへ向かっていた二人の弟子に、イエスは現われています。そしてその二人にイエスは優しく語りかけ、勇気と希望をお与えになっています。すべての希望を失った絶望のどん底にあった二人に、希望と確信をお与えになったのです。その後イエスは、11人の弟子が集まっていた晩餐の席に現われています。突然のイエスの出現に、弟子でありながらも、弟子達は亡霊ではないかと恐れおののきました。そんな弟子達に対し、イエスは優しく接し、一緒に魚を食べて見せ彼らを安心させました。また第一の弟子を自認しながらも、イエスの捕縛の際には三度も「イエスを知らない」と否んだペトロに対しては、イエスは叱ったりはしませんでした。ただ、三度ペトロに「私を愛しているか」と尋ねたのです。
イエスは私たちの罪や失敗を許してくださるのです。
今日の福音(ヨハネ20・19−31)ではディオディモと呼ばれるトマスに対するイエスの慈しみが記されています。トマスはイエスが示す救いが、具体的にローマ帝国軍からのユダヤ人解放につながらなければならないと信じていました。単に死刑になってしまったイエスに対して、トマスは極めて失望し疑いで心が一杯でした。そのようなトマスにイエスは優しく接しています。イエスはトマスが受けた失望、心の傷をよくわかっていたからです。そしてイエスは「私の体の傷を見なさい」とおっしゃったのです。

私たちの不信心について決して怒ったり叱ったりせず、むしろ私たちの心の傷をよく理解してくださり、そのうえで優しく癒しや配慮を示してくださるイエス様。皆さん、これは大昔のことではありません。現代も一緒です。私たちも、この優しい慈しみを味わうことができるのです。

「疲れた者、(トマスのように)心の傷を背負った者、休ませてあげよう」

祈りを通して、聖体拝領を通して、そして私たち共同体を通して、優しいイエス様との暖かい交わりを行いましょう。そして言葉だけではない、本当の神の慈しみを味わいましょう

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日, 04/16/2006 - 00:00

皆さん、イエス様のご復活おめでとうございます。

先週の金曜日はイエスのご受難の日でした。ここにある十字架はそのご受難を象徴し、またこのローソクは暗闇から光に至るご復活を意味しています。キリスト教の幾つかの奥義のうち、三位一体の奥義と共に、イエスのご託身・受肉の奥義はとても重要です。イエスは100%人間であるとともに100%まことの神様でした。このイエスの人間性と神性を調和をもって理解することはとても重要です。

十字架上で、イエスは普通の人間と同様に、究極の死の苦しみを経験なさいました。これは私たちにとって、大きな慰めです。私たちの神は、私たち人間の苦しみを、単に理解するだけでなくご自身をもって経験されているからです。
そしてイエスは死の三日後に、復活されました。これは私たちにとって、おおいなる希望です。イエスの神性は復活によって証明されたのですが、ご復活の意味は単なる証明だけではありません。十字架上の死と復活の意味は、人間の苦しみ・限界を理解する神が、同伴者として私たちの人生を共に歩んでくださる、ということです。大きな慰め、おおいなる希望です。

人間のすぐそばに、同伴者としていてくださる私たちの神。このイエスの道に従う者として、昨夜の復活徹夜祭で8名の方が、そしてこれから13名の方が洗礼を受けられます。イエスの約束、「私はいつもあなた方と共にいる」という言葉を思い出しましょう。

イエスの暖かい約束に応じて、私たち人間は親しく暖かい交わりを神様と結びましょう。神はひとりひとりの名前を、苗字でなく名前で、呼んでくださるのです。

今日の福音(ヨハネ20・1−19)の中で、イエスの死を嘆くマグダラのマリアに対してイエスは優しく「マリアよ」を呼びかけました(ヨハネ20・16)。このように、今日これから13人の名前を呼びます。(13名の受洗者の名前と霊名が呼ばれる。)

イエスは私たちの中に住んでいます。優しい雰囲気の中で、朝と夕、神様と親しい交わり(祈り)を行いましょう。決して長いものである必要はありません。神様との優しい交わりによって、神の息吹を一日中感じ、父として母として、あるいは職業人として、落ち着いた一日を過ごすことができるのです。祈りは自然に深くなってくるのです。

