日, 11/25/2007 - 00:00
「御子は、見えない神のすがたであります。」(コロサイ1・15)という今日の聖書の一節は、私たちキリスト教徒にとってはとても重要です。私たちは神を見ることはできません。神は目に見えないものなのです。神とはどのようなものでしょう?神は私たちに対してどのような態度をとっているのでしょう?これらの問いはとても重要なものです。

私たちは神ご自身が御子として人間になられたと信じています。それがイエスでした。ですから、私たち人間がイエスの人間としての心を見たときに、私たちは真の神をみるのです。神の私たち人間への態度もわかります。聖書の出来事は永遠の現在形で描かれているということを思い出しながら、いくつかの例を見てみましょう。
神であるイエスは2,000年前そうであったと同じように、今も私たちに対して優しい態度を示してくださいます。

今日の福音では イエスは十字架上で非常に苦しんでいました。そのような耐え難い苦痛の中で、イエスは悔い改めた盗人に対して優しく、励ましの言葉を与えています。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは言っています。
イエスは木の枝の上にいたザアカイにも同じように優しいまなざしを向けました。「一緒に食事をしよう。」とさそっています。空しく無益な暮らしだったザアカイに対してイエスは新しい希望と平和を与えています。
またイエスは、一人息子を失ったナインの母親が流す悲嘆の涙を見ました。イエスは彼女と同じように、そして彼女のために悲しみました。イエスはまさに憐み深く、そのやもめの母親のためにイエスも苦しんだのです。

イエスは、らい病患者の表面的な悲しみだけでなく、内なる寂しさにも目を向けています。彼は皆とともに感じています。それがあわれみなのです。イエスは彼自身を否定したペテロにたいしても憐み深いまなざしを向けています。イエスは人間の弱さを理解しています。このような例は枚挙にいとまがありません。

これが私たちの神です。この神は今現在も生きています。私たち自身も聖書に登場してくる人達なのです。これが私たちの神であり主であるのです。
「御子は、見えない神のすがたであります。」
この一節は私にとってもっとも慰め深い教えであり、私の信仰の基礎となっています。

日, 11/18/2007 - 00:00
あなたの心に響く聖書の一節を選んでみましょう。

今週(11月18〜25日)は聖書週間です。

聖書は「生きている神からのメッセージを含んでいる」という点で、ほかの本とは異なっています。神は聖書を通して私たちに語りかけていますので、もし聖書を読まず神の声を聴かないのなら何ともったいないことでしょう。「神の言葉は生きており、剣よりも鋭く私たちの心に突き刺さる」(ヘブライ人への手紙4章)といわれているとおりです。

聖書を読むにあたっては、つぎのような大事な点があります。

(1) 聖書の力を信じ、イエス様に私たちの今日の生活への意味を教えてくださるように祈りましょう。それはちょうどイエス様がエマオへの道で弟子たちに教えことと同じです(ルカ24章)。「イエス様、私の心に聖書をお教えください!」

(2) 旧約聖書も新約聖書も時代背景は遠い昔ですが、その根本となるメッセージはまったく現代的なもので、私たちの今の暮らしにあてはまるものです。聖書のメッセージは生きているものです。

(3) 導きを願う短いお祈りのあと、聖書の一節や部分をゆっくり読んでみましょう。(ゆっくり読むことが大切です)。目的は聖書で祈る、ということです。聖書を勉強することはまったく良いことなのですが、ここでの目的ではありません。ゆっくりと祈りの心を持って聖書を読むことはとても大事です。ゆっくり読むことによってあなたの心の中に様々な反響、エコーが生じるでしょう。それらは、まさに神からあなたへの個人的な語りかけですので、耳を澄ませてみましょう。この様々なエコーは大抵あなたの心の中で今起きていることや現実の暮らしに結びつくのです。聖書(もちろん神様も)は私たちと別の世界のことではありません。

(4) 聖書を読んでいると慰めをあたえてくれる箇所に読み当たることがあります。

またその一方、私たちに挑んできたり、私たちを困らせたりする箇所もあります。前者は私たちを勇気づけ、後者は私たちの成長と成熟のためにともに必要なのです。

(5) 時として、理解できない箇所に遭遇するかもしれません。そんな時はその部分はとばして、わかるところを味わいましょう。大切なのは祈ることです。難しい部分は後で勉強しましょう。

私の好きな個所をご紹介します。

「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)、

「わたしはあなたの名前を呼ぶ。わたしは主、あなたの神、あなたの救い主。わたしの目にあなたは価い高く貴くわたしはあなたを愛している。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43章1節)

日, 11/11/2007 - 00:00
この5週間、主日の朗読箇所を用いて「祈り」について説明してまいりました。しかし、「どのように祈るか」よりもさらに重要なことは、「誰」に対して祈るか、ということです。それは勿論、神様なのですが、その神様を掟と罰を与える神とイメージしてしまうと私たちの祈りは堅苦しく冷たいものになってしまいます。また、もし神様を、「誰か天上の高い所にいる方」とぼんやりと想起してしまうと、私たちの祈りもぼやけた味気ないものとなってしまいます。私たちはイエスの中に真の神を見出します。イエスの人情味のある優しさや憐み深さは、私たちの真の神の心そのものです。
イエスは私たち一人ひとりと固く約束してくださいました。
「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを守る。」
イエスはこの約束を決して、−たとえ私たちのほうが忘れても−、絶対に破ることはありません。今日の朗読(二テサロニケ2・16−3・5)において、「主は真実な方です。(言い換えれば、“主は約束を守ります。”) 必ずあなた方を強め、悪いものから守ってくださいます。」とあります。そしてイエスは、私たち一人ひとりに言っています。「あなたは私の友人である。」と。
時として祈りが、空っぽのバケツに向かって喋っているようなもの、と感じられることがあるかもしれませんが、決してそうではありません。私たちの神様は私たち一人ひとりを名前でよび、私たち一人ひとりは神様の目から見て皆とても大事であり、愛してくださっているのです。(イザヤ43章)
私たちの祈りに対して、神様は常に敏感な耳を向けてくださいます。そして神様は私たちが「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈ることを希望しているのです。神様は私たちにとってよいものだけをお与えになります。
わたくしが若かったころ、私はある試験に通るようにと非常に熱心に祈りました。そして落ちてしまいました。わたしはしばらく神様に幻滅してしまい、人生において異なる道のりを歩むことになりました。今、わたくしは結局当初望んでいた道よりもはるかに良い道を歩んでいることを実感します。今になって私は神様にあの試験に受からなかったことを感謝するのです。
神様の本質は優しく愛情深く、人間のはかなさ・弱さをよくわかっていてくださいます。福音によって神様は、今、私たちの間に生きている神であると知ることができます。
生きている声で、今神様は私たち一人ひとりに語りかけているのです。
「疲れたもの、重荷を担ってあえぐものは、私のところに来なさい。休ませてあげよう。私はあなたの名前を呼ぶ。あなたは私の、大切な人。私が愛する者。」
神様はまことに人間の同伴者であることを好みます。
私たちも是非祈りを通して、神がともに歩んでくださる幸せを味わいましょう。

日, 11/04/2007 - 00:00
聖ルカは芸術家でした!すばらしい言葉の表現力で、聖ルカはイエスとザアカイの出会いをいきいきと描いています。これは単に2000年前の出来事の光景ではありません。イエスは今現在生きておられ、ザアカイは私たちなのです。
私たちは人間であるがゆえに、誰でも「より良きもの」へのあこがれを持っています。そのようなあこがれを私たちは普段は抑圧できているかもしれませんが、疲れたり、ストレスを感じたり、苦しんだり、あるいは傷ついた時には、強くわきあがってくるのです。 忙しくしていることは、このあこがれを抑圧する手段ではあります。しかし、神のみがこの私たちの心のあこがれを完全に満たしてくれるのです。
ザアカイはお金持ちでしたが、心の中では満たされない思い、そして同じようなあこがれを持っていました。ザアカイはイエスの話を聞こうと出かけましたが、イエスに近づくことができず、また背も低かったのでイエスを見ることもできませんでした。
彼は自分の社会的な立場を忘れて、小さな男の子のように木に登り、イエスを見ました。そうするには勇気が必要でしたが、それだけザアカイの「より良きもの」へのあこがれは強かったのです。
イエスはザアカイが登っている木の下を通った時に、ザアカイ(そして私たち一人一人)を見ました。そして「友達になりましょう。」とおっしゃったのです。この友情はザアカイとその家族に大きな安らぎをもたらしました。これは、現代の私たち一人一人にあてはまるのです。私たちは、ザアカイのように、木に登る準備はできているでしょうか?
一人静かに、私たちが持つ、「あこがれ」について感じてみましょう。祈りの形をとるのかもしれません。(私はこの祈りの形が好きです。それは、より親しみ深くイエスと出会いたいからです。)
あこがれは、祈りの第一歩、とても大事なステップです。
試してみませんか? 詩篇42章、「あこがれの詩篇」です。

谷川の水を求めて、あえぎさまよう鹿のように
神よ私はあなたを慕う。
私の心はあなたを求め、神の命をあこがれる。
私が行って、み前にいたり、み顔を仰げる日はいつか。
日, 10/28/2007 - 00:00
あなたのお祈りは、タテマエにすぎなかったり、うやうやし過ぎたりしていませんか? もしそうなら、そのお祈りは口先だけのもので、心からのものではありません!

神が欲している祈りは、着飾らない、本当の自分自身からの祈りである、と今日の聖書では言っています。本当の自分自身からの祈りを実践するためには、私たち人間がいか に意志薄弱で、弱く、そして罪深いかということを認識する必要があります。(今日の聖書で触れている「罪深い」という意味は、具体的に罪を犯すというよりは、私たちが 神の愛に答えなかったり、聖書で言っているように、私たちの信仰が「的外れ」であったりすることです。)

今日の福音では、神殿に祈祷に訪れた二人の例が示されています。ひとりは非常に敬虔な男でした。彼は(これが彼が「祈り」と思っている行為でしたが)神に次のように祈 りました:「わたしはいつも長い祈りを捧げ、戒律の全てを守り、十分の一税を教会に払っています。」彼は、彼が行なったすべての「善いこと」を神に報告していますが、 実際には彼は自分自身を他人と比べ、他人と彼らの犯した「悪いこと」を裁いていたのでした。彼の「祈り」の本質は、「神よ、私はあなたのお誉めにに値します」というも のでした。この「祈り」のなかで、かれは他人を裁き、見下していました。この「祈り」はうわべだけの祈りであり、彼のエゴだけがでたもので、心が欠けています。

イエスはむしろ二人目の男を誉めました。この男は自らの意志薄弱さ、弱さ(つまり今日の聖書でいうところの罪深さ)を認めました。この男は、簡単で短い祈りを捧げまし たが、これは私たちも使うことができる珠玉の祈りです。
「おお神よ、罪深い私をあわれんでください。」

私たちは、人間的な弱さがあることを認めますが、同時に、神がありのままの私たちを受け入れてくださるということを強く信じています。この神のあわれみは、とても寛大 に私たちがいただけるものなのです。

さあ、今あなた自身の心の中では、どのような思いがはしっていますか? それこそが、祈りの原材料となるものです。それが、神が求める祈り、着飾らない心での本当の祈 りなのです。
日, 10/21/2007 - 00:00
みなさんの周りに、病気で寝込んでいたり痛みに苦しんでいたりする人はいらっしゃいますか? もしそのような人がいたらその人たちのために祈っていますか? 結婚生活
で問題をかかえている人はいませんか? 学校でいじめにあっている子供、不幸な境遇の子供やお孫さんはいませんか? キリスト教をあきらめてしまった人はいませんか?
そのような人たちのために、あなたはお祈りをしていますか?

自分のためでなく、人のために行う祈りは「とりなしの祈り」と言われており、今日の第一朗読(出エジプト17:8−13)に出てくるモーゼがその例です。また、今日の
福音(ルカ18:1−8)ではイエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えています。

