日, 11/23/2008 - 00:00

今日の福音でイエスは重要な教えを示しています。 私達の死後、神は私達の一生を精査する、とイエスは言っています。 彼は次のような質問をしています。「私がこの世で飢えていた時に、あなたは私に食物をくれましたか? 私が渇いていたときに、水を恵んでくれましたか? 旅先で歓迎してくれましたか? 私が病み、投獄されていた時に、会いに来てくれましたか?」 このようにイエスに尋ねられたら、「いったいいつ私がイエス様にお会いしたでしょうか?」と私達は言うでしょう。 イエスの答えはこうです。「あなたがこのような苦しんでいる人々に親切にするのは、それはすなわち私にしているのです。」 これは何と難しい挑戦でしょう!
この日本で誰が飢えているでしょう? ホームレスを別とすれば、大きな飢えはむしろ心の中にあると言えます。イエスはこのように言うでしょう。「あなたは暖かい笑顔を人々に与えましたか?『よく頑張ったね』とか『ありがとう』とか、心の寂しさを満たす言葉を人に与えていますか?」
日本では、水は豊富にありますが、極めて多くの心が乾いています。 寂しく悲しい思いの人々です。 そのような人々に渇きをいやす水―温かい心、明るい挨拶、励ましの訪問や電話―をあげましたか?
日本では、聖書でいう「旅人」は移民労働者、引っ越してきたばかりの人、あるいは出稼ぎの人などがあてはまるでしょう。 そのような人々に私達は暖かい歓迎の手を差し伸べているでしょうか、それとも見て見ぬふりをしているのでしょうか。
日本では、病院の患者さんのほかに、ストレスや鬱、依存症や心配などで参っている人々がいます。 イエスは尋ねます。「あなたはこのような人々に優しさや助けを差し伸べましたか?」
日本では、実際に牢獄に入っている人たちもいますが、寝たきりや引き籠もりとなって外の世界から隔離されている人やいじめられている人々など、心の囚人となっている人たちもいます。 私達はこのような人たちを助けているでしょうか。 もしそうしたならば、私達は天国にて永遠の報酬を受けるでしょう。
「現代の最大の病はハンセン氏病でも、癌でも天然痘でもありません。 今日最大の悪は寂しい人々に対する我々の無関心と冷淡なのです。」(マザー・テレサ)

日, 11/16/2008 - 00:00

今日、私達の教会では日本の美しい伝統である七五三のお祝いをします。 マルコによる福音書(10:13-16)にはイエスが子供たちを祝福している場面が描かれています。
今週は聖書週間です。 聖書は神様から私達ひとりひとりへのメッセージです。 聖書を開いたら「イエス/神はここで私に何を語りかけているのだろうか?」と考えながら
読んでみましょう。 
先のマルコによる福音書にもどります。 イエスは一日中説教をしていました。 とりわけイエスに反対する人たちの質問にも答えていました。 彼らはイエスを罠にかけようとしていいたので、イエスは教えが終わるころにはすっかり疲れきっていました。 そんな時、幼い子供達をイエスに祝福して欲しいと母親達がやってきたのです。 12人の弟子達は、「先生は今お疲れです。明日来てください。」と追い払おうとしました。 しかしイエスはかれらを押しとどめ、母親を迎え入れ、こどもたちに祝福を授けました。
さて、この場面での「神からのメッセージ」は何でしょう。 イエスは、このようにも、近づきやすい存在であるということです。 イエスは私達の日々の暮らしに関心を持っておられるです。 祈りを通して神のところに行きましょう。 神は忙しすぎたり、疲れていたり、ということはありません。 神はいつでも両手を広げ私達を受け入れてくださるのです。 神に私達の悲喜こもごもを伝えることは祈りなのです。 祈りの巨匠であるアヴィラの聖テレジアは「祈りとは、私達を愛してくださっていると私達が知っている神様との心と心の会話です」と言っています。
不安定で競争的そして快楽優先の、今日の社会において、両親・祖父母であることは簡単ではありません。 良き、忍耐強いお母さんやお父さんでいるためには神の助けが必要です。 その助けを神に頼みましょう。 神はいつも喜んで助けてくださいます。 両親の皆さん、どうぞ簡単な言葉で子供たちと共に神様にお祈りしましょう。 簡単な言葉で聖書を子供に読んであげましょう。
日本の子供達と家族に神の祝福がありますように。