「私はあなたと共にいる。」
日, 04/02/2006 - 00:00

今日は赦しの秘蹟についてお話したいです。毎年降誕祭、復活祭の前に赦しの秘蹟をうけましょう。神様からのいつくしみをいただく前に、自分の罪を認めましょう。また自分ひとりだけでなく、共同体みなでそれを受け止めるようにいたしましょう。

私たちは、罪をみとめ反省する回心が必要です。人間だから、弱い人間だから、私たちはどんな人であっても心の力がにぶくなるときがあります。そのような時に私たちは、思い、行い、怠りなどさまざまな罪を犯してしまいます。真の回心を行うことによって、私たちは常にあの放蕩息子のように新しい出発をすることができます。この赦しの秘蹟の中に、いつくしみ深いイエスに出会うことが出来ます。人間の弱さをよく理解しているイエスは、私たちに平和を与えてくださいます。この、良心の救命、心の反省を私たち保土ヶ谷教会の共同体として行いましょう。

その回心の方法については、今日のミサの聖書は多くの示唆があります。

第一朗読(エレミヤ31・31−34)では、救い主がやがて到来し、神と人間との関係が知識の問題でなく、正しいこころの関係に入ることが述べられています。当時のユダヤ教は表面的なものに流れており、真の心の宗教ではありませんでした。ふり返ってみて、今の私たちにとって、神様と私たちは果たして表面的なものに流れていないでしょうか?神様は本当に自分の毎日の生活の中で、No.1でしょうか?毎日の忙しさの中で、神様が後回しにされていないでしょうか?

今日の答唱詩篇(詩篇51・3+4,12+13,14+15)はすばらしい回心の祈りです。そのまま説明はいりません、神に祈りましょう。

神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、
ゆたかなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。
悪に染まったわたしを洗い、
罪深いわたしを清めてください。

第二朗読(ヘブライ5・7−9)では、イエスが人間として生きていた時に、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、祈りと願いとをささげていたことが記されています。イエスは100%神であるとともに100%人間でした。無罪にもかかわらず十字架刑に至る過程において、人間としての苦しみ・悩みを十分にご経験されました。そのようなご受難の中で、イエスは父なる神に対し叫びの祈りを捧げておられたのです。私たちは、苦難・悩みの中にあって、十分神様に祈り、ありのままをさらけだしているでしょうか?

今日の福音(ヨハネ12・20−33)は、イエスの話を聞きたいと、ギリシア人がフィリポのもとへたずねてくる話でした。皆さん、このギリシア人のように、イエスに会いたいという強い希望を私たちは持っているでしょうか?

さて、神様からの慈しみの秘蹟、赦しの秘蹟をいただく前に、私たちは自らの罪を認めなければなりません。心の反省を行うにあたり、「交わり」という考えはとても大切なものです。

まず、(1)「自分との交わり」について考えてみましょう。わたしたちは安易に自己嫌悪に陥っていないでしょうか?自分自身を、ありのままに、良いところも悪いところも受け入れることができるでしょうか?

次に、(2)「他人との交わり」すなわち隣人愛、についてです。基本的な動作として、わたしたちは暖かい関わりのある挨拶をお互いにできているでしょうか? そして他人をありのままに受け入れることができるでしょうか? 恨み、反感、悪口、人の短所の強調、に流れていないでしょうか?

そして、イエスの最大の教え、もっとも私たち人間にとって実行が難しい教えを実行できているでしょうか。それは「許し」です。私たちは、他人との交わりの中で、様々な傷を負うことがあります。傷を負っても、祈りにより神様の力を借りて、自分を傷つけた人を許しましょう。「主の祈り」で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と日々唱えていることを、実行するのです。

私たちの信仰を実りあるものにするためには、自分とも他人とも「交わり」を行わなければならず、そのためには祈りは絶対に必要です。回心、そして赦しの秘蹟を通して、イエスのもとに参りましょう。

「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでも来なさい。休ませてあげよう。」
日, 03/26/2006 - 00:00