もうひとつ、とりなしの祈りの例をご紹介しましょう。
354年の11月3日、アルジェリアでパトリシオとモニカの間に男の子が生まれました。彼らはその子にアウグスティヌスと名づけました。モニカは非常に熱心なキリスト
教徒でした。パトリシオとモニカはアウグスティヌスに良い教育を受けさせるために、多大な犠牲を払いました。そのおかげでアウグスティヌスは大学へ進むことができ、学
者への道が開けました。しかしモニカにとって残念なことに、倫理面ではアウグスティヌスは問題だらけでした。アウグスティヌスは博打好きで、愛人に息子を産ませ、モニ
カが信じるキリスト教を拒否し、それどころか反キリストのマニ教に走りました。そんな中にあって、モニカは熱意をもって、神にアウグスティヌスのことについて祈り続け
ました。29歳の時にアウグスティヌスは出世のためにアルジェリアを去り、ローマへ向かいました。経済的な理由により、彼はさらにミラノに移り、そこの大学で弁論術を
教えました。モニカは彼のために祈り続けています。当時、ミラノ総主教であったアンブローズ司教は説教が非常に上手であることで有名でした。弁論術の参考にしようと、
アウグスティヌスは説教だけを聴きに行こうと、アンブローズ司教のミサに行き始めました。しかし説教の弁論スタイルだけでなく、彼は司教の伝えようとしている本質にも
関心を寄せるようになりました。アウグスティヌスは再びキリストに引き寄せられたのです。387年の復活祭の夜、息子アデオダトゥスとともに、アウグスティヌスは洗礼
を受けたのです。モニカが息子がクリスチャンになりますようにと祈り始めてから20年がたっていました。
これは私たちにとって、一つの良い例です。
後年、アウグスティヌスはこのように書いています。
「神よ、あなたは私達をあなたのためにお創りになりました。それゆえ、あなたの中で休むことができなければ、私達の心は休まることができません。」
母モニカの祈りによって、いま私たちは彼女の息子を「聖アウグスティヌス」と呼ぶことができるのです。
日, 10/14/2007 - 00:00
心から「ありがとう」と言われたとき、どんなに自分の心が温まるか気がついたことはありますか? もしかすると、私達はこの「ありがとう」を口先だけで言ってはいませんか? あるいは、贈り物や優しさなどはもらって当然で、「ありがとう」などとは言ったことがないのかもしれません。忘恩は心を傷つけます。心のこもった「ありがとう」を一緒に住む人や共に働く人たちに言いましょう。そして、恵みを私達に降り注いでくださる神様にも「ありがとう」と言うことを忘れないようにしましょう。神様からの贈り物を私達は当たり前のこととしていないでしょうか。今日の福音ではイエスは恐ろしい皮膚病の病人を10人治しました。9人はイエスに感謝することなくいってしまいましたが、一人は戻ってきて心からの感謝をイエスに伝えています。イエスは彼に愛の贈り物を与えています。私達は、このたとえ話にでてくる9人の方でしょうか、それとも戻ってきた一人の方でしょうか。ここで皆さんへ、実用的で面白い、感謝祭のお祈りのお手本をご紹介します。神様は私達が持っているもの、そして私達が今こうあることの根源です。私達が固い感謝のお祈りをする前に、私達の人生のなかで受け取ったすべての才能や魅力、長所などを再発見してみましょう。さあ鉛筆を持って紙に向かい、1から9までの自分の良い点を書き出してみましょう。(この「9」とは福音の中の恩知らずな9人にかわるものです!)静かな祈りの中で、とても面白く長らく忘れ去られていたものがよみがえって来ます。例えば、私の場合、中学のころ木工を教えてくれたロバートさんが思い出されました。いまだに木工は私の趣味で、良い気分転換になっています。神様、ありがとうございます。ありがとう、ロバートさん。神への感謝の祈りはとても大切なものです。どうぞ試してみてください。(この祈りの面白い副作用は、うぬぼれに対する心の薬として作用することです。感謝は、私の持つすべてのものは、私ではなく、神からきているのだと気づかせてくれます。)
日, 10/07/2007 - 00:00
紀元前6世紀、ハバクにとって物事はすべて最悪の状況でした。彼の国は戦いに敗れ、敵の軍勢に占領されてしまいました。ハバクは神に見捨てられ空虚な思いをかみしめていました。あなたはこのような思いをしたことはありませんか?この時、ハバクは礼儀も何もかなぐり捨てて、心の思いをそのまま神にぶつけています。神に対してハバクは泣き叫びました。「なぜ、なぜ、なぜあなたはわたしを見捨てたのですか、神よ!」 これは、わたしたちが切羽詰まったときの、祈りの手本です。このように祈ることは、神に対して失礼にはなりません。それどころか、正直な心のそこからの祈りであり、まさに神が欲しているものなのです。
強い言葉を用いて神に叫ぶことは、聖書においてしばしば描かれています。ハンナ、エレミアもそうでした。イエスは詩篇22章を「神よ、神よ、なぜ私をお忘れになったのですか?」と叫び祈っています。この祈りは空虚な心から発せられていますが、神の私たち一人一人への無条件の愛、堅固な基礎によってたつものです。
しかし、時として私たちはこのような「無条件の愛」も確かでないように思う時があります。そんなとき、今日の福音にある祈りを思い出してみましょう。
「わたしどのもの信仰をましてください」(ルカ17:5)
わたしたちが「魂の暗い夜」と呼ばれる時を過ごすとき、神が沈黙しているように思えるとき、空虚な心のまま必死になって神に向かって叫びましょう。
ハバクと私たち一人一人への神の返事はこのようなものです。
「私は人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(ハバク2:3)
神よ、あなたは私たち一人一人に無条件の愛をお与えになります。私はそれを信じます。どうか、わたしどもの信仰を増してください。
日, 09/30/2007 - 00:00
今日の福音に関して、現代風のたとえ話です。
ある猛暑の日、エアコンがよくきいた社用車で、ある会社の社長さんが自分のオフィスに到着しました。オフィスは広く現代的で、天井まで届くガラス窓の向こうには、庭木や草花が芝生に映える美しい庭が続いています。室内は23度に冷房されており、彼はスーツとネクタイできちんとしています。一方、外は32度の猛暑の日です。
10時になり、庭を眺めながらお茶を飲んでいると、日雇いの草刈りが見えました。良く働くようなら4、5日雇ってみようと、今日のところはお試しで呼んでみた日雇いでした。しかし社長さんが見る限り、日雇いは雑草取りをものすごくゆっくりやっているように見えます。社長さんは独り言をいいました。「こいつら日雇いの連中ときたら、いつもこれだ。グズでいい加減で、頼りにならない。」
3時になり、社長さんは再び外の庭の様子を見てみました。日雇いの仕事の様子は朝と同じか、もしくはさらにのんびりとしていました。いい加減カッときた社長さんは日雇いを叱ろうと、庭へ通じるドアをあけて外へ飛び出しました。一歩出たとたん、空調のきいた23度の世界から、蒸し暑い32度の世界に入った社長さんは、窯の中に飛び込んだようなショックを受けました。とたんに汗が吹き出し、力が萎えていくのがわかります。実際に外に出てみるまで、日雇いがどのような状況で働いていたか、全くわかっていなかったのです。外に出てみてはじめて、日雇いの状況と気持ちを彼は理解できたのです。
さて私たちは、ホームレスであること、日雇いであること、悲しく孤独であること、希望を失っていること、貧困にあえぐこと、などが実際にどのようなものであるか、わかっているでしょうか。私たち他人の状況や気持ちを思いやろうと努力するよりも、むしろ、利己主義的な居心地の良い自分の世界に安住しているのではないでしょうか?  今日の福音(ルカ16:19−31)にでてくるラザロが、私たち一人一人の家の戸口の外にもたたずんでいるいるのが見えるはずです。他者の気持ちをわかるということは、優しくなれることの第一歩です。「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5:7)
日, 09/23/2007 - 00:00
イエスの教えには、私たちへの慰めと私たちに課せられた挑戦が見事にバランスしています。今日のイエスの教えは、挑戦のほうです!イエスはこうおっしゃいます。「あなたの人生、どのように歩むかあなたが自由に決めることができます。神様かお金か、どちらを選びますか?両方に仕えることはできないのです。」 従って、私たちも自分自身に尋ねてみましょう。「私たちの人生において何を優先していくのでしょう? モノ? 仕事? カネ儲け? 快楽? それとも神様? もしイエスがたどった道を私たちも選ぶのであれば、そのためにとても大事だと私が思うことを、ちょっと紹介させていただきます。

(1)各人それぞれ、人間としてのはかなさを認識いたしましょう。自分自身の人生を、人間一個人の力だけで完全に切りまわしていくことはできません。私たちは神の助けが必要なのです。父として、母として、学生として、働く者として、あるいはリタイアした者として、私たち一人ひとりは神への渇望があるのです。
(2)日々の祈り。朝起きた時に神に一日の加護と導きを求めましょう。一日の中で、ちょっとでいいから一人静かな時間をつくり、聖書を開きその言葉の自分への意味を考えましょう。
(3)隣人への優しさ。私たちは神によって特に選ばれ恵まれていますが、その目的は隣人とわかちあうためです。この世の中の貧しい人たちに対して、私たちは私たちの能力に応じて何らかの手助けをしているでしょうか。
(4)私たち自身が苦しみに直面する時、私たちは、私たちのために苦しんでくださったイエスとしっかり連帯しているでしょうか。

この四つの点を実行に移すことにより、誰もが、新しい味わいのある人生を送ることができるようになると思います。ぜひ実行してみてください。
日, 09/16/2007 - 00:00
私達は神の愛、憐れみ、慈しみ、優しさ、そして柔和を聖書で読んだり聴いたりします。しかし問題は、これらの意味を私達はしっかり心で捉えているでしょうか。そうするためには、特別な、静かな時間が必要です。というのも、心からこれらを理解することは、人間の努力と勉強だけでは不可能であり、神からの純粋な賜物であるからなのです。この賜物により、私達はまったく新しい人間になることができます。
イエスの時代のファリサイ人は神について極めて厳しい考えを持つ人々でした。神は、掟の神であり、掟を破る者は神に罰せられなければならないのです。イエスはそのような考え方に真っ向から反対しました。例えば、ルカ15章ではイエスは三つのたとえ話をしています。(1)見失った羊、(2)無くしたコイン、そして(3)放蕩息子の話です。
羊飼いは一匹のために99匹を置いて探しにいたのです!これは神にとっては、どんな人でも、一人ひとりとても貴重であり、愛している、ということです。
持っている10枚のコインのうち1枚をなくした主婦が、徹底的に探し、ようやくそれを見つけて大喜びする話は、神のイメージを語っています。私達の神は、大喜びする神なのです。厳しく罰する神ではなく、大喜びする神、そんな私達の神をイメージしてみましょう。
放蕩息子のたとえ話では、息子の罪よりも、父親の優しさ、慈悲、愛が描かれています。これこそが私達の神です。
昨日読んだ、素晴らしい一節をご紹介します。「いつくしみ、愛、そして憐れみは、神のうわべではなく、神そのもの、神の本質なのです。」私にとって、この一節は非常にさまざまな思いをかきたてるものでした。
皆さん、今週はゆっくりと祈りの心を持って、ルカ15章を読んでみましょう。そして静かに座って、神の私達への個人的な愛を味わってみましょう。
日, 09/09/2007 - 00:00
本日、保土ヶ谷教会では敬老の日のお祝いをいたしました。敬老の日にあたって、私の説教のかわりに、故ヘルマン・ホイヴルス神父様(イエズス会・上智大)による有名な祈りをご紹介したいと思います。

最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになうー。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人の為に働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人の為にやくだたずとも、
親切で柔和であること、
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことの故郷へ行くために。
おのれをこの世に、つなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何も出来なくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番よい仕事を残してくださる。
”それは祈りだ”
手は何も出来ない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求める為に。
すべてをなし終えたら、臨終に神の声をきくだろう。

『来よ、わが友よ、
われ なんじをみすてじ』と
(ルマン・ホイヴルス『人生の秋に』より)


この祈りは日本にてよく愛されており、ゆったりしたと味わい深いものです。皆様も是非お祈りください。
日, 08/26/2007 - 00:00
神は私達を神の子供として、全くわけへだてなく例外なく愛してくださいます。神のその愛を、神によって教えてもらえる人もいます。そのように教えてもらえることは、大変な「特権」とも言えますが、ここで気をつけたいことは、そのように神の愛を知ってクリスチャンとなったとしても、別に神のエリートとなったわけではない、ということです。イエスはそのような考えを強く否定しています。聖書は神によるそのような「召しだし」や「選ばれた人々」という言葉を、独特な意味で使っています。私達は神によって、他の人々に奉仕するために、召しだされ、選ばれているのです。クリスチャンであるからといって、そうでない人々より優れているわけではありません。

私自身の経験談なのですが、クリスチャン人口が1%未満の日本に来てみて、神による召し出しのありがたさを改めて感じることができました。信仰は、わたくしの日常に味わいと意味づけを与え続けています。「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言ってくださる神がいるということは、私にとって素晴らしい支え・希望となっています。

ですので、信仰をお持ちのすべての人々に対して、私は聖書に基づいた次の取り組みを行なってみていただきたいと考えています。
(1)ご自身がいかに恵まれているかということをあらためて認識していただき、神にそれを気付かせていただいたことに感謝します。信仰は自ら勝ち得たものでなく、自分が神を信じていることは、全く神のおかげであることに気付くことが重要です。
(2)このことについて、神との親しい祈りの中で、神に感謝いたしましょう。
(3)この感謝を、他の人々とわかちあいましょう。やりかたは、状況に応じて様々です。他人への感謝、励まし、思慮深い優しさ、温かい笑顔、そして時として赦しなどです。
これが聖書でいう”狭き門をくぐる”ということで、謙虚な心で、自分自身の好むことがらを優先しないということです。自己中心的で傲慢な人々は、自分達が(クリスチャンであるので)エリートとして広い門をくぐる権利があると錯覚することがあるかもしれません。しかし、それは間違いなのです。
日, 08/05/2007 - 00:00
皆さんは昔「ブッシュマン」という映画があったのを覚えていらっしゃいますか?その映画はアフリカのカラハリ砂漠に住む遊牧民の家族が主人公の映画でした。そのシリーズ3作目で、カラハリ遊牧民がサルを捕獲する巧妙なワナが出てきました。ブッシュマンは穴のあいた箱のようなものをつくり、その穴は丁度サルが手を突っ込むことができるギリギリの大きさにしておいたのです。そして箱の中にはおいしそうな香りがたつ、サルの大好物の木の実を入れておいたのです。サルはその匂いをかぎつけ、手を入れて木の実を取ろうとします。しかし手のひらを握りしめたままでは穴から手を出すことができません。ここでサルは選択をせまられます。1)大好きな木の実をあきらめ、自由の身になるか、2)木の実をあきらめず、箱に捕らわれたままでいるか。多くのサルは後者の選択だったのです。これは私達にとって示唆深いことです。
私達も物質的な物ごとの捕らわれ人となっていないでしょうか。暮らしをうまくやっていくことばかりに重きがおかれて、神と祈りについておろそかになっていないでしょうか。
物質的な物ごとそのものが悪いということではありません。しかし時として私達はそれにそっくり飲み込まれてしまい、神と祈りを忘れてしまいます。ヘンリー・ノーウェンという方が「両手を広げて」という美しい祈りの本を書いています。両手を広げて物質的な物事を解き放してしまいましょう、そして神があなたに愛を与えられるようにしましょう。
聖アウグスチヌスは5世紀に著書「告白」において次のように書いています。
「わが主よ、あなたは私をあなたのためにお作りになりました。私の心はあなたのところでしか憩うことができません。」
日, 07/29/2007 - 00:00