日, 11/02/2008 - 00:00

今日は死者の日、カトリック教会では死者に対して祈りを捧げる特別な日です。 旧約聖書(2マカバイ,12:45)には、「死者のために祈ることは神聖かつ健やかな考え」とあります。 古代から続く第二奉献文では、「すべての死者に心をとめ、あなたの光の中に受け入れてください」と祈ります! 私達は、「安らかに眠り給え」と祈るのです。
1985年に日本の司教様達が書かれたパンフレットでは、キリスト教徒ではない私達の親族・友人のためにも祈りましょう、と呼びかけています。 十戒のうちの第四戒律には父母への孝心というものがあります。 この孝心は両親の死後も祈りによって続いていくものなのです。 死者への祈りは隣人愛の一部なのです。
この死者への祈りの中で、カギとなる言葉は神の慈しみです。 この世に生きて残っている私達が、死者のために祈る時、神の慈しみの深い意味に気づくことができます。 私達が愛した者たちへ、父である神が慈しみを注いでくれるよう祈るのです。
同様に、感謝は死者への祈りの基礎です。 私は帰国するたびにいつも両親と祖父母と友人の墓に行きその前に立って、「ありがとう」と言います。 祈りをもっと明確にするために、私はその人達との良い思い出を思い起こします。 そして私が傷つけてしまった人に対しては、「ごめんなさい」と謝ります。 彼らはなお神のみもとで生きているので、私は個人的に話すことができるのです。
希望は私達の祈りのもうひとつの基盤です。 イエスは死者のうちから復活なさいました。 イエスは最初に復活した方であり、私達は皆彼の後に続きます。 イエスは死は終わりではなく、新しく、栄光に満ちた永遠の命への転換点にすぎず、神がすべての顔から涙を拭ってくださる時(イザヤ書25章8節)であると教えてくださいます。
神のの慈しみを思い起こしながら、死者のために祈りましょう。(ルカ15節を読み、神の慈しみの深いことを理解しましょう)
喜びと希望をもって祈りましょう。

日, 10/26/2008 - 00:00

自分自身にこのような質問をしてみましょう。 「自分の心、魂、感情のすべてで、神を愛しているか? それとも、80%だけ?いや50%?10%? あるいは、特に 平日などには、神のことなどまったく忘れてしまっていないだろうか?」  イエスは、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい。」とおっしゃっています。
さて、「私は自分自身のことを愛しているだろうか?」と自問してみましょう。
もし私が自分自身のことを愛していないならば(イエスの先の言葉と釣り合う意味で)、私は隣人や神を愛せないということになります。もし自分の心が自己嫌悪や他人との比較、憤怒や不寛容で落ち着いていなかったり、沈んでいたら、隣人や神を愛することなどできません。
いばらの道を歩む自分を愛するには、神はありのままの自分を愛してくださる、ということをキチンとわかることがとても重要です。
神はありのままの私を愛してくださいます。その愛は無条件です。神は、私のたくさんの欠点にもかからわず愛してくださるのではなくたくさんの欠点があるからこそ愛してくださるのです。 だからこそ、神はその子イエスを我々に遣わしてくださったのです。
私が見聞きした、最も美しく、健康的かつ霊的な運動に次のようなものがあります。
インドの伝統社会には、なお3,500年続いたカースト制度が残っており、そのカーストの最底辺はハラジンという人々です。 ハラジンの指導者はキリスト教に影響されて、同じハラジンの人々に次のことをさせました。自分自身を鏡に写します。自分の心の中、真の自分自身を直視するためです。そして、次の祈りを神にささげます。「神よ、このような、ありのままの私をあなたは、優しく深く愛してくださいます。」
私達もこのように祈ってみましょう。 この祈りを通して自分自身と隣人、そしてあなたの神をより深く愛するようになるでしょう。