十字架は 愛の証明

今から3,200年前、ユダヤの人々はファラオの国エジプトにおいて、奴隷として苦しんでいました。預言者モーセはユダヤ人を率いてエジプトを脱出し、40年間荒れ野に逃げさまよいました。有名な「出エジプト」の部分です。ユダヤ人があまりの苦しさに、神を呪うと毒蛇が蔓延しはじめ犠牲者が出始めました。モーセは、神の指示に従い、青銅の蛇をつくり、その像を竿のうえに高く掲げました。この蛇の像を見ると、毒蛇に噛まれた犠牲者は全快し、元気になりました(民数21・5−9)。
今日の福音(ヨハネ3・14−21)の中でイエスがニコデモに言っていることは、この故事を指しています。神様から私たちがいただく、癒しと平和、です。

脳卒中で倒れるのではないかという用心から、私はいつもこのような「病院セット」の鞄を持ち歩いています(笑)。この中には、このように寝巻きや歯ブラシといったもののほかに、とても大事なものとして、この十字架が入っています。病気になり気弱になったり、意識すら失ったりすると、なかなかお祈りすることは難しくなりますが、十字架を見ると、慰め・癒しと、そして力を得ることができます。

いまから45年前、長崎県の龍神村で、大島先生が亡くなられた時を思い出します。大島先生は両手で十字架捧げながら、痛みをこらえ、そして亡くなられていったのでした。また、同じ九州・天草の教会のあるおばあさんのことを思い出します。この方は夫と息子さん両方を戦争で亡くされ、目も耳も弱くなっていました。しかし大変篤い信仰を持ち、お御堂のなかで十字架の道行きを行っていました。第十二留(イエス、十字架から降ろされる)の前で、ほとんど他人には聞こえない、ひそひそとした祈りで「イエス様、ありがとうございます」と何度もに祈っていらしたことを思い出します。信仰が難しい境遇の彼女を支えたのです。
十字架は愛の印、愛の証明です。今日の福音にあるように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3−16)のです。みなさん、この四旬節の間、十字架の意味をよく考えましょう。

十字架刑というのは、最も重い刑罰であり、残酷なものです。ある人は十字架を見ると、怖い・残酷、といったイメージを持つかもしれません。私たち信者は、この十字架の本当の意味を知りましょう。神様の私たち人間へくださった愛の証明、そして死と苦しみに打ち勝って3日目に復活したという栄光の象徴、であるのです。

皆さんのご自宅では十字架はどうなっていますか?この四旬節に十字架のほこりをはらって、十字架について考えてみましょう。

この私の十字架像は、1965年に和歌山の子供たちからもらったものです。十字架は父と子と聖霊の印、イエスは十字架を通して私たちに語りかけます。
「私はあなたの名前を呼ぶ」
「恐れるな、私はあなたと共にいる」

イエスは十字架刑というこの世での極限の苦しみを体験し、本当に深い意味で人間の苦しみを理解している神様です。
これが十字架のメッセージです。

日, 03/19/2006 - 00:00

祈りの中に
イエス様のイメージを
新たに描きましょう

世の中にはいろいろなしるしがあります。町の中の標識、山の中の道しるべ、などさまざまです。天気が悪く、霧がたちこめる山の中では大変心細いものです。そのような中で道しるべを見つけたときには大きな安心を得るものです。

今日の第二朗読(1コリント1・22−25)で、パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵をさがしますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」と言っています。ここでユダヤ人が求めている「しるし」とは奇跡を意味しています。十字架は当時重罪人かかけられる死罪でした。救い主であるイエスが、そのような刑にかけられたこと自体ユダヤ人にとって理解しがたいことだったに違いありません。そこで「どのようなしるしを私たちに見せるのか」と強くせまったのでしょう。

ユダヤ人は救い主の証としての奇跡を強く求めましたが、パウロは十字架につけられたキリストの復活が「しるし」であると言っています。

ヨハネによる福音書では、イエスが示した多くの「しるし」が記されています。水を葡萄酒に変えたカナの婚姻、役人の息子の癒し、ベセスダの病人の癒し、5千人へのパンと魚のわかちあい、盲人の癒し、そしてラザロの蘇えりなど...。これらの「しるし」の中で最大のものは、イエスご自身の復活です。