時として、私は祈りたくても、うまくいかないことがあります。そんな時私は、
人間である自分の努力だけで祈りができると思っていた誤りに気がつくのです。
神に祈ることさえ、私は神の助けが必要なのです。そこで私は、今日の福音に出て
くる言葉、「イエスよ、私にも祈りを教えてください。」という言葉を使います。
イエスの弟子が同じ言葉を発した時、イエスは私達が「主の祈り」と呼ぶ祈りをお
教えになりました。この中で最も大切な言葉は、最初の「我らの父よ」と呼びかける
言葉です。この言葉こそが、キリスト教徒にとって祈りとは何かを示しているので
す。この言葉は、真に愛されている子供と、その子をありのままに受け入れる父親と
の間にある優しく暖かい関係を示しています。イエス自身は神に祈るときに、同様
に、小さな子供が使う言葉「アッバ(おとうちゃん)」という言葉を使いました。こ
れは完全な愛と信頼を意味しています。
イエスは我々に神に対しては子供のように信頼を持って神に願い事をしなさいと言っ
ています。「求めよ、されば与えられん。」 神は私達が真に幸せになってほしいと
のみ願っています。神は我々の不幸を全く望んでいません。(これは、今日のたとえ
話のように、父親が子供に蛇やさそりを与えないことと一緒です。)
今日の第一朗読で、神の友人でもあったアブラハムが、神に対して「あえて」お願
いするところが出ています。その言葉「あえて」は重要です。我々も、「あえて」天
にまします私達の主に、子供のように願い出ましょう。イエスは重要な何かを教えて
くれています。私達は天の神に、自信を持って恐れなく、子供のように願い出ること
ができるのです。私達も、ゲッセマネの園でのイエスのように「この願いをあなたに
ゆだねます。」と私達の願いをしましょう。
私自身としては次の2種類のお願いがあると思っています。
第一の願いは、とりあえずすぐに必要なもの、健康、試験、問題解決等などです。
第二の願いは、心の底からのもの、自分自身の内面から湧き上がる憧れです。この憧
れが私の祈りとなっています。主よ、私達に祈りをお教えください。

日, 07/22/2007 - 00:00
良きサマリア人のたとえ話は、祈りだけ(例:ユダヤ僧侶)では十分ではなく、隣人への愛の実行も必要である、ということでした。今日の聖書(ルカ10:29−42)に出てくるマルタとマリアの話は、隣人への愛の実行だけ(例:マルタ)でも十分でなく、祈りも必要であるということです。これら二つのたとえ話は対となってバランスするものです。
ヨハネ11章5節では「イエスはマルタとその妹マリア、そしてラザロを愛された。」とあるように、かれらはイエスの友人であり実際イエスは彼らを好きでした。友人としてイエスはマルタに優しく「マルタさん、マルタさん、あなたは仕事に追われ忙し過ぎます。」と言ったのです。(マルタの名前を2回呼んだのは、親しさの表れです。)
個人的に私は自分自身がマルタに似ているような気がして彼女に共感してしまいます。ですから、イエスの優しい諭しは私自身に向けられているものと思わずにいられません。そもそも現在の日本にいる私達すべてがマルタのようではありませんか? 私達が暮らしている社会の雰囲気がまさに忙しさに追われるものであるからこそ、今日の福音のマリアのようにイエスの足元に座りイエスの言葉に耳を傾ける必要があるのです。つまり、静かな環境の中で祈る機会が必要なのです。ここでいう祈りとは、特別な準備や祝福が必要なものではありません。ただ座ってイエスからの愛と友情を味わうだけで良いのです。
イエスは「私はあなたの名前を呼ぶ。私はあなたを友と呼ぶ。」と言ってくださる神なのです。この愛と友情こそが祈りの基礎となるものです。
今週、毎日3分間静かなお祈りをしてみてください。私のやりかたは、準備として部屋にロウソクを灯し、体の緊張をときほぐし(とりわけ固くしまったアゴの筋肉をほぐし)、リラックスします。そしてイエスが私の名前を呼ぶことをイメージします。わたしはイエスの私への友情を感じることができ、そしてイエスがあるがままの私を受け入れてくださることを感謝するのです(平穏な日の祈りもあれば、怒涛の日もあります)。
私はマルタが包丁と料理壺をわきに置き、マリア、ラザロとともに静かにイエスの話を聴く様子を想像することが好きです。 そしてその後マルタはもっと上手に料理できるようになっただろうと思うのです。
日, 07/15/2007 - 00:00

この拙文を読んでいただく前に、有名な「良きサマリア人」と呼ばれるイエスのたとえ話 (ルカ10:25−37)を、新たな気持ちで読んでいただきたいと思います。

4年前、医療福祉の方々のために私は「キリスト教」という広いタイトルの講座を持っておりました。講座終了試験の中で、「現代の日本の中で、良きサマリア人のたとえ話はどのような意味をもつのでしょうか」という問いがありました。その中での、ある回答をご紹介したいと思います。皆さんそれぞれ、ご自身の回答はどのようなものとなるのでしょうか。イエスは私達一人ひとりに「行って私と同じように(愛の行為を)行いなさい」と言っておられます。なんという挑戦でありましょう。では、その学生さんの回答を見てみましょう。

【 高校の頃、私は厚い眼鏡をかけていて、緊張するとひどくどもってしまいました。『出る杭は打たれる』の諺どおり、私はイジメにあってしまいました。
ある日、私が答えを間違えると、数学の教師は私のどもりを真似して私をクラスの笑い者にしました。昼休みに入っても、級友たちはその真似を続けました。
私は野球場の隅のベンチに一人座り、死にたい気持ちでした。

担任の先生は私やイジメには無関心で、級長も忙しくて構ってられない振りをしていました。私は絶望的に孤独で、ひどく傷ついていました。

しかし在日3世の在日朝鮮人の級友がやってきて静かに私の傍らに座りました。彼は5分も何も言わずにそばに居続け、そして口を開きました。
「どんな気持ちか、僕はわかるよ。でも、頑張って。君は立派だし、良い人だと思うよ。つらいけれど、僕達はこんなことで、他の人のつらさもわかってあげられるようになると思う。」

その在日の級友は私の心の傷を癒してくれただけではありません。私が高齢者、虐待児童、心身障害者の方々を支援する医療福祉の道を選んだのも、結局彼がその選択の種をまいたことになるのです。】
日, 07/15/2007 - 00:00

聖書箇所:申命 30 ・ 10 ‐ 14
コロ1・ 15 - 20
ルカ 10 ・ 25 - 37

今日の福音のメッセージについて考えていたとき、私は昨年見たあるテレビ番組を思い出しました。ご覧になった方がいらっしゃるかもしれませんが、「夜回り先生・水谷修のメッセージ2 生きていてくれてありがとう」というタイトルの番組で、NHKで放送されたものです。「夜回り先生」水谷修さんのことは、みなさんも御存知のことと思います。青少年の非行、薬物依存、リストカット(自傷行為)などの問題に尽力し、繁華街の夜回りや、メールや電話で直接彼らの悩みや抱えている問題と向き合っている方です。

番組の中では、実際に水谷先生がかかってきた電話の応対をしている場面がいくつも放送されました。その中で非常に印象深かったのは、何人かのリストカットをする少女たちに水谷先生が言う言葉です。親との関係、学校での人間関係、進路の問題などで、心が破裂しそうになり、その結果リストカットをするようになってしまった彼女達に対して、水谷先生は「やさしさをくばってごらん」「ひとのためになにかしてごらん」と勧めるのです。

この言葉を聞いたとき、私は驚きました。リストカットをするほど苦しんでいる彼女達に対して酷な要求だと思いました。でも、他の場面での水谷先生の言葉を聞いて考えが変わりました。それは大体こんな感じの言葉でした。「矛盾かもしれないけど、子供たちに僕はあえて、やさしさくばってごらん。人のためになにかしてごらん、と言う、僕は人間捨ててないから。やっぱり、何かやってもらうと人は、「ありがとう」っていう。その一言がその子供たちの心を溶かし、開いてくれる。そこに賭けるしかない。人のためになることが心の強さにつながるんだ」

この言葉は今日の福音のメッセージと深く関わっていると思います。福音の中で、イエス様は、「隣人を自分のように愛しなさい」というときの「隣人」が一体だれのことなのか、と尋ねる律法学者に対して、「よきサマリア人」のたとえ話を語り、最後に「行って、あなたも同じようにしなさい」と命令なさっています。「同じようにしなさい」というのは、「サマリア人のように、弱い人、苦しんでいる人の隣人になって、その人を愛しなさい」

ということでしょう。イエス様の命令とはいえ、これを実行するのは、とても困難なことのように思えます。

なぜでしょうか。それは「愛する」ということを「自分を犠牲にする、自分を捨てる」という面でしか捉えていないからだと思います。人間は誰でも自分を大事にしたい、自分を守りたいと思うものですから、「自分を犠牲にすること」には抵抗を感じます。特に現代のように、多忙で余裕のない時代においてはなおさら、そのことは難しくなるでしょう。

しかし、「愛する」ことにはもう一つの面があります。それは、「私たちが自分を犠牲にして誰かを愛する時、神様から恵み、助け、報いをいただく」ということです。先程お話した水谷先生の言葉を思い出してみてください。自分の苦しい状態にもかかわらず、周囲にやさしさをくばる、人のために何かする。そうしていくことで閉じて冷え切ってしまった心が開かれ、強められていく、彼は言っていました。人間の目から見れば、これは矛盾したことです。でも、ここにこそ真理があるのではないかと私は思います。そして、この真理は、私たちの信仰の根幹に関わるものであると思うのです。なぜなら、自分の命をすべてのものへの愛のために捧げたイエス・キリストに神は復活という究極の恵みを与えられたということこそ、私たちが第一に信じていることだからです。

私たちが、神様を信頼し、勇気を持って、愛を実行することが出来ますように、このミサの中で共に祈りましょう。

日, 07/01/2007 - 00:00

ルカによる福音書の9章51節から19章28節までは「旅の主題」と呼ばれています。イエスはエルサレムを目指して旅立ったのですが、ルカはこの旅を、私達が人生の旅をおくるうえでの手本として見ています。
私達キリスト教徒は人生の道をイエスとともに歩んでいこうと、イエスからの呼びかけを受け取っています。皆さん忘れないようにいたしましょう、私達は人生を決して一人で生きているのではなく、力とお導きを与えてくださるイエスとともに人生を歩んでいるのです。今日読まれた詩篇では「神はわたしのそばにおられ、わたしはけっしてゆるがない。」と言っています。
今日の福音ではイエスに呼ばれた3人の話が出てきます。この3人の名前は示されていません。むしろこの3人は私達自身を現すたとえと考えた方がよいでしょう。 
最初の人は「はい、イエス様、私はあなたに従います。」と言いました。イエスはその人(そして私達に)、イエスのように私達も苦しみと時によっては寂しさに直面することを警告しています。 
二番目の人は「はい、イエス様、私の父が死んでから、私はあなたに従います。」と言いました。彼の父親は健康で、死んでしまうのは5年10年20年あるいは30年先の話でしょう。言い換えればその人はイエスにすぐについていかない口実に父親を使ったのです。こんにち、私達も「今は忙しすぎてイエスに従うことができません。」、あるいは「終日働いていて時間がありません。」と言うかもしれません。しかし、これは「遅延戦術」のようなものです。
三番目の人も従わない言い訳を言いました。この人は自分の過去の人生を振り返り、イエスに完全に自らを賭けるということはしませんでした。別の言葉で言えば、イエスに従うということは、イエスの御手に私達の未来をゆだねるということを意味します。イエスが「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」と言う時、私達はイエスを信じなければなりません。
イエスに従い、イエスの御手に私達の人生をゆだねることにより、私達の人生に真の意味と味わいがもたらされます。これと同時に、私達はより良い親、職業人、友人等になることができます。なぜならば「神はわたしのそばにおられ、わたしはけっしてゆるがない。」からです

日, 06/24/2007 - 00:00

保土ヶ谷教会の皆さん、おはようございます。保土ヶ谷教会に来るのは3年ぶりです。今日は堅信式がありますが、今回保土ヶ谷教会で堅信を受けられる方は48人とのことで驚きましたが、喜ばしく思います。

さて、今日の福音(ルカ1・57-66)では洗者ヨハネの母、エリザベトが出てきます。このエリザベトの夫、ザカリアの前に大天使ガブリエルが出現し、神のご意思のもとにヨハネが生まれてくることを告げると、ザカリアは「どういうことで私はそれを知ることができましょうか?」と反駁しました。一方イエスの母マリアは、同じように天使よりイエスの降誕を告げられた時、「私は主のはしためです。あなたのみことば通りとなりますように。」と答え、神への絶対的な信頼を示されました。ザカリアが主のご計画の成就について証拠を求めたのに対して、マリアはそのご計画について「私は何ができるのでしょうか。」と尋ねたのです。いわばザカリアは神に対して、やや傍観者的であったの対して、マリアは完全に神を信じ自分のこととしてかかわっていくことを示されたのです。

このマリアの信仰は、私達、とりわけ今日堅信を受けられる方々にとって良いお手本となると思います。洗礼・堅信という大きな恵みをいただいて、「それで実際、どのようになっていくのですか?」と疑問に思うよりも、マリアが示された信仰をお手本に、その恵みを戴いて私達が何ができるかということを考えたいと思います。

カトリックの信者になることで、イエスの教えについてカトリック教会が2,000年かけて形成してきた体系的な理解のしかたを得ることができます。しかし、これと等しく重要で、また簡単にすぐ行えることとして、イエスが自ら行い示した隣人への愛の実行があります。私達はイエスが望まれているように十分な愛を隣人に示しているでしょうか。

ところで聖母マリアは、「恵み溢れる聖マリア(Ave Maria, gratia plena)」と私達が祈るように、イエスを宿すという神からの恵みが満ちみてる方でした。しかし実際の人生では、普通の子とは異なるイエスに戸惑い、そしてそのわが子を十字架に磔にされて失うことになります。それでも、聖マリアは最も神の恩寵に満ち溢れた女性なのです。