日, 10/19/2008 - 00:00

聖書にはユダヤの人々が徐々に真の神を知るようになっていったことが描かれています。 どの国にもそれぞれ自分達の神がいる、というのが3千年前の考え方でした。 エジプトで奴隷とされていた時には、エジプトのラー神が彼らの神より強く見えました! 奴隷から開放されると、神とは、自分達を解放してくれた神であると思いました。 荒れ野において、神は彼らを助けてくれたのです。 しかし、カナンの地に入るとバアル神、そしてバビロンにおいてはマードック神を崇拝したくなりました。 しかし彼らの神についてのイメージはだんだんハッキリしてきたのです。 今日の第一朗読は旧約聖書の中でも少し変わっています。 真の神がバビロンの異教の王シラスを平和と解放の使徒として用いたのです。 言い換えれば、唯一の、至高の神が存在していたということです。
そして最終的に、私達に神とは何かハッキリ示すために、神はイエスという人間になりました。 神は、「おとうちゃん」、父であり、私達は皆その愛する子供たちなのです。 神は私達ひとりひとりを、それぞれの名前で呼んでくださるのです。 私達がイエスの優しい、親切な心を見るとき、同時に私達は真の神の優しく親切な心をみるのです。
私が子供だった時、神のイメージは良いものでしたが、子供っぽいものでした。 若者になり、そのイメージは変わり、さらに大人になって変わりました。 さらに、30代、40代、50代、60代、70代と年をとるにつれ、私の神に対するイメージは変わり続けました。  このまま変わり続けることを望み、祈っています。 変わるということは、違ったものになる、ということではありません。 変わる、とは私の神に対するイメージがより深く、親しく、愛情深いものになる、ということなのです。 聖パウロはコリント人への第一の手紙(13:11)で「私が幼子だった頃は幼子らしく考えましたが、今や大人なので大人として考えます」と言っています。
私達が神をどのようにイメージするかということは、私達の日常の暮らしと祈りにとって大事なことです。 もし私達の神が厳格な、罰するような神であれば、私達の祈りは恐怖に満ち、私達の日々の暮らしも恐れに満ちたものになるでしょう。 もし神が優しい、愛情に満ち、いつでも私達を歓迎してくれる寛容な「おとうちゃん」であれば、私達の人生は喜び、希望、愛に満ちたものになるのです。
生きている声で、「おとうちゃん」は言います。
「あなたは、私の子だ。私はあなたを、名前で呼ぶ。」
今日は宣教の主日です。神の優しさを他の人々と分かち合いましょう。

追伸:福音では「良いキリスト教徒は、同時に良い市民でなければならない」と言っています。

日, 10/12/2008 - 00:00

ペトロ岐部
今日の聖書朗読のテーマは「宴会」でした。聖書では「宴会」は神の暖かい交わりの象徴です。
今日はイエスと温かい交わりを持った一人の日本人についてお話したいと思います。彼の名前はペトロ岐部、11月24日長崎で列福される188人の日本人のうちの一人です。北京オリンピックのマラソン勝者のケニヤ選手サミュエル・ワジルは、日本で過ごした6年で、「我慢することを学んだ」と言いました。我慢、すなわち禁欲的な自制は日本独特のものです。新約聖書では、「忍耐」(ギリシア語ではヒューポモン)が45回も使われています。この言葉は穏やかな言葉で、しばしば命、喜び、希望といった言葉とともに使われます。これらは神があたえてくれる賜物、それによって私たちが喜んで耐え忍ぶ勇気を与えられるのです。
ペトロ岐部は私たちの励みとなる良い例です。1587年瀬戸内海に面した大分の浦部に生まれ、幼少のころから海と舟に親しんでいました。この年は秀吉が最初のキリシタン弾圧に乗り出した年でもありました。13歳でペトロ岐部は神学校に入りましたが卒業することはありませんでした。27歳の時に、彼は再び司祭になりたいという強い希望を持ち、マカオへ旅立ち、そしてインドのゴアに至りました。彼は受け入れられませんでしたが、迫害にあう故国の兄弟姉妹を助けるために、司祭になりたいという強い希望は変わりませんでした。
ここからは、キリスト信者の忍耐の好例です。ペトロ岐部はゴアから3年の年月をかけ、約5千キロの道を歩いてイエルサレムへ行ったのです。昔も今も危険な場所であるインド、パキスタン、イラク、イラン、ヨルダンの山や砂漠を旅しました。イスラエルで(おそらく、日本人としては初めての巡礼者でしょう)彼はイエスの道のりを歩みました。彼は長い旅の間を通して決して一人ぼっちではありませんでした。イエスの言葉「恐れるな、私はあなたと共にいる」がペトロ岐部にとって大変意味のある言葉だったのです。
彼はイエルサレムからローマへ行き、イエズス会の本部を訪れ、イエズス会士となり神父になりたいと請願したのです。忍耐の人である、円熟したペトロ岐部に、イエズス会幹部も感銘を受けたのでしょう、わずか半年のうちにその両方とも現実のものとなりました。このときペトロ岐部は33歳でした。
その後、彼は船で日本に戻ります。リスボンから喜望峰をまわり、モザンビーク、ゴア、マラッカ、アユタヤ、マカオ、マニラと渡り、その間、三度も難破しています。
マニラで彼は小さな古いボートを買い、もう一人の仲間とともに鹿児島に向けて出発します。「神から送られてくる風を頼りに、私たちは帆を張りました。私は兄弟姉妹の魂の救済のために、帰国します。」と彼は書いています。
帰国後彼は岩手県の水沢で9年布教活動を行いました。そして友人に裏切られ、尋問と拷問のために江戸に送られました。棄教を拒んだため死刑を言い渡され、穴の中で逆さ吊りの刑を受け死にました。かような、堅忍剛毅、忍耐節制は神の賜物としか考えられません。
ペトロ岐部は100%日本人であり、100%キリスト教徒でありました。私たちもイエスに忍耐の賜物を乞いましょう。神は私たちを強めるためにおられるのです。神を信じ私たちの帆を掲げ人生の航海に乗り出しましょう。
イエスは言っておられます。「あなたは裏切られるでしょう...しかしあなたは髪の毛一本も失なわない...忍耐によりあなたは命を得る。」(ルカ21)