今日の福音(ヨハネ2・13−25)ではイエスが神殿から商売人を追い払った話が語られています。この神殿、ギリシア語聖書ではヒエロン(神殿全体の場所)とナオス(至聖所)の二つ言葉に使い分けられています。イエスは「この神殿を壊してみよ。3日で立て直してみせる。」と言いましたが、この時の神殿はナオスの神殿でした。また、「立て直す」という動詞は、立て直す、蘇えらせる、復活させるという意味をもちます。つまり、イエスの復活の意味は、イエスが今までの古い神殿・古い信仰を立て直す、ということを言っているのです。神殿である自分の体を3日で復活させるということも意味しているのです。このイエスの復活は最大の「しるし」であり、パウロも当然そのことをユダヤ人に言っているのです。

イエスが示された十字架でのしるし。四旬節第3主日を迎え、私たちが主の復活へどのような準備ができるのか考えていきましょう。

日, 03/05/2006 - 00:00

回心して
福音を信じなさい
神様はわたしを
愛しておられる

今日の福音(マルコ1・12−15)では、イエスが洗礼を受けた後に、荒れ野にて40日間の苦行を行ったことが述べられています。この40日間が四旬節の原型となっていますが、この40という数は聖書のなかでは試練や苦しみを表すものとしてよく用いられています。ノアの箱舟の洪水は40日間続き、モーセとイスラエルの民は荒れ野で40年過ごし、またモーセは十戒を授かるためにシナイ山で40日断食を行いました。このように四旬節の元となる40日は、単なる日数だけでなく、人間が受ける試練・苦しみを意味しています。

さて四旬節になると、私は、アイルランドの聖コロンバン会本部の近くにある、クロー・パトリック(聖パトリック山)に登ったことを思い出します。この山は700メートル程度の山ですが、アイルランドの守護聖人聖パトリックがやはり40日間修行を行ったところとして知られています。ちょうど日本の富士登山のように、毎年3万人以上の老若男女が巡礼登山を行っており、特にお祝い日である7月最後の日曜日にはたいへんな人出となります。山のふもとに聖パトリックの像があり、中腹には聖パトリックが休んだと伝えられる石の床、そして山頂には祠があります。巡礼登山の人々は、これらの聖跡のまわりを3回まわった後、つぎの目的地に進むのです。なぜ3回まわるのかと尋ねたところ、聖パトリックが三位一体(父と子と聖霊)の神秘を説明するのにあたり、三つ葉のクローバーを用いて明快に説明した故事からきているとのことでした。お祝い日のその日は山頂にて記念のミサがたてられ、赦しの秘蹟が行われます。

40日の苦行を行った「荒れ野」とはどのようなものでしょうか。何もない場所、危険に満ちた場所、孤独にさいなまされる場所ということができるのではないでしょうか。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言っておられます。日本における交通事故による死者が1万人弱、現在それよりはるかに多い3万人以上の方々が自死をとげられています。その理由として、家庭問題(15%)、借金(15%)があげられていますが、最も多い50%が「不明」となっています。自死の半分が、周りの人には不明の理由による、ということから、亡くなった方の深い孤独がうかがえます。

最近、日韓の学生達が広島に集い、交流を行う機会があり私も参加してきました。広島の被爆者は日本人のみならず、中国・朝鮮半島出身者、連合国捕虜など多岐にわたり、それらの方々の数は2万人にものぼる、などということでした。印象に残ったのは、ある韓国の学生が語った、「自分は韓国にいて、日本というものは非常に遠い存在であった。しかし日本の学生との交流を通して、日本がいかに自分達に近い存在であったかを実感した。」という言葉でした。まさに「荒れ野」の状態から出でて、あたらしい発見があったかのようです。

孤独に人生の荒れ野をさまよう、というのはイエスご自身も経験された、非常に重要なプロセスです。イエスの直面した試練と受難、そして旧約聖書に述べられている多くの苦難から私たちは解決のヒントを得ることができます。四旬節にあたって私たちが直面する試練・苦しみを神に捧げ、神の恵みを乞い願いましょう。