ところで、話は飛びますが私はよく10円玉の話をします。あちこちで話しているので皆さんの中にも聞いたことがある方もいるかもしれません。ある養護学校での話ですが、子供たちの中には家庭の事情などで普段は親元を離れ寄宿している子供たちもいます。社会で生きて行くためにある日先生が子供たちに、お金の使い方を教えました。一通り教えた後で「一番価値がある硬貨はどれですか?」と聞いたところ、ある女の子が「10円です。」と答えたそうです。普段から理解力のあるその子がわからないようではほかの子供もわかっていないだろうともう一度説明して再度その女の子に尋ねるとまた、「10円です。」 不思議に思った先生が、「どうして?」と聞いてみるとその子はこう答えたそうです。「その10円玉で、お母さんと話せるからです。」 その女の子も寄宿していて、母親ともたまにしか会えないのですが、毎日一日の終わりに公衆電話でお母さんと話すのを楽しみにしていたそうです。私達は500円、100円、50円、10円、5円、1円と、一面的な価値基準だけでものごとを序列づけ、判断してはいないでしょうか。私達にも、実は、100円よりも、100万円よりも、1億円よりも貴重な、10円玉があるのではないでしょうか。

イエスが示された愛の教えを実践するには、神様の助け、恵みが必要です。今日の堅信式にあたっては、このような恵みを今いただけると自覚し、イエスの示された道を歩む糧といたしましょう。

日, 06/17/2007 - 00:00

堅信⑥講話要旨 「堅信式について」

今日は堅信式そのものについて、語したいと思います。堅信の秘跡の中に二つの働きがあります。一つは神様からです。助け主である聖霊、慰め主である聖霊 は、私たちの上にくだります。もう一つは、弘たち信者からです。社会の中でイエス様の証し人になることです。堅信の移跡を授ける人は、普通は司教様です。 堅信は洗礼のつづきです。堅信の秘跡の中には三つのシンボルがあります。第一は按手、第二は言葉、第三は聖香油です。聖書の中での按手の意味は「貴方は神 様から特別な使命をいただきます。その使命を果たすために必要な力もいただきます。」 司教様が按手する時に、この言葉を使います。
全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によって
この人びとに新しいいのちを与え、罪から解放して下さいました。
今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、
神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

○○○○、父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい。アーメン
主の平和。
第三のシンポルは聖番油です。司教様が聖週間の荘厳な式の中で、この油を祝別します。オリーブ油に芳しい香りのあるバラの油をいれます。私たちは、イエ ス様から芳しい香りのある恵みをいただきました。というのは信仰の喜びです。私たちは社会に入って芳しい香りが漂う社会をつくりましょう。何かの喜ぴ、何 かの光を分かち合いましよう。これは社会のなかでのイエス様の証し人といいます。具体的に言えぱ、証し人の行いは、人に暖かい態度を示すこと、励まし慰め の言葉を言う事です。人の身分に応じて、イエス様の証し人となりましょう。そして信仰の喜ぴを分かち合いましょう。
私たちはこの世で一番恵まれたものです。神様の愛を知っていますから、その恵みの偉大さを理解して感謝して分かち合いましょう。受堅者のために一番大事な準備は祈りです。
慰め主、助け主である聖霊、私の上に来て下さい!

日, 06/10/2007 - 00:00

堅信⑤講話要旨 「聖体拝領と祈りについて」

東海道線国府駅~鴨宮駅間の精米所の壁の上の大きな看板に[米は力だ]と書いてあります。 お米は日本人の主食でこの食べ物を通して体の栄養と力と元気を項いています。

2000年前のイエス様の国ではパンが主食でした。同じ考えで「パンは力だ」と考えられていました。 この背景の中でイエス様はご聖体の秘跡のためにパンをお選びになりr最後の晩餐で」と言うのは

最初のごミサでパンをとり「これは私の体です。」と仰せになりました。

これは私自身ですと言う意味です。

 

現代のごミサの中でただのパンは聖変化の後神様の力のお陰でイエス様自身になられます。 このご聖体は私遠の人生の旅路の中で心の栄養になって霊的な力を与えてくださいます。

実は信仰の元気さのためご聖体は絶対に必要です。

私達はご聖体の申におられるイエス様を頂<ことで深い一致・親しい交わり・暖かい眼差しを 経験します・イエス様は人生の旅路の親しい同伴者となって素晴らしい支えになられます。

ご聖体を頂いた後の時間をよく使いイエス楳のみ前に自分の心の凡てをさらけ出し親しく話し 合いましよう。これは祈りです。

16世紀の折りの博士アビラの聚テレジアは次の様に奔きました。rイエスは―人々々に対して 深く暖かい友情を持っています。ですから友達同志の遠慮のない話し合いは祈りになります。」 折りの時イエス様のお望みは私の無防備な心ありのままの心です。逆にさまたげは自分のこころを 折りの前に着飾ることある時はイエス様に対する丁寧すぎる態度です。

イエス様は私達一人々々に今日生きている声で聖書を通して仰せられます。

私は貴方を友と呼ぷ 私にとどまりなさい。」 ヨハネ・15章

イエス様の祈りへの招きは次のようです。

「疲れた者・重荷を負う者はだれでも私の許にきなさい休ませてあげよう。」マタイ・11章

皆さん繰り返し申しますがご聖体を頂いた後は特別の祈りの時間を上手に使いましょう。

 

教会の習慣の中にご聖体訪問があります。ごミサ以外に聖堂に入りせいひつの中のイエス様と一緒 に過ごす習慣です。(赤いランプはイエス様がいらっしやるしるしです。)
友達イェス様への挨拶・相談・友情を味わう時間です。

勿論私達は聖体拝領・聖体訪問・以外でもイエス様と親しく話し合うことが出来ます。
例えば自分の家で静かな一時をつくる・電車の中で・散歩の中で・仕事の中で‥‥この親しい 話し合いの折りの材料は今自分の心の中のことです。 喜び・悩み・苦しみ・いつもありのまま 友達イエス様と話し合いましょう。

最後に聖体拝領の大切な点

私達共同体のみんなは同じイエス様を分かち合いますから深い一致があります。 その一致の源はイエス様ご白身です。聖パウロは次のように書きました。

「私達が裂くパンはキリストの体に与かる事です。パンは一つだから私達は大勢でもーつの体です。 皆が一つのパンを分けて食べるからです。」1コリント・1Q,章 17

その一致は日本の諺のように“同じ釜の飯を食う”ことです。
そのため私達が最後の晩餐のイエス様の心を持つことが大事だと思います。いわゆる(洗足)の こころなのです。

私達もイエス様と一緒に言いましょう。『私は仕えられるためではなく・仕えるために来た』
本当にご聖体を頂く私達は恵まれた者です。 “イエスの食卓に招かれた者は幸い”

堅信の準備のために次の個所を調べて祈りましょう。

  1. ヨハネ・15章 1~17
  2. ヨハネ・13章 1~15
  3. マタイ・11章 25~30
日, 06/03/2007 - 00:00

堅信④講話要旨 「ミサにあずかる心がけについて」

私達の社会の雰囲気は物質万能主義です、イエス様の価値観とはまったく逆です。 キリスト教信者にとってあるときは寂しい気持ちをもつでしょう。私達が信者としてその逆を歩む 勇気と励ましと力づけはやはりごミサとご聖体拝領なのです。

ごミサはいくつかの部分に分かれていていろいろな立場から説明することが出来ます。 最初のごミサは最後の晩餐でした。その時も今も二つの部分があります。 第一は聖書朗読です。第二は奉献の部分です。教会の教えは「聖書が教会で読まれる時はキリスト 自身が語るのであるj簡単に言えぱ聖書朗読を通してイエスご自身が私達に話しかけ天国から 人生の道に対して大事なメッセージを伝えてくださいます。

ある時はそのメッセージは慰めでありある時はチャレンジです。ごミサにあずかるときは敏感な 耳を持って聞く態度期待の心を持つようにしましょう。 例えぱ日曜日の朝起きて「今日はイエス様は私に何を言われるのでしょうか」良く聞いたら何かの 響きを感じると思います。その響きは神様からのメッセージです。人によって生活の状態に よって響きが違います。意義あるごミサに授かるためにそのような敏感な心の耳をつくりましょう 続いて奉献の部分を考えましょう。棒げる心はキイワードです。イエス様は私逮の救いのために 十字架の上でご自分の命をお捧げになりました。私達はごミサの中でイエス様と一致して 自分の毎日の生活日々の出来事を父なる神様のみ手に棒げます。
喜びも悩みも毎日の仕事もつまり自分のすべてを捧げます。

聖体拝領のとき人生の道を元気よく歩むためにイエス様ご自身が私達の心にお入りになります。 食べ物の形でのご聖体は心の力づけ心の栄養の意味です。聖体拝領後友達であるイエスさまと 親しく話し合いましょう。最後の点ですが私達は聖書朗読を聞くことも自分を捧げることも全部 兄弟姉妹として一緒にします。この一致の心を持つならごミサは励ましとカになると思います。

このようにごミサにあずかって自分の家に帰って自分の小さな社会に再ぴ入って 主の乎和を分かち合いましょう。

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. マタイ書(26:26-29)
  2. ヨハネ書(13:1-15)
  3. ヨハネ書(15:1-17)

日, 05/27/2007 - 00:00

堅信③講話要旨 「慰め助け主である聖霊」

皆さんは自分の才能、自分のファイト、自分の努力を一生懸命つくして、それぞれ自分の人生の道を歩んでいるでしょう。しかし、自分の身体や精神に疲れがでると思います。皆さんは自分の力だけで、この人生の道を歩むことはできません。
特に信仰の道を自分の力だけで歩むことは不可能です。イエス様の教えられた道を歩むための第一歩は、自分ができないこと、自分の弱さを認めることです。 それを正直に認めることは信仰生活のために絶対必要で、神様からの手助けが必要なのです。一般の人生の旅路のためにも、また、もちろん信仰生活の道でも、 神様と一緒に人生を歩むことによって、本当の安らぎ、平和、安心、喜び、生きがいを与えられます。
優しい神様は、喜んで私たちが弱さを認めたことに答えて、その助け、慰めを豊かにお与えくださいます。結局、神様は慰め主、助け主である聖霊を送ってく ださるのです。堅信の秘跡というのは、この助け主である聖霊を受ける秘跡です。ですから、堅信の秘跡を受ける準備として、自分の人間的なみじめさ、自分の 力だけではこの人生の道を歩めないことを正直に認めましょう。したがって、「助け主である聖霊よ来てください」と心から祈りましょう。「聖霊への祈り」は 9世紀からの長い伝統があります。ゆっくり、噛みしめて祈りましょう。
そして、堅信の準備のために次の聖書の個所を調ぺて祈りましょう。
ルカ11章9-13
ローマの信徒への手紙8章15-17 26-27
ガラテヤの層徒への手紙5章16-26
使徒言行録2章1-4

聖霊への祈り
聖霊、来てください。
あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証のカを注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、
ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむときの励まし、暑さのやすらぎ、
うれいのときの慰め。
恵みあふれる光、信じる者の心を満たす光。
あなたの助けがなけれぱ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、かわきをうるおし、
受けた痛手をいやす方。
かたい心をやわらげ、冷たさを暖め、
乱れた心をただす方。
あなたのことばを信じて、
より頼む者に尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え。
恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

日, 05/20/2007 - 00:00

堅信②講話要旨 「父なる神様」

30年前に、私は聖地を巡礼しました。エリコで私は一つの経験をしました。そこの近所の子供は発掘の現場の丘にのぼって、上からお父さんを呼びました。 使った言葉は「アッバ、アッバ」でした。お父さんは、丘の上の子供を見て、微笑み、はげましました。また、子供は急にすべり台からおりてくるように、降り てきて「アッバ、アッバ」 ともう一度呼んで、お父さんの腕にとびついて、抱かれました。本当に楽しい媛かい雰囲気の場面でした。  イエス様は2千年前に同じ「アッバ」とい呼ぴ方 をつかいました。というのは、イエスは「アッバ」父である神様について何回も何回も次のように教えられました。

私たちの神様は罰する方、厳しい方、恐ろしい方、ではないかえってやさしいお父さんである神様です。したがって、私たちは愛された子供 です。イエス様はそのやさしい教えのために、その時代の小さい子供の言葉「アッバ」を使いました。(現在の「パパ」と同じ使い方)非常に親しい暖かい言葉 です。イエス様のこの言葉の使い方の裏には、大事な教えの意味が含まれています。というのは、私たちを弱い子供としてうけ入れて下さる神様は非常にやさし い方、そして私たちを大事にLてくださる方、いつも私たちを深く愛する子供としてやさしく見守って下さる方です。

したがって、そのようなやさしい「アッパ」、神様に対する私たちの答えは、やはり信頼です。イエス様の時代の大勢の人々にとっては神様 は罰する神、厳しい神、恐ろしい神でした。人間は恐れを持って、厳しい掟を守りました。神様は冷たい逮い方だと思っていました。厳しい尊敬だけを当時の人 々は持っていました。

皆さん、私たちはイエス様のやさしい教えを受け入れたでしょうか。まだ、旧約時代の信者でしょうか。神様は「アッバ」父だ、これはイエ ス様の慰めの訪れ、喜ばしいしらせです。この教えは私たちへの大きな慰めであると同時に、大きなチャレンジをも求めます。そのチャレンジは神様のやさしさ に信頼することなのです。堅信を受けることとはこのチャレンジに答えることです。