日, 10/05/2008 - 00:00

日本には、詩篇139章18節から題をとった聖歌「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」(典礼聖歌53番)があります。
今日を生きる私たちの課題として、「神が私たちにしてくださっていることを本当に理解し、その愛を価値あるものと認め、神に感謝しているか」ということがあります。
今日の第一朗読と福音のなかで、ブドウ畑の持ち主のたとえ話がありました。主人はブドウ畑を作りましたがそれは大変な仕事でした。畑を耕し、肥料を施し、石を取り除いて見張りのやぐらを立て、搾り機を作って小作人に貸し与えました。小作人はそれを当り前と考え、まったく感謝しませんでした。それどころか彼らは貸し与えられたものを自分たちのものとして考えるようになり、自分たちだけのためにそれらを使い始めたのです。
創造主である私たちの神は、私たちの心の中に美しいブドウ畑をつくるために相当の努力をなさいました。神は私たちに命、家族、友人をお与えになりました。神は私たちそれぞれに特別な才能をお与えになりました。私たちの人生を通して、神は私たちを守ってくださる一方、大いなる自由もお与えになりました。
神が私たちのためになさったこと、また今もしてくださっていることすべて、私たちは正しく認識し、感謝しているでしょうか。あるいは、私たちは「すっぱい葡萄を実らせている」にすぎないのでしょうか。
ここで、お祈りの方法をひとつご紹介いたします。こころを静め、そして神に助けを求めましょう。一番若い時の記憶から自分に訪れた幸せな出来事を思い起こしてみましょう。それは家族の中であったり、学校での出来事だったり、いろいろでしょう。青春時代や大人になってからの時代、それぞれ経験した素晴らしいことを静かに思い出してみましょう。そしてそれぞれ一つずつについて、神に感謝しましょう。その時々において、それらは些細なできごとでしたが、自分に影響を与えているのです。「普通の」できごとは、宗教的なできごとでもあったのです。この祈りの方法、「回顧の祈り」では良いことのみ思い出すのです。そしてそれを神に感謝するのです。感謝のあと、私たちは神に祝福を求めるのです。(今日の使徒パウロのフィリピの教会への手紙に書かれているようにです。)
まことに、「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」のです。