日, 02/05/2006 - 00:00

イエスがそばに行き
手を取って起こされた
彼女は一同をもてなした

今日は子供のミサですので、わたしも子供たちの前に立ってお話をしたいと思います。みなさん、横浜駅や東京駅に行ったことがありますか? とても大きく、人で一杯だったでしょう? あるイタリア人が日本に来て、東京駅の混雑を見て驚き、また人々の歩くスピードがとても速いのに驚きました。私は長崎出身ですが、故郷の長崎駅では東京や横浜ほど早く歩きはしません(笑)。ご飯はどうでしょう。イタリアではお昼ご飯を一時間かけてたべることは普通です。皆さん、学校の給食、会社のお昼休みなどではどうでしょう? 早いひとは15分くらいですましてしまう人もいるのではないでしょうか。忙しい、という漢字は「こころ」(りっしん偏)が「亡くなる」(つくり)と書きます。現代社会は忙しいことがあたかも格好良いように見なされますが、果たしてそうでしょうか。忙しさのあまり、自分の心を失ってしまっていることはないでしょうか。

イエスはいろいろなことを、じっくり時間をかけて行ったひとでした。今日の福音(マルコ1・29−39)は、イエスの活動が、あたかもサンドイッチのように、活発な活動−祈り−活発な活動、のパターンで示されています。人々との活発な関わりで多忙を極めたイエスでしたが、その間には必ず一人で神との対話、静かな祈りを行ったのでした。

さて、ここで「祈り」についてもう一度考えてみたいと思います。子供たち、みんなはお祈りするとき何を神様とお話しますか?お願いことですか? 「祈り」という漢字のしめす偏には「神」、つくりには「願う」という意味があります。つまり中国では、神様にお願いすることが祈りでした。キリスト教の祈りは、ラテン語ではホラツィオ(Oratio)といわれていました。これは、大昔のキリシタンではオラショなどと言われていましたが、この言葉は動詞のホラーレ(話す、対話する、会談する)から来ています。つまり、単に神様にお願いするのでなく、神様との言葉のキャッチボール、対話をするのです。

神様と対話を行い、神様からいろいろな恵みをいただいて、そして次なる活動に進むのです。みなさん、神様と親しい、さまざまな祈りを行い、活動−祈り−活動のサンドイッチを行いましょう。

日, 01/08/2006 - 00:00

イエスよ信仰の恵み
ありがとうございます
感謝して自分自身をあなたに
捧げます

今日は主の公現を祝う祝日であるとともに、ミサ中に成人式と入門式、またミサ後には車の祝別も行います。

わたくしたちは聖書を読むときに、聖書には二つのレベルの意味があることを思いおこさなければなりません。それは上の層にある、歴史的な事実を綴ったもの、そしてその下層にある、現代のわたしたちに直接働きかけている深い意味の二つです。
さて、今日の福音(マタイ2・1−12)ですが、史的な事柄としては、イエスがお生まれになった時に、東方から三人の博士がやってきてイエスを拝んだと言われています。この三人、現在ではおそらく現在のイラク・イランそして北アフリカの地域だろうと言われていますが、はるばる遠方より不思議な星に導かれて、イエスのいる馬小屋までやってきたと言われています。
これが、今日読まれた聖書の表面的な意味です。
それでは、その裏の意味、現代のわたしたちへの意味とは何でしょうか?

イエスの誕生の際に、同じように星に導かれ、最初に到着した羊飼いたち、これは地元ベトレヘム周辺に住む人々であり、ユダヤ教徒でした。これに対して、はるか遠くからやってきた三人の博士はユダヤ教徒ではなく、異教徒でした。しかし、不思議な星に導かれ大いなるあこがれをもって、はるか遠方から救い主をひとめ見ようと駆けつけたのです。三人の博士は、人生の意味、救い主を強く願い、望み、その結果、不思議な星の助けによって真の神に出会えることができたのです。

異邦人でありながらも神を強く希求し、その結果神からの導きに助けられイエスにであうことができた...このような三人の博士は、わたしたち信徒が目指す姿そのものではないでしょうか。三人の博士と同じように、神からの導きを感じることができ、イエスと出会えることができたわたしたちは本当に幸せです。信仰の恵みをいただいたわたしたちは、本当は方向オンチにもかかわらず、安心して人生の道を歩むことができます。そして平和の意義、真の満足をしることができるのです。イエスの道は堅苦しい道ではありません。ただ、わたしたちは恵まれた人なのですから、東方の三博士がイエスに捧げものをしたように、神に贈り物をいたしましょう。

三博士は黄金、乳香、没薬を捧げましたがわたしたちは何を神に捧げるのでしょうか?