★「慈しみ深い神よ、あなたの御手にわたしのすべてを委ねます。」★

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. イザヤ書(43:1-5)   私たちを造られた主、神は今、こう言われる。   恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。私はあなたの名前を呼ぷ。私は主、あなたの神、あなたの救い主。わたしの目にあなたは価い高く、貴く、私は貴方を愛している。恐れるな、私は貫方とともにいる。
  2. ローマ書(8:15)  聖霊によって、私たちは「アッバ」父よと呼ぶのです。この聖霊こそは、父なる神の子供であることを私たちに悟らせて下さいます。
  3. マルコ書(14:36) イエス様の苦しみの時の祈りです。「アッバ」父よ、貴方は何でもお出来になります。この苦しみを私から取りさって下さい。しかし、私がねがうことではなく、御心にかなうことが行われますように、
  4. イザヤ書(66:13)  神はこう言われる。「母がその子を慰めるように、私はあなた達を慰める。」
  5. ルカ書(15:11-24) やさしいお父さんと放蕩息子のたとえ話。
日, 05/13/2007 - 00:00

堅信①講話要旨  「イエス様は私の主である」

”イエスは私の主である。”これは初代教会の最初の信仰宣言で、今も私たちの信仰の一番根本的なものです。.その意味はさきに聖書を通して読むことにより、イエスをだんだんと知ることです。イエスを知ることとイエスと出会うことは同じ意味です。
そのようにイエスと親しくなっていき、したがって私はこのイエスと一緒に自分の人生を歩みたいときめます。そしてイエスに向かって私はあなたの弟子です。,(イエスは私の主であるといった意味と同じ意味です。)
もちろん、すべてを捨てて社会から逃げるという意味ではありません。本当の意味は私達の毎日の家庭生活の中に、家・学校・職場でもそのイエスの道をいれ ることです。堅信を受ける準備としてイエスともっともっと親しくなりましょう。”イエスは私の主である”という簡単な信仰宣言を良くあじわいましょう。
私達は自分の牲格によって、自分のイエスのイメージを描かなければなりません。もちろん、描くためのの材料は聖書です。私(ケンズ神父)の好きな箇所はこれです。

 

①ザアカイ(ルカ19:1-10)
イエスに出会いたい気持ちがありました。
②ナインのやもめ(ルカ7:11-17)
イエス様は悲しみに沈んだお母さんとの共感です。
③ペトロは湖に沈みかけたのを見て、イエスが助けの手を伸ばします。.(マタイ14:22-33)
イエスは薄い信仰のペトロをありのままにうけいれて下さいます。
④イエスはゲッセマネで祈る。(マルコ14:32-_52)
⑤イエスはマリアという名前をお呼びになります。(ヨハネ20:11-18)
⑥疲れたもの重荷をおったもの、私のもとにきなさい。休ませてあげよう。親しい話し合いのやさしいお招きです。(マタイ11:28)


聖書のイエスの心と今のイエスの心はまったく、同じです。
皆さん、自分の性格によって自分のイエスを描きましょう.そのイエスに心を開いて、すべてをゆだねその道を歩みましょう。

日, 04/29/2007 - 00:00

ケンズ神父様から、「あなたの召命の話をして下さい」と依頼されましたので、今日は神父様のお説教の代わりに、私が自分自身の召命の道のりについて、少しお話させていただきます。  私は1980年に東京の本郷で生まれました。家族は、母方の相母を除いてみなカトリックの洗礼を受けており、私も生まれて約半年後に、カトリック本郷教会で洗礼を受けました。洗礼名は、アッシジのフランシスコです。その後、私が1歳になる前に神奈川県藤沢市に家族が引っ越してしまいましたので、本郷の家のことも、本郷教会のことも記憶にありません。

教会についての一番古い記憶は、父に連れられて藤沢教会の日曜日の御ミサに参加したことです。多分、幼稚園に入るか入らないかぐらいの頃だったと思います。当時の藤沢教会ではコロンバン会の神父様たちが司牧をなさっていました。一際強く印象に残っているのは、そのころの主任司祭の祭服姿です。緑色のカズラを着て颯爽と御ミサを献げられるその神父様の姿を見て、子供心に「かっこいいなあ」と思ったのをよく覚えています。また、ちょうど同じ頃、確か母親から、「神父様は、結婚しないでみんなのために働いておられるのよ」と言われ、「すごいな〜」と思ったことも記憶に残っています。

今から振り返ると、司祭召命の道を歩きたいと思うようになった原点は、このような司祭への単純な憧れだったのだと思います。

さて、私は、幼稚園と小学校はプロテスタント、中高はカトリックの学校に通いました。特に幼稚園と小学校では、礼拝、聖書の話、お祈りなどが割と日常的にあったように思います。クリスマスには、聖劇などもあって、今でもいい思い出です。

藤沢教会には教会学校に行っていたこともあって、小学校に入ってから4年生が終わる頃までは、ほとんど毎週行っていたと思います。教会学校で何をしていたかはよく覚えていませんが、一つだけ良く覚えていることがあります。

今でもそうかもしれませんが、日曜日の午前中は、子供向けのテレビ番組が多く、小学校でも友達の間でしばしばその話題がでました。ところが、私は教会学校とミサのために日曜日の朝は、教会に行っていたので、見ることが出来ず話題にもついていけませんでした。

ですから、私としては少なくとも教会学校が終わったらミサに出ずに家に帰りたかったのです。それで、あるリーダーに「ミサに出なくていい?」と毎週のように聞いていました。そのリーダーは、私の問いかけに対して、「だめ!」とか「出なさい!」などの厳しい言葉は一言も言いませんでした。そのかわり首を縦に振ったことも一度もありませんでした。今ではそのリーダーに対してとても感謝しています。

小学校5年生から中学受験のために塾に通うことになり、教会には一月か二月に一度、日曜日の夜のミサに、侍者をするために行くだけになりました。中学に入ってからは、他の教会のサマーキャンプなどには参加していましたが、藤沢教会との縁は、たまに侍者をするだけになっていました。

そんな私が、また教会に通うようになったのは、ある神父様との出会いがきっかけでした。その神父様は、私の高校の物理の先生でもあった方なのですが、私が高校一年の時に私の学年の担当司祭になられ、あるときカトリック信者の学生を一人ひとり研究室にお呼びになったのです。

私の番になり、少し緊張しながら理科研究室に入っていきました。神父様は、私に色々と質問なさいましたが、その中の一つが「君はどのくらい教会に行っていますか?」というものでした。私は正直に、「一月か二月に一度、侍者をしに行きます」と答えました。すると、神父様は口を開きこう言われました。

「君ねえ、信者が毎週教会に行くのは当然のことなんです!」。

今思い出してみても、なぜ私がその言葉に心を動かされたのか説明は出来ません。神父様の確信に満ちた言い方に何かを感じたのでしょうが、よくわかりません。とにかくそのことをきっかけにして、私はほとんど毎週日曜日、藤沢教会でのミサに行くようになりました。

その後、高校三年生の時、侍者会のリーダーをして欲しいと頼まれて、引き受けました。それ以来、侍者会の関係で、神父様たちや教会の大人の信者さん達とも接するようになりました。その後大学受験に失敗し一浪しました。浪人時代は、塾に行かずさびしかったこともあって、教会で人に会うのが楽しみで、日曜日には何度も侍者をやったりしていました。大学に入ってからは、中高生会のリーダーも兼ねることになり、藤沢教会での活動はますます私の生活の中で大きな部分を占めるようになりました。

それ以前には漠然とした憧れでしかなかった司祭召命を、自分の問題として具体的に考え始めたのは、このころです。きっかけを一つに絞ることは難しいですが、まず思い出すのは、この時期に何人もの魅力的な神父様方と出会う機会をいただいたことです。

その中で特に印象深いのは、当時私が通っていた大学の隣の教会にいらした神父様との出会いです。藤沢教会で紹介していただいた後、連絡がつかないでいたのですが、偶然大学の講義室で再会したのです。それ以降、大学の講義の合間などによくその教会に遊びに行くようになり、色々な行事にも参加するようになりました。それ以外にも、その神父様には挙げればきりがないほど本当によくしていただきましたし、私が神学校を受験するかどうか迷っているときもずっと励まし続けていただきました。

もう一つ、司祭職を考え始めた原因としては、藤沢教会共同体の存在があります。今でもそうですが、共同体のみなさんのおかげで、藤沢教会は私にとって、とても良い居場所です。そのような教会の雰囲気の中で、いつからか「教会という場所で働きたい」「育ててくださった藤沢教会のみなさんに恩返しできるような道に進みたい」と思うようになったのです。

そうかといって、「司祭になるぞ!」というような力強い決意があったわけではありません。大学4年になっても「司祭職に魅カは感じるし、他になりたいものがあるわけではないけれど、こんな消極的な動機で神学校を受験していいのかな〜」と思っていました。そんなとき、当時よく相談に行っていた神父様(この方は、先ほど登場した神父様方とはまた別の方ですが)、その方が「僕は、特に否定的な理由がなければ、神学校に入ってもいいと思うよ」とおっしゃって下さったのです。それで私も「ならいいか、もし神様に呼ばれていないなら、いずれ必ずそうだとわかるはずだし、もしそうなったら、そのときにまた他の道を探せばいいや」と開き直って神学校の受験を決めたのです。

あれから、もう3年半がたちます。神学校でのカリキュラムも半分が終わりました。1年目、2年目はかなり気持ちが揺れ、神学校を辞めるということが、頭をかすめたことも何度かありました。3年目になると気持ちもだいぶ落ち着いてきて、今に至るまで神学生を続けています。

今までお話した以外にも、本当に多くの方に支えていただき、そのおかげでこれまで歩んでくることができました。素晴らしい出会いをたくさん用意してくださった神様と、出会った方々お1人お1人に心から感謝しています。また、特に祈りと援助によって支えて下さっている皆様、とりわけ一粒会の皆様には感謝しております。

この先、私の召命がどのように進んでいくかは、神様しかご存じないことですが、私自身は、これからも司祭召命の道を歩み続けて行きたいと思います。どうぞお祈り下さい。

日, 04/22/2007 - 00:00

イエスが最初の教会のリーダーとして選んだペトロは、福音書において生き生きと 描かれています。ペトロは力量がある男でしたが、その欠点も描かれています。 彼は一貫して衝動的に行動しがちでした。 そしてよく考えずに、間違ったことを 行ったりしゃべったりすることがしばしばありました。ペトロは明らかに良く 知っているイエスを「知らない」と言ったり彼の弟子ではないなどと、 3回もイエスを否定しました。

今日の福音(ヨハネ21:1−19)は、 復活されたイエスが再びペトロに会う 情景です。ペトロの3回の否定にあわせて、イエスはペトロに3回「ペトロ、 私を愛しますか?」と尋ねました。これは放蕩息子の寓話を、自ら実際の行為で 示したものです。

この情景は現代に生きる私達にどのような意味を持っているのでしょうか? ここでは、私達を自由にしてくれる、日常にかかわる重要な真実が語られています。

(1)神は私達一人ひとりの意志の弱さをご存知で、そのうえでなお私達を 愛してくださいます。優しい神さまのこの無条件の愛は、慰めと励ましに 満ちたキリストの道の真実なのです。この、神様からこんなにも受け入れられている ということを、あなたは受け入れることができますか?

(2)このペトロの情景は、もし人が心底悔いたならば、神はまったく、完全に、 その罪を許してくれることを示しています。その段階で罪は完全に消え失せます。 それゆえ、キリストの道には不健全で悩み深い罪悪感はありません。あるのは、 ゆるしに対する感謝の気持ちのみです。

(3)イエスはこの今も生きた声であなた自身に、あなたの名前を呼んで語りかけます。 「OOOO、あなたは私を愛しますか?」 この非常に重要な問いに答える前に、 イエスが私達に与える無条件の愛の背景について考えなければなりません。 その、とてつもなく大きな愛を前提にすることができて初めて、私達はイエスの問いに 答えることができるのです。「OOOO、あなたは私を愛しますか?」

静かな祈りの中で、神であるイエスが私達一人ひとりに与えてくださる無条件の 愛について考えてみましょう。そして神様の重要な質問に答えられるよう祈りましょう。 イエスは私達に完璧を求めているのではなく、答えを聞きたがっておられるのです。

日, 04/15/2007 - 00:00

天に昇られたイエスは今日も「永遠の現在形」で、聖書を通して私達に語りかけてく ださいます。「あなたに平和あれ」、と。

今日は「神の慈しみの主日」と言われる主日です。この意味は、イエスが実際に行っ た数々の行いをみれば、簡単に理解することができます。そのようなイエスの優しさ と包容力を示す例を見てみましょう。

聖トマスは双子でした。彼はイエスの12人の弟子のうちの一人でしたが、初めてイ エスが復活され姿を現したときには、他の弟子たちとは一緒ではありませんでした。 何故その場に居なかったのか、真相は謎で、私達は想像することしかできません。ト マスはユダヤ人の国を創ることに大きな望みをかけていました。イエスの十字架上の 死はその望みを打ち砕き、失望の中で他の弟子たちと一緒にいたくなかったのではな いでしょうか。そうだとすればそれは人間としてとても普通な反応です。トマスが他 の弟子たちのところへ戻ってきた時に、彼は頑固にイエスの復活を信じることを拒み ました。「イエスの傷口に実際に触ってみるまでは、私は信じない。」と彼は言った のです。彼は疑いを持っていたのです。

ニューマン司教は「疑いの無い信仰は死んだ信仰です。」と言っています。私達のほ とんどは信仰に疑いを持ったことがあり、しかしこれらの疑いそのものが私達の信仰 が実際のところ何であるのか深く熟考させるものなのです。そして信仰は「生きた」 ものとなっていくのです。疑いは信仰生活にとって良いものなのです。

よく覚えておきましょう。今度はトマスが皆と居る時にイエスが現れました。イエス は、自分を信じなかったトマスを叱ったりはしませんでした。イエスはトマスを、ト マスの不信心そのものも含めて、あるがままのトマスを受け入れてくださったので す。