日, 09/28/2008 - 00:00

私たちはよく次の聖歌(390番)を日本語で歌います。
「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。」
この聖歌は今日の第二朗読の内容を要約しています。 最後の晩餐の時にイエスは言いました。「私があなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、手本を示したのである。」(ヨハネ 13:15)  聖ペトロはその手紙の中で「キリストは私たちが彼の足跡をたどれるように手本を残してくださった。」と言っています。(1ペテロ 2:21)
今日を生きる私たちにとって、「キリストのように考え」とはどのような意味でしょうか。 イエスの思考において常に主題にあったことは、最後の瞬間に至るまでイエスが生涯にわたって祈っていた詩篇31節に集約されています。「父よ、私のすべてをあなたの御手にゆだねます。」これは私たちにとっても、神への信頼の祈りです。
「キリストのように話し」 説教を通して、イエスは平和、勇気、励まし、そして許しを与えてきました。イエスはザアカイに語りかけ、人生の意味について話しました。 私たちは言葉を使って、人々の平和の道具になっているでしょうか。 私たちは、心から本当に「ありがとう」と言っているでしょうか。
「キリストのように行い」 イエスがゲッセマネの園で捕えられた時、イエスは無私公正に、思慮深く行動しました。 彼は捕吏に「君たちは私を捕えたのだから、他の弟子たちは自由にしてください。」と言ったのです。 それまで3年にわたりイエスはペトロとともにパレスチナの地を歩いてきました。 ペテロはたびたび非常に衝動的にふるまい、また時として自己中心的でもありました。 そんなペテロをイエスは我慢していますが、信仰の弱いペテロはイエスのことを知っているにもかかわらず3回も否定してしまいます。 しかしイエスはいつもあるがままのペテロを受け入れています。 わたしたちは、他の人々をあるがまま受け入れているでしょうか。
「キリストのように愛そう」 イエスは友人である私たちのために、その命をささげました。 私たちは、その人生の一部でも、他人のためにささげているでしょうか。 他人のために自分の時間を使うでしょうか。 真に、人の言っていることに耳を傾けているでしょうか。 自分の都合が悪くても、他人にあわせることがあるでしょうか。
キリストのように考え、話し、行い、愛するということは、キリストをさらによく知るということです。 そのためにも聖書を読み、それを通し神を友人として祈り、聖 体拝領を通して神と一体化することが大切です。

日, 09/21/2008 - 00:00

今日、保土ヶ谷教会のミサでは、敬老の日を祝いました。
ヘルマン・ホイヴルス神父の"老いての祈り"をご紹介しましょう。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人の為に役立たずとも、
親切で柔和であること、
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことの故郷へ行くために。
おのれをこの世に、つなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。
「それは祈りだ」
手は何もできない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われ なんじを見捨てじ」と。

ヘルマン・ホイヴルス
「人生の秋に」より

日, 09/14/2008 - 00:00

今日はイエスが私たちのために十字架上で死んだことを思いおこし、そのことに感謝する日です。
1941年、ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所から一人の囚人が脱走しました。 脱走に対する罰として脱走者の班から10名が選ばれ、死刑が命じられました。 その10名のうちの一人、フランツィシェク・ガヨウィニチェクは、「かわいそうな私の妻と子よ!」と叫びました。 その時、ポーランド人神父マキシミリアン・コルベは一歩前に出て、「私を彼の身代わりになりましょう」と言ったのです。 何という英雄的な行動、なんと深い愛でしょう。
この生きながらえた父親は、その後の全人生を通してコルベ神父に感謝し続けました。
しかし、私たち一人一人も、同じ経験をしているのです。 イエスは私たちのために十字架上で死にました。 神であるイエスはこんなにまで、私たちを愛してくださるのです。
あなたが持っている十字架を見て、「イエス様、ありがとうございます」と言ってみましょう。
イエスは私たち一人一人に「私はあなたと共にいる」とおっしゃっています。 もし、イエスが私たちと同じように、体の痛みや裏切り・いじめ・屈辱・拒絶・虚無などの心の痛みを味わっていなかったとしたら「私はあなたと共にいる」とは言えなかったでしょう。
しかしイエスは実際に人間の苦しみを体験されよくご存じですから私たちが苦しい時にはそばにいて、助けと勇気、慰めを与えてくださいます。
イエスの十字架上の苦しみとどう向き合うかについて、私は、お医者様の大島先生という方に大きな影響をうけています。 和歌山県の小さな村(龍神)で私は27歳の若い神父でした。 篤い信仰を持った大島先生は癌に冒され、畳の部屋で布団にくるまり、いまわの際でした。 胃癌の痛みは強烈でしたが、先生は十字架を握りしめ、「イエス様、あなたは私とともにおられます」と祈っておられました。
大島先生は痛みに直面していましたが、それよりも重要なことは、彼には心の平和があったことです。
十字架上のイエスの苦しみは、私たちの慰めです。 そしてイエスの死からの復活は私たちの希望です。