一言で言って、他人への親切と優しさです。

黄金の代わりに他人への思いやりを、
乳香の代わりに関わりのある暖かい笑顔を、
没薬の代わりに芳しい赦しと和解を。

わたしたちのようなつまらない人間に対して、全能の天なる神はその最愛の御子をおつかわしになりました。この神の愛を深く認め、どのようにお返しすることができるか、考えてみましょう。

土, 12/24/2005 - 00:00

神は人となり
私達のうちに
住まわれる

クリスマスおめでとうございます。
お手元のお知らせにあるイラストをご覧になりましたか?赤ちゃんが両手に載せられさし出されています。この赤ちゃん、イエス様は神様であり、神様が天国の栄光をおいて人の世に現われたのです。この赤ちゃんは30年後、世の罪を背負い十字架にかけられた後に復活し、それ以降つねに私達と共にいるようになりました。神様でありながら、わざわざ人間となり、人間と非常に近い、人間と共にいるようになりました。イエス様は誕生の時から、平和を意味しておられました。私達自身の心の平和、私達の家庭の平和、私達の住む近隣社会の平和、そして国全体さらには国同士の平和。「主の平和」とはまさにこのイエスの説く平和に出会うことなのです。

ではどのようにこの神と出会うことができるのでしょうか。最初に行うべきことは、「祈り」です。神様と交わることができるように、神様との対話を行いましょう。イエス様は「疲れた者、重荷を背負うものは私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃっています。この言葉どおり、優しいイエス様のもとへ行きましょう。イエス様と出会い、イエス様の恵みの泉から「平和」の水を味わうことができるようになるのです。

さらに、毎日の生活の中でもっと身近に神と出会えるようにいたしましょう。その方法についてですが、簡単なたとえ話をしたいと思います。

狩場町に住む太郎ちゃんは「神様はどこにいるの?」とお母さんに聞くと「遠いところよ。」と教えてくれました。神様に是非とも会いたいと思った太郎ちゃんは、次の日曜日、お父さんと保土ヶ谷公園に出かけることにしました。小さな太郎ちゃんにとって狩場町から保土ヶ谷公園はとても遠いところです。お母さんがお握りと飲み物を持たせてくれました。お父さんには言いませんでしたが、太郎ちゃんは神様に会えるかも、と思ってドキドキしていました。公園に着いて、太郎ちゃんは一人で林の方へ神様を探しに行きましたが誰もいませんでした。お父さんのところへ戻ってくると、そばのベンチで一人寂しそうな顔をして座っているお婆さんがいました。太郎ちゃんはこの可哀想なお婆さんに何かしてあげたいと思い、リュックからお握りを取り出し、「おばあさん、一緒に食べましょう。」と笑顔で言いました。飲み物もわけてあげました。おばあさんはびっくりしましたが、とても嬉しそうでした。太郎ちゃんは家へ帰って、今日神様に会った、とお母さんに話をしました。いっぽうのおばあさんも家に帰りお嫁さんに今日の出来事を楽しそうに話しました。可愛い天使のような子どもが現われ優しい言葉をかけてもらったおばあさんは、自分の前に神様が少年の形をとって現われたと思いました。おばあさんは希望を取り戻したのです。

皆さん、「愛と慈しみがあるところ、神はそこにおられる」のです。隣人愛の実行、おもいやりと親切を行いましょう。京都清水寺では今年の漢字に「愛」を選びました。これほど現代社会は「愛」を渇望しているのです。おもいやりと親切をとおして愛を実行すれば、平和をつくることができます。利己主義に陥らず相手も尊重するということは、現代の競争社会にあって容易なことではありません。神の導きと助けが必要です。祈りを通して神のはからいをいただき、神の平和に生きましょう。