これこそが、「神の慈しみ」です。イエスは、私達が想像できないほど優しく、憐れ み深く、思慮深く、同情的でいてくださるのです。イエスは慈しみなのです。

今週、天に昇られたイエスのことを静かに考える時間、イエスを自分の近くに感じる 時間を持ちましょう。(イエスについて疑いをもっていても、心配することはありま せん。)そして、イエスの慈しみ深い優しさを感じてみてください。イエスにあなた の心を捧げ、あなたの心配事をぶつけてみましょう。彼はトマスにそうであったよう に、あなたにもとても憐れみ深く優しいのです。あなたもイエスの平和を味わうよう になるでしょう。

「キリストの平和があなたと共にありますように」

日, 04/08/2007 - 00:00

「復活」。 この言葉の意味を辞書でしらべてみることはできます。いろいろ書いてあり、頭ではなんとなくわかる気がしても、心には全く響きません。

私にとって、イエスの復活とは、イエスがこの今も生きていてこの今も私のすぐ傍らにいてくださる、ということです。またこれは、福音にかいてあるイエスの言葉は2千年前のできごとではなく、この今も私に実際に作用していることなのです。

イエスは、この今も、私達ひとり一人につぎのように語りかけています。

「恐れるな、私はあなたと共にいる」、
「疲れた者、重荷を担っているいる者、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、
「あなたが弱くなっているときに、私はあなたに力を与える」、
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」、

これらは私が人生の道のりを歩むのに力となっているイエスの言葉の一例です。

そして、何度も繰り返しますが、これらは今日も生きている言葉、ご自身が復活し私達の間にいきていることにより裏打ちされた生きているものなのです。これが私にとってのご復活です。

ご復活について、わたしは二人の日本の作家に理解を助けられました。遠藤周作は「イエスの生涯」の中でイエスを「同伴者」と幾度も表現しました。これはイエスは私達と人生を共に歩んでくださり、喜びも悲しみも失望も、ともに担ってくださるのです。私達は決して一人ぼっちではありません。わたしにとっては、これこそがご復活の核心的な意味と思っています。もう一人は、ノーベル賞受賞作家の大江健三郎です。大江は日本社会は現在危機、希望の無い社会になりつつあるという危機、を迎えていると言っています。私達は物質的なニーズに追い回され、本当は一番大事な心のニーズを忘れてしまっているのではないでしょうか。わたしにとって、イエスのご復活は私の希望の土台となっています。

どうか皆様が、イエス様を人生の同伴者とし、それにより慰めと希望を得て教会へいらっしゃるようお祈りしています。ご復活おめでとうございます。


復活のロウソク

【復活のロウソク】
復活したキリストを光に例えています。
ロウソクに書かれているA(アルファ)とΩ(オメガ)は、ギリシア語で初めと終わりという意味があります。
また、十字架の香粒は、キリストの5つの傷を表しています。
今年も復活のロウソクに光がともりました。
そして2000年の時を経た今も「わたしは復活し、あなたと共にいる」と。

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日, 04/01/2007 - 00:00

今日の日曜日は、枝の主日と受難の主日という二つの名前を持っています。枝を持っての行列と祝福は、イエスが神であるという意味でのイエスの王権を示しています。一方、受難はイエスが私達人間とともに、人間として苦しんだことを示しています。イエスは100%神であるとともに、100%人間でもありました。この神秘をバランス良く理解することは重要なことです。

本日のルカによるイエスの受難 (ルカ23:1−49)では、イエスが無罪であったことが強調されています。ローマ総督ピラトとユダヤ王ヘロデにより、「良い盗人」により、そして百人隊長により、それぞれイエスは無罪であったとされています。

罪が無いにもかかわらず、私達を救い私達の間に平和をもたらすために、わが身を惜しみなく捧げられました。ガラテヤ人への手紙(ガラテヤ:2:20)でパウロは「 神の御子は、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた」と言っています。このように、イエスのご受難は私達一人ひとりに、現在も関わってくるものなのです。

遠藤周作はこれを次のように説明しています。「神の愛を実際に示すために、イエスご自身が最も恐ろしい形で死と出会わなければならなかった。イエスは私達に向き合いこう言うのです。「御覧なさい。私はあなたと同じ側にいるのです。あなたと同じような苦しみを受けました。私自身が自分のこととして経験しましたので、あなたの惨めさを私は充分理解します。」と。

ヘブライ人への手紙(ヘブル4:15−16)の中でも「イエスはわたしたちの弱さを思いやってくださる。すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だからわたしたちは、あわれみを受け、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるため、恵みの御座に近づこうではないか!」と書かれているのです。

あなたは助けを必要としていますか? 祈りの中で、イエスが受けた苦しみを想いおこしてみましょう。そして信頼をもってイエスに近づいていきましょう。

イエスの苦しみは私達に慰めを与え、イエスの復活は私達に希望を与えてくれます。

日, 03/25/2007 - 00:00

四旬節第三、第四、そして第五主日の福音にはとても特別なメッセージがこめられています。これら3つの福音に共通していることは、あるがままの私達を神が愛してくださるという、根本的な真実であり、私達の心を解放してくれるものです。神は私達がいかに弱いことをよく知っておられ、それゆえ非常に忍耐強く私達に接してくださいます。

この3つの福音は、(1)実りの無いイチジクの木のたとえ話(「どうか切り倒さないでください、わたしが心をこめて世話をしていきますから」と庭師は頼みました)、(2)放蕩息子の帰還を待ち続け、外へ駆け出して出迎えた極めて愛情深い父親のたとえ話、そして本日の(3)イエスがこれらの教えを実行でしめした出来事です。不貞罪を犯した女性に、冷酷で非寛容なファリサイ人達は「石打の刑だ」と決めつけてしまいました。しかしイエスが「罪を犯したことの無い人が最初の石を投げよ」と言ったところ、集まった群衆は徐々にいなくなってしまいました。

私は個人的に、「Good News Bible」という本の挿絵(スイス人画家:アニー・バロトン作)が気に入っています。今日の福音の部分では、イエスが考え事をしながら地面にとりとめもなく落書きをしている様子が、極めて人間的に描かれています。次の絵はイエスが、この気の毒な女性を正面から見つめている絵です。イエスは、(同じように)木に登ってイエスを見ようとしたザアカイの顔もみつめました。そして、イエスの、(ザアカイの苦労・問題を瞬時に理解した)優しい顔が、ザアカイのその後の人生を変えたのです。同じように、イエスは三度もイエスを否定したペトロの顔を優しく見ました。そのイエスの同情的な顔は、その後のペテロの人生を、絶望から希望へと変えたのです。同じイエスの温顔が、今日の福音の女性の人生を変えたのです。

このイエスの優しい顔、というのは、単に2,000年前の出来事ではありません。この現在もイエスは、同じ優しい同情にあふれる顔を、あなたや私に向けてくださっているのです。ですから私達は「この優しさと憐れみの冠に、私達を自信を持って近づかせてください」(ヘブライ人への手紙)と祈るのです。このような意味をふまえ、一緒に祈りましょう。

”あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます。み顔をわたしに隠さないでください。」”(詩編:28−8)

日, 03/18/2007 - 00:00

「神は愛である」私達がしばしば耳にする一節です。しかしこの真実を実際に心の奥底まで染み通らせましょう。今日、イエスは有名な「放蕩息子のたとえ話」をされました。実際のところ、この話は、極めて寛大・寛容な父親の話であります。私たちはこの話をすでに知ってはいますが、今週は、神はあるがままの私達を愛してくださるというメッセージをもう一度熟考してみましょう。

この話には三人の登場人物が出てきます。

  1. 次男:彼の放蕩よりも、父親の包容力・無条件の愛が勝っていたということに注目しましょう。
  2. 長男:彼は冷淡で非寛容で、父親に愛されて当然と考えていました。この点において彼も父親を侮辱していたのです。
  3. 父親:この二人の息子の父親は、息子二人とも愛していました。

次男は父親を侮辱し家を飛び出し、家出の際に与えられたお金を浪費してしまいました。これにもかかわらず、彼の父親は家から出て道の向こうから次男が帰ってきるのを見つめて待っていました。そして次男を見つけると走り出て彼を抱擁したのです、「我が家へおかえり!」と言って。

父親のこのような寛大さに長男は憤慨してしまいました。次男には許しよりも、まず罰が与えられるべきだと考えていたからです。憤慨した長男は父親が待つ家に入ろうともしませんでした。しかし、この愛情深い父親は長男に会うために家から出てきたのです。

ある日本人は私に、「実際、この世のどんな父親だって、こんなに寛容な人はいませんよ。」と言いました。それは、そうです。

しかし私達の父である神は、私達一人ひとりに対して、こんなにも優しく、あわれみ深く接してくださるのです。

今週、静かな時間を少なくとも5分は持ち、「神の抱擁」を感じてみましょう。神は私達のあるがままを受け入れてくださいます。

私達は神の愛に包まれているのです。

この深遠な事実を体感することで、私達の日常の暮らしは、すばらしく味わいのあるものになっていくのです。

日, 03/11/2007 - 00:00

あなたの日常の暮らしに、特別な味わいを持たせたいと思いませんか?

もしそうなら、ちょっとだけ神様のために時間をさき、お祈りしてみましょう。しかしその前に、その神様とは何なのでしょうか?

今日の第一朗読(出エジプト:3:1-15)を読むと神がどのようなものであるか、おぼろげにわかります。モーセと同様に、神は私たちに対しても、触れ合いたいと望まれています。神は私たち一人ひとりを個人名でお呼びになります(イザヤ43:1)。神はエジプトで捕らわれていた人々の嘆きの声を聞き入れたように、私たちの助けを求める声を聞いてくださいます。まったく、「神は慈愛に満ち、怒るに遅く、慈しみ深い」(詩篇103)のです。神は私たちを、暖かく、愛に満ちた関係へといざないます。ただ、その関係は尊敬によって調和がとれているもので、比喩的にはモーゼが靴を脱いだように、私たちもそのような態度をとるのです。聖書に基づいた正しい神のイメージを持つことによって、私たちは日々の生活と祈りをより味わい深いものにすることができます。イエスは「愛に満ち溢れた神」の自画像です。私たちはイエスを見ることにより神に出会えます。

福音において、イエスは「人々を罰する神」という教えに激しく反対します。神はそのようにお働きになりません。しかし迷信はしばしば知らぬ間に広がり、私たちはそのように考えがちです。ガリラヤ人と塔の下で倒れた人々は、罪深いからといって死ぬことはありませんでした。神は罪びとを愛し、彼らが再スタートを切れるよう、招きます。

三年も実をつけなかったイチジクの木を、持ち主は「切り倒してしまえ。」と言いました。庭師は「いえ、もう一年待ちましょう。わたしが特別にこの木を世話します。」と言いました。このたとえ話の意味は、「今、新しいスタートを切りましょう。延期はできません、なぜならば私たちの時間は限られているからです。」ということです。

真剣に祈りをするのに私たちの時間は限られています。 今すぐ、始めましょう!

誰かを許すのに私たちの時間は限られています。 今すぐ、始めましょう!

良い親(あるいは子供)になるには私たちの時間は限られています。 今すぐ、始めましょう!

人に優しく、思慮深く振舞うには、私たちの時間は限られています。 今日から始めましょう!

最後に、これらを行うにあたり、神の力の助けが絶対に必要なことを忘れてはなりません。お祈りをし、神の助けを求めましょう。自己流で行う再スタートはうまくいきません。

日, 03/04/2007 - 00:00

聖書は二つの部分、旧約聖書と新約聖書からなります。

聖書(テスタメント)は双方向の約束(または契約)を意味する言葉です。ですから、全ての聖書を通じて、この約束はもっとも重要な主題となっています。神ご自身が人間に対して厳粛な約束を行い、私たちも同じ約束を神に対して行うのです。

今日の第一朗読(創世記5-18)では、神はアブラハムに対して厳粛な約束を行っています。それは3,500年前の出来事でした。しかし神は、その厳粛な約束を今日の私たち一人ひとりに対して行っています。神の約束は「あなたは私の特別に選ばれた子供です。私はあなたとともに常にいます。私は常にあなたの面倒をみます。」というものです。

キリスト教徒である私たちは、教会で洗礼を受けることで、神がこの約束を正式かつ公けになさったことを信じます。

神の約束は永遠のもので、また無条件のものです。これは、もし私たちが神を忘れたり、さらには神を拒絶・否定したとしても、神は私たちを忘れたり気にかけるのをやめるということはない、ということです。

神が自分たちを気にかけてくださるという神への絶対的な信頼のもと、アブラハムはハランにある家を捨てて、彼がどこへいくのかも知らず、見知らぬ砂漠へ旅立ちました。彼は神が彼の面倒を見てくださるという約束だけを知っていたのです。アブラハムにはそれだけで十分でした。「わが主よ、わたしはあなたを信じます。」これがアブラハムの神への約束でした。アブラハムは私たちの手本、あるいは聖書がいうように、「アブラハムは私たちの信仰の父」でした。

今日、自分自身にこのように言ってみましょう。

「神ご自身が、とるに足りない私に約束をしてくださった。」

何度もこのことを考え、祈りましょう。これにより新しい元気が生まれ、また私たちの日常の生活に新鮮な意味を見い出せるはずです。

神を信頼しましょう。神はかならず約束を果たしてくださいます。

日, 02/25/2007 - 00:00

復活祭の準備である四旬節が始まりました。四旬節は、私達の生き方の基本を見つめなおす、「心の棚卸し」の時でもあります。今日の聖書は、そのような私達に指針を与えてくれます。

第一朗読(申命記26・4−10)では、私達は追憶の祈りの例をみることができます。この祈りのように、私達も両親や祖父母、祖先を思い出してみましょう。またあなた自身の良かった時、苦しかった時を思い出してみましょう。これらの出来事や人々を、神とともに思い出してみるのです。こうすることでこれらの出来事や人々について、新しい見方ができるのです! 私達は神を発見し、「神の強力な助けの手が、私達に長く差しのべられる」ように、私達の実際の暮らしに実際に作用するのがわかるようになるのです。  第二朗読(ローマ10・8−13)では初代教会のもっとも基本的な信仰箇条、イエスは我が主である、に触れています。主は常に私達を気にかけてくださっているということを常に思い出し、すべてを主の御手にゆだねましょう。  福音(ルカ4・1−13)では、イエスが荒れ野に行き、物質的な物への誘惑、権力を行使する誘惑、自分の力を誇示する誘惑という、人間の三つの誘惑に打ち勝つ様子が描かれています。私達も、精神的に、荒れ野へ行く必要があります。そこでは世俗的な雑音、利便、娯楽がないゆえに、神と直接出会うことができるのです。私達は内側にある自分自身と対面し、実際の自分がどんなにみじめであるか実感します。言い換えれば、私達はそこでしみじみと神と神からの助けが必要だと実感するのです。

灰の水曜日に私達の額は灰で印をつけられ、「回心し、良い知らせを信じなさい。」と言われます。  回心は日本語では、回る心、と書かれます。また、「良い知らせ」とは、神はあるがままの私達を愛してくださる、ということです。  ですから、自分自身について新しい見方をするようにし、心の向きを変えて、新しいスタートを切りましょう。そして神が私達ひとりひとりを愛してくださるということを信じるのです。

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日, 02/18/2007 - 00:00

「汝ノ敵ヲ愛セヨ、汝ヲ憎ム者ニ寛大デアレ」 「汝ヲ罵ル者、汝ヲシイタゲル者ノ為ニ祈リナサイ」と言われたら、正直どうでしょう?