日, 08/03/2008 - 00:00

私達人間は私達自身の体である「肉」は見たり触ったりすることはできますが、自分の魂や精神、心といったものは、触ることも見ることもできません。私達の体は容易に飢えたり渇いたりしますが、これは食べたり飲んだりすることで簡単にいやすことが出来ます。けれども私達の魂や精神が感じる飢えや渇きに対してはしばしば無関心であったり、むしろ抑圧したりするのです。では、これらの飢えや渇きはどのようにすれば満たされるのでしょうか。

若き日の聖アウグスチヌスは母親の信仰を拒絶し、快楽、金儲け、自分自身の名誉を追い求める日々をおくりました。ある時彼は演説の仕方を学ぶために、ミラノのアンブローズ司教の説教を聴きに行きました。しかし聖アウグスチヌスはアンブローズ司教の説教の核心に触れ、彼の心は大きく揺さぶられたのです。人の心の欲求の全てを満たすものは、神以外にない、ということに気がついたのです。33歳にして彼は洗礼を受けました。彼はこのように書いています。
「主神よ、あなたは私達人間の心ををあなたに向う者としておつくりになりました。ですから私達の心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることが出来ないのです。」

しかし、それではここでいう「神」とは何でしょうか? どのような方なのでしょうか? 人間としてのイエスの中に、私達は神の心を見ることができます。今日の福音を見てみましょう。イエスのいとこであり友人である洗者ヨハネは殺害されました。イエスはこの死を深く悼みました。神は私達の悲しみをわかってくださいます。神ご自身も人間として、人間の悲しみを経験なさっているからです。そしてイエスは群集を見て、「深く憐れまれた」のです。イエスは人々の心の飢えと渇きがよくわかったのです。この「深く憐れむ」という動詞は、ギリシア語では「スプランキニゾマイ」というのですが、とても強い感情を表す動詞で、イエスは9度使っています。

これは深い内なる衝動、震度7級の感動、愛の洪水を意味します。この神のとてつもなく深い、私達への愛情こそが、私達人間の心の渇きを癒してくれるものなのです。
聖アウグスチヌスのように、神の中で安らぎましょう。神からの、心のための祝宴への誘いに、応えましょう。

日, 07/27/2008 - 00:00

もしイエスが現れ、かつて神がソロモン王に言ったように「何でも欲しいものを言いなさい。それをあなたにあげよう。」と言われたら何と答えますか? 祈りの中で、私はイエスのそんな質問を想像してみました。 そうすると、このようなことが起きました。 最初は私は健康を望んだのですが、それから心の奥底から何かがわき上がってきたのです。 健康より大切なものがある、そう、私は神に自分が神をよりよくわかることができるように、自分がもっと神を信頼できるようにと願ったのです。(この時、確かに「聖霊」が作用していたのでしょう。 でなければ、直接的な願いに留まっていたはずです。)

神がソロモン王に問われた質問は今日も私達一人一人に繰り返されています。 この問いは私達にとって、むしろ挑戦であって、私が思うところでは私の人生においてもっとも大事なものです。

神はその恩恵により、私達一人一人を神がどれほど本当に真実に愛してくださっているかを教えてくださいます。これは本当にすばらしい、高価な真珠のような宝なのです。 私達は、この素晴らしい宝を得るために、すべてを優先する覚悟ができているでしょうか?