日, 12/18/2005 - 00:00

今日は、わたくしにとって特別な日です。ちょうど50年前の今日、私は叙階され神父になりました。そしてその1年後、わたしは日本にきたのです。この司祭としての50年間をふり返ってみて、何が一番感慨に残ったかといいますと、「私はまだまだ、足りない、弱い。そして、まだまだ十分使命を果たしていない」というしみじみとした思いです。
皆さん、今日の福音(ルカ1・26−38)の中でマリアも同じように、不安・おそれで一杯でした。天使ガブリエルは「恐れるな、主はあなたと共におられる。」とマリアを励ましました。自分に自信がなく将来の物事におそれを持つ、ということはとても人間的なことです。わたしも、ペテロも聖人達も、マリア様も、みな自分が不完全で足りないことを認めています。認めているからこそ、神の助けをたのみ、神の「恐れるな」という言葉を思いおこすのです。
ここに和歌山の教会の堀さんから送っていただいた掛け軸があります。聖パウロのコリント人への手紙(2コリント12−10)の言葉、「私は弱っている時こそ強い」、この言葉こそわたくしが毎日かならず思い出す聖句です。
イエス様は私達に力を与えてくださいますが、これは司祭へのためだけでなく、まさに皆さんのためなのです。
今日は保土ヶ谷教会のカトリック入門講座志願式を行います。信徒を志すこの15人の方々も、不安にかられたり悩んだりすることはちっとも異常なことではなく健康的・自然なことです。マリアやペテロと同じように神様に頼り、イエス様と共に人生を歩んでいきましょう。
入門志願式の中では次のような質問が行われます。
「自分の弱さや足りなさを見つけ、イエス・キリストの助けを必要としていますか?」
私は必要としています。入門の方だけでなく、皆で共に改めてその必要性を認めましょう。
そして、同伴者であるイエス様と親しい語り合いを祈りを通して行いましょう

日, 12/04/2005 - 00:00

ここにいる子供たちのみんな、本州の一番南はどこだか知っていますか?それは和歌山県の串本市です。わたしは40年前、串本教会の主任司祭でしたので、串本には特別の思い出があります。ある時、その串本の町に昭和天皇がおいでになるということがありました。本州の南の果てにあった串本では、それは大変なことで、町の中心地にある町役場と郵便局の前面部分をきれいに作りかえていたことを覚えています。海洋生物学の学者でもあった昭和天皇は、本当に最南端である潮ノ岬に行き、生物を調べたいと望まれました。当時、串本から潮ノ岬までの道は大変悪く、穴ぼこだらけで急カーブの連続でした。そこで大急ぎで穴には砂利を入れてきれいに整地し、急カーブの部分は切り開いて道をまっすぐにする、という工事を行っていたことを覚えています。
2700年前のイザヤの時代においても同じでした。王様がやってくるとなると人々は道を整え、まっすぐな平坦な道に修繕しました。みなさん、串本の人たちが天皇陛下をお迎えするために道を準備したように、私たちも主の訪れを待ち望み、「心の道」を整えましょう。
イザヤは、次のように言っています。

わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。(イザヤ40・4)

主の降誕に備え、心の道を整え、まっすぐにせよという教えです。
では、具体的にはどのようにしたら良いのでしょうか?

まず主の降誕、福音の訪れの意味を改めてかみしめましょう。福音とは「良い知らせ」という意味であり、神が天国での栄光を差し置いて、わざわざ人間となられ人間のために近づきやすい神となったことです。待降節の中で、その優しい神様と出会いましょう。イエスは、よい牧者と神を表現しています。自分の羊を一匹一匹よく知っており、羊を守り育てる優しくて勇敢な羊飼いのイメージです。祈りを通してこのような優しい神様に出会いましょう。あるアメリカ人の司教様は、この忙しい現代社会にこそ、一日6分間、静寂の中で祈るということはとても大事なことである、と言っています。単に祈りを唱えるのではなく、自分の全てをさらけだし、自分の言葉で神様と語り合いましょう。

変化が激しくストレスの多い現代社会にあって、特に神様の助けを願いましょう。この人生を神様と共に二人三脚で生きていく、という実感を得られたならば、それまでは想像もできなかったような、優しく落ち着いた「心の平安」を得ることができます。そして神の平和のもとで、さまざまな日常の事柄を落ち着いて、自分のペースで進めることができるようになります。これが神様の祝福の中に生きていく、ということなのです。