「そんなこと絶対に無理です!」とおっしゃるでしょう?、そう、そのとおりです。 人間はそれぞれ異なっているので、人との仲たがい、ちょっとした衝突は、世の常です。
しかし、イエスはそれを許すように命じています。「そんなこと、無理です」と、 またあなたはおっしゃるでしょう。私達は他人の(心ない)言動によってしばしば傷つき、 その相手に対して憤りや強い不満を持ちます。私達はそんな憤り・不満を押し殺したり、 忘れようと努力することはできますが、怒りのあまり眠れなくなったり、 ノイローゼ気味になるほどストレスを感じるようになると、 これら押し殺していた心の傷が表面に出てきます。これらはあたかも癌が表面に出ず、 内面を食い荒らしているようなものです。これらについて、 私達が対処すべき方法があります。 これらは、必ず、祈りの心を持って行わなければなりません。 (これらは、単なる心理療法的な療法ではありません。)

  1. まず、神様に自分が現在どうしようもない状況であることを認め、 神様に助けを求めましょう。
  2. 神様の温かい配慮のもと、あなたの心の傷口と向かい合いましょう。
  3. 神様に助けを求め、祈りつつ、あなたを傷つけた人の心に入っていきましょう。 その人の生い立ち、人格、その人の持つストレス、考え方等など。 人の心の働きはとても複雑です。他人を理解することなしに、 他人を許すことはできません。無理にその人を無罪潔白に仕立てなくても良いのです。 ただ、そのような人もいるのだと理解しようとしましょう。
  4. 一方、祈りながら神があなたを幾度となく許し、理解し、 受け入れてくださったかを思い出しましょう。過去、何度も、何度も、何度も、 あなたは神に許されているのです。
  5. また、祈りながら、十字架に釘で打たれて磔刑となったイエスを想いうかべて 見ましょう。兵士が手を十字架に釘で打ちつけている時に、 指導者たちは皆イエスをあざ笑っていました。 (それはあたかも現在の「いじめ」のようなものです。) イエスは「父よ、彼らを許してやってください。 彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです。」と祈ったのです。

もしあなたが、「わたしはあの人を許したい」と思えるような心境に至った時、 あなたは平和へ向かい始めたということになります。その時は、 またゆっくりと聖書を読み、自分だけでは対処できないことを認めつつ、 神の助けを請いましょう。神の助けは必ずきます。神はとても寛大なのです。

日, 02/11/2007 - 00:00

日, 02/04/2007 - 00:00

聖書の大部分がそうであるように、今日朗読された聖書にも二層構造の意味があります。表層の意味では、歴史的な出来事の叙述にすぎませんが、深層の意味は現代に生きる私達に直接かかわるものがあります。どうかルカ5:1−11をもう一度読んでみてください。
神は、漁網を洗っている(乏しい漁獲を悲しみながら、あきらめている)現代の私達に直接働きかけてくださいます。神は不思議なやりかたで私達に働きかけ、その目的は私達の人間として、キリスト教徒としての成長、我々自身のためになっています。
あなたはかつて(あるいは現在)気持ちが深刻に落ち込んでいたことがありますか?妻として夫として、親として友人として、職場で学校で、(わたしにとっては神父として)、そのような苦境があったでしょうか?このような困難の淵に沈んだ時こそイエスは私達に呼びかけてくださるのです。
「沖に漕ぎ出し、網を投げよ。」と。これはすなわち、「勇気を出して新しい一歩を踏み出しなさい。新しいスタートを切るのです。」ということなのです。
イエスから与えられるこのチャレンジ(挑戦すべき課題)は、友人の口から届けられるかもしれませんし、経験から発するかもしれませんし、あるいは本やテレビから来るかもしれません。この「漕ぎ出でよ。(すなわち、再出発せよ。)」というチャレンジは、失敗、拒絶、病気あるいは愛するものの喪失など救いようのない絶望の中でやってくるものなのでしょう。この神からのチャレンジは、さまざまな人々に、さまざまな形で、しかし確かに与えられます。この神からのメッセージに耳を澄ましていましょう。
チャレンジにどう応じていこうかと考えると、私達の足はすくんでしまいます。えてして私達は言い訳をしてしまいます。「私は一晩中漁をしていましたが、何も獲れませんでした。」あるいは「神様、私を放っておいてください。私は罪びとです。」というものは、まさにこれにあたります。 
再出発の極めて重要な第一歩を踏み出すには、人間の持つ勇気などはとてもちっぽけなものです。その一方、神からのチャレンジを無視する言い訳づくりには、人間はとてもたけているものです。逃げることは、私達は得意なのです。
しかし私達が祈りの中で我々自身を鎮め、落ち着いて神の声に耳を澄ませば、生きている声として聞こえてくるものがあります。「恐れるな、私はあなたと共にいる。共に、沖へ漕ぎ出よう!」 この時です、私達が再び私達の人生を始めることができるのは。暗闇に苦しむ家族・友人に光を与える、この聖書の箇所がいう「漁師」になれるのです。
「沖へ漕ぎ出で、網を投げよ。恐れるな、私はあなたと共にいる。」

月, 01/29/2007 - 00:00

第一朗読で描かれているエレミアはとても人間的な預言者でした。人々はエレミアとその教えを拒否したので、彼は非常に傷つきました。心に傷を負ったエレミアに対して神は次のように言いました。「恐れるな、私はあなたとともにいる。私はあなたを助けよう。」 神は同じ言葉を私達に言っておられるのです。
福音書の中でイエスも彼自身の友人とナザレの親族に拒絶されています。イエスは人間でもあったので、彼もこの傷ついた感情を持っていました。
しかしイエスは神でもあり、われわれはその神に祈ります。イエスは、「恐れるな、あなたが苦しんでいる時に、わたしはあなたと共にいる。」と言っています。私達が寂しさ、心の痛み、疎外感を感じた時に、私達はイエスも同じ苦しみを持ったのだと、信頼してイエスに頼ることができます。イエスはわかってくださるのです。
なぜナザレの人々はイエスを拒絶したのでしょうか。彼らは、たかが大工の息子であるイエスがかれらの指導者になることを受け入れられなかったのです。さらにイエスの、神は誰でもわけへだてなく人間を愛してくださる、という教えを、受け入れられなかったのです。(ナザレの人々自身が、ユダヤ教では、外国人として差別されていたのにもかかわらず、です。)彼らの視野はとても狭く、内にこもったものでした。
第二朗読においてパウロはイエスが語っていた愛とはどういうものなのか説明しています。「愛」という言葉は乱用されすぎていて、いまやその深い意味を失ってしまいました。私達の人々への愛とはどういったものでしょうか。その愛は、(イエスを見捨てたナザレの人々のように)狭く、内にこもったものなのでしょうか。自己中心的で引きこもったものなのでしょうか?
この聖パウロの言葉をもう一度ゆっくり読み、自分の良心を確かめてみましょう。他人への愛を広げましょう。
神は私達一人ひとりを愛してくださいます。その温かさを隣人と分かち合いましょう。

日, 01/28/2007 - 00:00

イエスのもたらされた救い

ルカ4・21-30

今日の福音は先週の日曜日に朗読された福音の続きが朗読されました。今日朗読さ れた福音ではイエスのもたらされる普遍的な救いが語られています。

イエスはヨルダン川で洗礼を受け、荒れ野で誘惑を受けてから、ガリラヤに帰られ、 宣教活動を始められました。私たちが知っているとおり、イエスの生涯は父である神 だけではなく、絶えず聖霊と密接に結ばれていました。イエスは洗礼を受けた時と同 時に宣教活動の時も聖霊の力に満ちあふれていました。宣教活動をしているイエスの ことばと行いはとても優れていたので、イエスは皆の人から尊敬を受けられました。

今日、イエスはお育ちになったナザレに戻り、いつものとおり、安息日に聖書を聴 き、祈るために、会堂に入り、イザヤ書を朗読するよう頼まれました。朗読を終えて、 イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。と言 われました。つまり、イエスはご自分が預言者たちが語ったことを実現するために、 来られたことを示され、そして救いの時が来て、もう始まったことを宣言されたので す。会堂にいた人々はイエスの口から出た恵み深い言葉に驚いて、互いに言いました。 「この人はヨセフの子ではないか」。「ヨセフの子」というのは大工の息子、一般的な 人の息子という意味です。しかし、それにも関わらず、こんな言葉が発言できるイエ スとは、「いったい誰だろう」と疑っていました。また、「この人はヨセフの子ではな いか」という言葉は「ほめことば」の意味も含んでいると思います。一方、彼らは「も しイエスが本当にヨセフの子だったら、今優れた預言者として、どうして自分の故郷 の人々のために、何もしてくれないのか」と考えていました。なぜなら、彼らはイエ スがカファルナウムで行われたいろいろな出来事を聞いていたからです。要するに、 彼らは自分たちの利益だけを考えてしまい、彼らがイエスを信じるために、先にイエ スが何かの奇跡を行うことを要求したのでした。

しかし、イエスは父である神から受けた使命を彼らにはっきり言われました。つま り、イエスのもたらす救いはイスラエルとご自分の故郷の中に限定されているのでは なく、すべての人々に与えられるものです。そこで、イエスは具体的に歴史的な出来 事を用いて、すべての人々に与えられる神の救いについて、語られました。イスラエル に大飢誰が起こったとき、預言者エリヤはイスラエルのやもめたちのもとに遣わさ れないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとだけに遣わされました。さらに、預 言者エリシャはイスラエルに重い皮膚病にかかっている人々のもとに遣わされないで、 シリア人ナアマンのもとに遣わされました。

シドン地方のサレプタのやもめとシリア人ナアマンはイスラエルの人々ではなく、 異邦人に属する人たちですが、それにも関わらず、預言者エリヤとエリシャによって、 いやされました。ここで注目しなけれぱならないことは二人の預言者エリヤとエリシ ヤはイスラエルに属していますが、イスラエルの人々に受け入れられないで、異邦人 たちに歓迎され、受け入れられたということであります。イエスの場合も同じと言え ます。つまり、イエスの故郷の人々はイエスを受け入れるよりも、むしろイエスに色々 なことを要求してしまいました。一方、カファルナウムにいる異邦人たちはイエスを 受け入れたからこそ、イエスの行われた奇跡の恵みを受けることができました。

この福音を通して、ルカはイエスのもたらす救いを受けるために、信仰が必要であ ると強調しています。それゆえ、イスラエルの人々であるか、異邦人であるかに関わ らず、イエスを信じるならぱ、イエスのもたらす救いの恵みを受けることができます。 イエスのもたらす救いの恵みはある地域に限定されているのではなく、すべての人々 に与えられるものです。

私たちは洗礼を受けて、イエスの弟子になり、イエスの予言職にあずかっているこ とを意識しながら、日々の生活の中で、どんな状況においても、イエスを受け入れ、 イエスの証し人となることができるよう、父である神に願いましょう。

日, 01/21/2007 - 00:00

毎回のミサの中で、私達は「言葉の典礼」、つまり聖書朗読を行います。第二バチカン公会議で述べられているように、「特に教会において聖書が読まれるときに、イエスは現代に生きる私達に直接語りかける」のです。聖書は我々への神のメッセージであり、その深い意味を理解するには神の助けが必要です。聖書を聞くときには、私達は常に「このメッセージは現代に生きる私達に、今どのような意味をもっているのだろうか」と耳を澄まして聞く必要があります。なぜなら、聖書は私達の日常の生活を助けるための神のメッセージであるからです。さて、こうしたことをふまえて、今日の聖書をみてみましょう。

第一朗読は紀元前600年頃の旧約聖書の一場面です。バビロン捕囚からエルサレムに帰ったばかりのユダヤ人は、荒れ果てたエルサレムや神殿をみて、これでは再建は不可能だと落胆しました。しかし祭司エズラが聖書を読むと、人々は気を取り直し、とても力強く励まされた気持ちになりました。聖書を通じて神が語りかけるということは、現代においてもかわりはありません。

第二朗読では、パウロが寓話を用いている様子が描かれています。すべての教会、共同体は大小さまざまな才能を持った人々の集合体です。異なる機能を持つ人体の各器官がひとつの体として動いているように、わたしたち教会、共同体に属するひとびとが統一をもって働けるようにいたしましょう。どうか決して「わたしは無能である」などと言わないでください。私がかつて勤務した教会では、ある婦人がご自身のことを足の小指だとおっしゃっていました。しかしその方は教会の洗面所の八箇所のトイレットペーパーが切れないようにするという責任を負ってくださっていたのです。高齢あるいは健康のため、活動はもう無理というかたもいらっしゃるかもしれません。しかしそのような方でも、皆のために祈ることができるという点で、教会にとって最も貴重であることにはかわりはありません。