神だけが、私達の心の深いところにある願望を満たしてくださいます。 物質は私達をそう長くは満たしてくれません! 私達は常に更に次々と望むのです。

「神よ、あなたは私達をあなたのためにおつくりなりました。ですから私達の心はあなたのもとで初めて落ち着くことができるのです。」(聖アウグスチヌス)

日, 07/20/2008 - 00:00
福音:マタイ13:24−43、13:24−30
第一:知恵12:13、16−19
第二:ローマ8:26−27

私たちはそれぞれ、色々なグループ、集団、共同体に属して生きています。そしてその中には必ずと言っていい程、苦手な人や好きになれない人、一緒にいることが苦痛になるような人がいるものです。そのような人の存在は、私たちにとって「毒麦」のようであると言えるのではないでしょうか。そして、私たちは、その人さえいなければ、あるいはその人が変わってくれさえすれば、自分にとっても他の人にとっても、もっと良いのに、と考えてしまいがちです。
しかし、もし私たちが、そのような人を何らかの形でそのグループや集団から除こうとしたり、その人を変えてしまおうとしてしまうならば、それは神様の御心ではありません。たとえ自分にとって「毒麦」のように思える人であっても、神様にとってその人はその人のままで大事な存在なのです。
また、その人が「毒麦」に思えるのは、その人の問題ではなくて、私たち自身の問題である可能性もあります。私たちがその人のいい面を見ていないだけなのかもしれません。
さらに言えば、人間は常に成長し、変化していく可能性を持っているのですから、万が一、その人が本当に「毒麦のような人」であったとしても、神様の恵みによって変えられる可能性もあるわけです。
仮に、そのグループを良くしようと思って実際にその人を取り除こうとしたり、あるいはその人を私たちの思うように変えようとして努力してみても、かえって自分自身や、グループ内の他のメンバーに悪い影響が起こるかもしれないと思います。なぜなら、人間同士はつながっているからです。
しかし、無理をして、その人と付き合っていく必要もないでしょう。福音にあるように「刈り入れまで育つままにしてお」けばよいのだと思います。もちろん、現実はもっと難しく、もっと切実であることは確かです。それでも神様は、その人が除かれたり、無理に変えられたりすることをお望みにはならないと思います。