もう一つお勧めしたいことは、本日の福音でもあるマルコによる福音書です。紀元60年頃に書かれたと言われているこの福音書は4大福音書の中で最も短く、2時間ほどで読めてしまいます。この待降節の間に、もう一度よく読んでみたら如何でしょうか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1・3)

日, 11/27/2005 - 00:00

「父よ、わたしたちは粘土、
あなたは陶工
あなたの御手の業」(イザヤ64)」

わたしは週二回、保土ヶ谷駅まで階段を降りていきます。帷子町に出ると郵便局があり、その向こうにある家の玄関のところに、毎年ツバメが巣を作ります。毎年同じ時期に同じところに作ります。おそらく同じ夫婦のツバメなのでしょう。このツバメ達にとって、帷子町のあの家で巣をつくるということは、もはや習慣となっていることなのでしょう。
人間の場合も、同じことを何度もしていると、もはやあまり深く考えることもなく、習慣的に行動することがあります。特に若いころに身につけた習慣は、三つ子の魂百まで、と日本のことわざでいうとおり、ずっと続きます。こうした習慣は良い意味で使われる場合が多いのですが、習慣化するということは、自分の行動・思考が型にはまり、改善・進歩の自由を奪う、というマイナスの面もあります。例えば、結婚・家庭生活について、習慣化・形式化してしまい、家族同士の本当のコミュニケーションがなおざりになってしまう、というような場合もあります。子どもたちが、父親・母親が自分達のために一生懸命に働くことを、まったく当たり前と思ってしまい、感謝の念も形式的・習慣的になってしまう、ということもありえます。
私たちの信仰も同じです。
待降節に入るにあたり、神様からの恵みを新たに感じ、新たに味わいましょう。私たち信者の信仰は、習慣でなく、日々あらたに深化・拡大しているものでしょうか?神様、父なる神様、と言いますが、私たちは充分それを理解しているでしょうか? わたくしケンズの場合ですと、残念ながらまだまだです。待降節は「心のたな卸し」を行う良い機会です。
そもそも福音とはどういうものなのでしょうか。新しい、喜ばしい、知らせと言われています。これは遠い昔の知らせではなく、日々毎日わたくし達を新しく成長させてくれるうれしい知らせなのです。「心のたな卸し」を行い、これらに耳を澄ましてみましょう。
今日の第一朗読(イザヤ63・16−19、64・2)では神様は遠い存在ではなく、優しい父であり私たちはその愛の手に包まれる、とあります。私たちはこの神様の愛の優しさを十分味わっているでしょうか。信仰が習慣的、形式的に流れ、物質的なこと出世することのほうを大事にし過ぎていないでしょうか。第一朗読は、いわば「嘆きの祈り」であり、イザヤは自分のすべてをさらけ出し、自分の悲しみのすべてを神様に投げ出して祈っています。
ここにいる皆さん、この中で自分が完璧だと思っている方はいらっしゃいますか?もしいれば、この教会堂に(わざわざ)居る必要はないでしょう(笑)。私たちは皆不完全で欠点だらけです。不完全であることを受け入れましょう。神様は私たちを優しく受け入れてくださいます。
「主よ、あなたは我らの父、私たちは粘土、あなたは陶工」(イザヤ64−7)のとおり、神様は私たちを優しく造りあげてくれます。この、神様の優しい手に対して、私たちはしなやかでやわらかい粘土でしょうか?優しい、熟達した陶工に全てを委ねましょう。
第二朗読(一コリント1・3−9)では、神様は真実の方であり立派な約束を私たちとしていることが述べられています。イエス様の「私はいつもあなたと共にいる」という言葉のとおり、神様は私たちを忘れません。その愛を思い出しましょう。
このように、私たちは神から直接お招きをいただいた、この世で一番恵まれている人々です。この、神様との交わりを味わうために、祈りは絶対に必要です。この待降節には、特に祈りにより神様との交わりを深めましょう。そして、今日の福音(マルコ13・33−37)にあるように、「常に目を覚ましている」ようにしましょう。神様は人それぞれに使命を与えてくださいます。その使命を果たすために神様からの力づけが絶対に必要です。待降節にあたり、「目を覚まして」主を待ち望みましょう