あなたはご自身が貧しいと感じられていますか?物事を成したり、覚えていることが難しくなったとお思いですか?自分自身がもはや社会にとって不適格者になってしまったとお考えですか?どうぞ神の力に頼ってください。それこそがまさにイエスが私達にすべきこととして伝えたことなのです。イエスは、神があるがままの私達を愛してくださる、という良い知らせを伝えてくださったのです。
あなたは、特定の人、場所あるいは癖などにこだわりがあり、それから逃れたいと思っていますか? 神はそれらから解放してくださいます。
あなたは、他人の苦しみについてわかっていても目を閉ざしがちですか? 新しい視野を持てるように神に祈ってください。イエスはそれを与えてくださいます。
あなたは、他者に虐げられていますか?あるいは忙しさとストレスで気持ちが落ち込んでいませんか?イエスはあなたを自由にするためにこの世に来て下さったのです。
誰でも、自分の心の中で起きている出来事を重ね合わせて、聖書を読むことができます。聖書をゆっくり、祈りとともに読んでみましょう。すると、きっと心のなかで小さくともピンとくるものがあるはずです。聖書は永遠の「現在形」で書かれており、今あなたに読まれるためにあるものです。

土, 01/13/2007 - 00:00

ヨハネによる福音書の中でイエスは奇跡を7回しか起こしていませんが、 これを行うにあたってイエスは特別な言葉をつかっています。イエスは奇跡を 「しるし」と呼んでいます。奇跡は実際にあった歴史的事実ですが、それだけ ではなく、現在に生きる私達により深い意味を示しています。

今日の福音 (ヨハネ2・1−11)ではカナの婚礼でイエスが水をぶどう酒 に変えた奇跡が描かれています。ここでは、「イエスは、この最初のしるしを ガラリヤのカナで行って、その栄光を現された。」と記されています。

ユダヤ教の清めの儀式のための水をいれた壺が6個ありました。それは、 厳格に強制された宗教的儀式のための味気のない水でした。このとき神は恐れ 多い、遠いものであり、神との交流は楽しいものではない、味気の無いものでした。

イエスはそれをすべて変えてしまったのです。神は、イエスが人間としても 一生を送ったことにより、とても近いものとなり、私達人間はよろこびをもって 神と話せるようになりました。味気の無い水が、喜びをもたらすぶどう酒に変容 したのです。

イエスは神が人間になったものです。新郎新婦が、食べたり飲んだり、笑ったり、 贈物を楽しんだりしていたカナの婚礼に、神は現れたのです。新しい時代の訪れ、 「しるし」とはこれを現すのです。イエスは喜びを私達に伝えるために人の世に 現れました。イエスは私達を彼の饗宴、彼の食卓に私達を招いているのです。

私達が痛み、悲しみに苦しんでいるときですら、この神の特別な喜びを経験 することができます。ではどのようにそれはできるのでしょうか?

こころを落ち着かせ、静かに祈ってみましょう。そして、神の声、「恐れるな、 私はあなたとともにいる」を聞きましょう。

私達はけっして一人ぼっちではなく、わたしたちには同伴者、助けてくれる方が います。これこそが、「喜び」の源泉なのです。

しかし、この喜びを得るために、イエスは二つの事を私達に望んでいます。 それは、(1)祈りを通じた神との交流(「私のもとに来なさい....」)、 (2)隣人とこの信仰と喜びを互いにわかちあう、ということです。

これを読まれる皆様が、この「喜び」を味われるよう、神に祈ります。

日, 01/07/2007 - 00:00

しばしば、聖書は2層の構造となっていることがあります。上の層は、古代の 歴史的な出来事を叙述したものです。下の層は、今日の私たちに働きかける 現在の信仰です。
今日の聖書は、主の公現(これは神ご自身が我々の前に姿を現されたことを 意味するのですが)について書かれていますが、これを例にとってお話しま しょう。
誕生したイエスに会いに来た三人の博士は、ユダヤ人ではありませんでした。 これは歴史的な出来事です。しかしイエスは、ユダヤ人のみならずすべての 人々にとって、頼ることができる存在だったのです。また三人の博士は、 不思議な星により導かれイエスのもとに到達しましたが、これも私たちが神 ご自身の導きにより、神に到達できることを暗喩しています。
これを、自分自身の人生にあてはめ、振り返ってみました。私には、イエスと の出会いという、とてつもなく大きな恵みが与えられました。イエスは私の 人生の旅を、慰めや力をあたえてくれる同伴者として、ともに歩んでくれています。 イエスは、とてもはかない存在の人間であるわたくしを、あるがままに優しく 受け入れてくださいます。
このような神の恵みに私はとても感謝していますが、神はこの恵みを他の人々 と分け合うように、と願っているのです。

皆さん、私たちの心の中の宝箱をあけてみましょう。
三人の博士がイエスに黄金をささげたように、私たちは、価値ある贈り物として 「思慮深さ」を隣人にささげましょう。
三人の博士がイエスに香料をささげたように、私たちは、香り高い「感謝と優しさ」 を隣人にささげましょう。
三人の博士がイエスに没薬をささげたように、私たちは、美しく、不思議で素敵な 香りのする「許しと和解」を隣人にささげましょう。

神よ、これらの宝物を私たち示していただいたことを感謝します。 神に感謝。

 

日, 12/24/2006 - 00:00

今日の聖書(ミカ書5:1−4詩編80編ヘブライ10:5−10ルカ1:39−44)は、深い祈りを行う者にとって示唆に富むものがあります。ミカ書と詩編では、救い主とは、自分の群れの一匹一匹を本当に気にかけて世話をするような、羊飼いにたとえられています。また今日の福音では聖母マリアが自分自身の都合や計画をおいて、いとこのエリザベスを助けるために四日間の旅に出発する情景が描かれています。ここでマリア様は、私達にお手本をみせてくださいます。

ここでヘブライ人への手紙にあるこのキリストの言葉を見てみましょう。「神よ、どうぞご覧ください。わたしは来ました!」 私たちが祈りを始める時にもこの言葉を使ってみましょう。祈りとは私たちと神との出会いの場、私たちは何も包み隠さず、素直に神と対話するのです。最初に私たちは神に対し、「神よ」と呼びかけます。これにより私たちの祈りは、軸がすわり、はっきりしたものとなります。そして次に言うのです、「わたしは来ました!」と。これは、包み隠さず、あるがままの私自身で神の前に来た、ということを意味します。
普段のように自分自身を飾ったりせず、あるがままの弱さ・はかなさを抱えた人間として、そして時として少し壊れてしまった人間として、神の御前に立つのです。神ご自身も人間であることを経験されていらっしゃいますから、その弱さ、はかなさ、壊れやすさをとてもよく理解してくださいます。ですから、「わたしは来ました!」という言葉にはとても深い意味があります。しかし、このヘブライ人への手紙にあるように、私たちはさらに「わたしは【あなたのご意思を果たすために】来ました!」と付け加えたいと思います。「神よ、私はあなたが私を本当に気にかけてくださることを知っております。私のすべてをあなたの御手にゆだねます」  

自分自身の言葉で、このような祈りをしてみましょう。今あなたの心の中にあるものが、あなたの祈りの材料となるのです。

日, 12/24/2006 - 00:00
クリスマス、おめでとうございます。このように申しましても、ではいったい何がめでたいのか、私たちはよくわかっているのでしょうか。
私は、「クリスマス」とは、次の五つの層からなっているように思います。
1)お買物のため、商売のためのクリスマス。ジングルベルの調べに乗せて、「買った、買った」の大合唱です。これらをみて、私たちは本当のクリスマスの意味は何なんだろう、と思うのです。
2)贈り物のためのクリスマス。 もし贈物に本当に感謝の心がこめられているのであれば、これはとても良いものです。贈物の交換を単なる形式的なものにはしたくないものです。
3)ご馳走のためのクリスマス。 もしこの食事が家族の一致を高めるためになされるのであれば、これは大変素晴らしいものです。あなたの家族の中に、仲たがいしている人はいませんか?クリスマスを機に、仲直りできないでしょうか?
4)聖劇や飼葉桶で生まれたイエス像が示すクリスマス。 これらはクリスマスが本当は何についてであるかを説明しようとするものです。
5)そして最後に、神ご自身が私たちひとりひとりに、言ってくださるクリスマスがあります。それは、
神様が私たちひとりひとりに、「わたしはあなたを愛している」といってくださることです。
これこそが、飼葉桶に眠るイエス像が意味するものです。
「神である私が、人間であるあなたを愛するゆえに、その愛を示さんとして人となりてこの世に降り立った」ということです。
これはイエスの言葉、「恐れるな、私はあなたと共にいる」という言葉に深い意味を持たせます。
イエスの、「あなたと共に」という言葉は、とても重要です。
 
これがイエスが私たちに示された非常に重要な神秘です。神ご自身が神の栄光や威光を脇に置き、我々のような、100%普通の人間
となったのです。
 
これにより神は私たち人間のはかなさを理解し、力と慰めを私たちにお与えになります。一言で言えば、神はあるがままの私たちを愛してくださるのです。
鏡を見て、自分自身をよく見つめてみましょう。そして自分自身を指差し、言ってみましょう。
「神はあるがままの私を愛してくださる」と。
これが、クリスマスのメッセージです。この神の愛を私たちの隣人と分かち合いましょう。
日, 12/10/2006 - 00:00

待降節は私たちがイエスの誕生について準備する期間です。
では、どのように準備するのでしょうか。 まず、私たちの信仰とイエスの教えの基本的な意味について、改めて「見直す」ことから始めましょう。 (見直しとは信条の転向までも意味します!) そして「神は私たち一人ひとり、あるがままを愛してくださる」というイエスの基本的な教えを想いおこしましょう。この最も大切な事実を深く認識することによって、私たちは喜びの贈り物を神からいただけるのです。

本日の第一朗読(バルク5:1−9)では、神殿を焼かれ遠いバビロンに虜囚となり、嘆き悲しむユダヤ人たちが描かれています。預言者バルクを通して神は、「絶望してはならない。喪服のような服を着るのをやめ、明るい色の楽しい服を着なさい。」と言いました。これは言い換えれば、「神はあなた方を愛しているので、希望を持ちなさい。神はあなたを気にかけているのです。」ということです。今日、私たちの神はまったく同じ言葉を私たちに言っておられます。

第二朗読(ピリピ1:4-11)では、聖パウロは「喜び」について語り、「イエスキリストはあなた方を愛していらっしゃいます」と言っています。神の愛と私たちの喜びは常につながっています。

福音(ルカ3:1-6)では、洗者ヨハネは私たちに、回心し悔い改めるよう求めます。これはつまり、現在の私たちの生き方をもう一度見つめなおし、新しいスタートをきるよう求めているのです。(いつでも、イエスの示す道に戻り、新たな出発をすることができるのは、大きな慰めであり、励ましです。) まさに人間であるからこそ、私たちは皆、曲がりくねったデコボコして険しい小道を、心のなかでたどっていかなければなりません。

心の扉を開けて、愛と光を招きいれ、神からの愛を受ける喜びを心の中で輝かせましょう。神からの力によってのみ、私たちは曲がりくねった心の中の道をまっすぐに、なめらかにすることができるのです。

待降節に備えてちょっとした練習をしてみましょう。鏡に映った自分の顔を正視し、自分の目をみつめてみましょう。 そして、その目を通して自分の心を深く見てみましょう。あるがままの自分を見、そして大きな声でつぶやいてみるのです。 「神は、あるがままの この私を愛してくださる」と。 今週はこのことをやってみてください。寛大で愛情にあふれる神からの贈り物、心の平安と喜びを感じることができるはずです。

日, 12/03/2006 - 00:00

今日から待降節が始まります。待降節とはイエスの誕生、つまりクリスマスについて3週間にわたり心の準備を行うことをいいます。
今日の福音 (ルカ21・25−36)ではイエスは私たちに、優しく次のようにさとされています。

「生活のわずらいで、心が鈍くならないように注意しなさい」と。

ギリシア語ではこの「わずらい」とは「メリンナ」と書かれており、ギリシア語の新約聖書原典では多用されています。例えば有名なイエスの「まかれた種」のたとえ話でも使われています。雑草のなかにまかれてしまった種は、発芽しても雑草、つまり日々の暮らしのわずらいによって、立派に育つことはできない、つまり神の説く生き方を実践できなくなってしまう、というたとえです。イエスの12人の弟子も、彼ら自身の将来について、不安を感じていました。イエスは次のように言っておられます。「空の鳥、地の花々を見なさい。神は鳥一羽一羽、花一本一本、どこにあるかご存知です。ましてや、神にとってもっと大切な人間については、なおさらのことです。ですから、心配(ギリシア語の動詞形ではメリンマ)する必要はありません。」

しかし、激しい競争社会で多忙な日々をおくる私たちは、物質的に何を所有するか、良い学校、良い仕事につけるか、そしてどのように昇進、発展していくかに心を砕き、その結果私たちは皆、生活にわずらわされ、不安を感じているのです。

このような私たちにイエスはどのようなお導きをくださっているのでしょうか?

一言で言うならば「信頼」です。

神を信頼しましょう。なぜならば神は私たち一人ひとりを気にかけてくださるからです。神は私たち一人ひとりに次のように言っておられます。
「私の目にはあなたは尊く私はあなたを愛している。恐れるな。」(イザヤ書)
これが空の鳥、地の花のメッセージです。しかし今日、ペトロ第一の手紙で言われているとおり、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(1ペトロ:5−7)のです。今日の福音ではイエスは私たちに「いつも目をさまして祈りなさい」と言っておられます。
神は私たち一人ひとり誠に気にかけてくださいますので、祈りを通じて、その優しいみ手に私たちの一切の心配事、不安をゆだねましょう。それが心の平安に至る道なのです。