ところで、私たちは自分自身の中、特に自分の性格の中にも「毒麦」があるように、考えているのではないでしょうか。たとえば、これが無ければ自分はもっといい人間になるのにとか、これがあるから自分は人との関係がうまくいかない、などと私たちはしばしば自分自身のことで悩んでしまいます。
しかし、そういう自分の中の「毒麦」に思える部分を刈り取ったり、無くそうとすることもやはり神様の御心ではないと思います。もちろん努力によって、ある程度改善できる場合もあるでしょうし、改善する努力は必要かもしれません。でも、そういう部分を完全に無くすことは出来ないのです。本当に無くそうとするならば、それは自分を壊すことにもなりかねなません。なぜなら、そのような部分も私たちの一部だからです。
もし、そういう部分を完全に変えることが出来るとすれば、それは神様のお恵みによる場合だけだと思います。むしろ、そうした「毒麦」のような部分こそが自分の力、自分の強さへと変えられていくのではないでしょうか。
今日の第一朗読で言われていたように、神様は本当に寛容な方です。そして、私たち一人ひとりに回心の恵みを豊かに与えてくださる方です。だからこそ「毒麦」も育つままにしておかれるのです。そして、何でもお出来になる神様は、「毒麦」を良い麦に変えてしまうことさえもお出来になるのだと思います。
聖パウロの勧めに従い、聖霊の働きに信頼して、私たちの心を変えていただく恵みを、神様が与えてくださるように、ご一緒に祈り求めていましょう。
日, 07/13/2008 - 00:00
私の父はカトリック、母はプロテスタントで同じではありませんが、ある時父が母をカトリック教会のミサに連れて行きそこで母は数人の神父様を見て感銘を受け、将来、男の子を授かったらこの神父様たちのような人にしてくださいと願ったそうです。私の兄弟は、祖母(父の母)の計らいで皆カトリック信者になっていますが、私はこの祖母に連れられ5,6歳のころから毎日教会に行きミサに与り、小教区の神父様を見て8歳の時、自分もあのようになりたいと思いました。 高校の最後の学年の時そのことをもう一度考えてみました。初聖体の時から堅信の時まで小教区はドミニコ会の同じ神父様がつとめていましたが、とても親切で、貧しい人々や困っている人々を度々訪問し、彼らの悩みを聴いている姿を見て、私も司祭になろうと思ったのです。
私の歩んできた道を振り返ると、母の祈りに始まって、祖母の導き、小教区の神父様の模範、そして神学校に入ってからも恩人の方々、ケンズ神父様、保土ヶ谷教会の皆さんのお祈りと援助、また、神の愛がなければ、司祭叙階の恵みを受けることはできなかったと思います。私の為に多くの方々が祈ったり、援助してくださったことにとても感謝しています。
今日の福音(マタイ13章1-13節)で、イエスは種を蒔く人のたとえを用いて群衆に語っています。種を蒔く人は自由に種を蒔いたので、種は良い土地だけでなく、道端や石だらけで土の少ない所、茨の間にも落ちました。私達はこのたとえで土壌と結果の関係をはっきり見ることができます。
日, 07/06/2008 - 00:00
今日も聖書を通して、
「疲れた者、重荷をになって苦しむ者、わたしのところへ来なさい。休ませてあげよう。」と、
イエスは生きている声で私達に呼びかけています。
これは、イエスご自身からの、私達への「祈り」の招待です。 それでは「祈り」とは何でしょうか?
簡単に言えば祈りとは親しい友人同士の会話です。イエスは「あなたは私の友である」とおっしゃいました。
聖オーガスチンは友人としてのイエスを、「私のことをすべてわかっていてくださっていて、それでもあるがままの私をうけいれてくださる方」と表現しています。イエスはこの「友人」という言葉を使うとき、聖書でどのように使われていたかを熟知したうえで使っています。聖書にあらわれる「友人」をみてみると、シラ書6-14では、
「信義に厚い友人は安心できる避難場所、そのような場所をひとつでも持っているものはまたとない宝を得たも同然」
「信義に厚い友人は値がつかないほど貴重であり、その友情の価値ははかりしれない」
「信義に厚い友人は命をあたえてくれる薬。神を崇める者はそのような友人を持つ」
米ミシガン州サギノー司教であったケン・アンティーナ司教(2004年没)は、「小さな本」(白本、青本、黒本)と名付けた本を書きました。その本では、短い聖書の一節が掲げられ、読み手はその内容について6分間イエスと話しあってみるよう促されています。(祈りの中で「話す」とは、静かな環境で、自分自身の言葉を使って、友人であるイエスに、お互いの存在を味あうことをいいます。) 6分間の祈りをやってみましょう。
現在の忙しい世の中では、私達はみな疲れ果て、私達はみなそれぞれの種類の心の重荷をせおっているのです。あるがままの姿で、イエスのところへ行ってみましょう。私達はイエスから招かれているのです。イエスは「休息」と「安らぎ」を約束してくださいました。
私達はまた、毎日ひっぱるべき重い「人生のクビキ」を首にかけられています。これを、自分自身だけがひっぱるものでなく、イエスとともに引っ張る二頭立てのものにしましょう。そうすることにより、とても軽く、容易にひっぱることができるようになるのです。
日, 06/29/2008 - 00:00

聖パウロの生誕2000年を記念して、今年の6月28日から来年の6月29日まで、私達は「聖パウロ年」をお祝いします。

聖パウロは、「力」や「強さ」という言葉を、私達が普通使っている意味とほとんど逆と言っても良いほど、非常に特別な意味で使っていました。 その一つの例として、今日の聖書朗読(2テモテ4章17節)では、「主は私のそばにいて、力づけてくださいました。」とあります。 また第二コリント人への手紙(12章9節)ではイエスはパウロに「あなたが弱っている時こそ、(あなたに与えられる)私の力は最も強くなる。」と言っており、これをパウロは自分自身(そして私達)に、「だからこそ、私が弱っている時こそ、私は強くなる。」と同10節で結んでいます。

ここでイエスとともに歩んでいく第一歩を踏み出してみましょう。 まず、私達は自分が自給自足の、完全に自立した存在ではないこと、心安らかで満ち足りた日々を送るためには私達自分自身の力だけでは力不足であること、このようなことを認めることが必要なのです。 私達人間は、はかない、頼りない存在です。 私達は、(聖書的な意味で)「弱い」のです。 言い換えれば、私達は神の力に頼っているのです。 神に頼らなければならないことを認めましょう。 はかない、不完全な人間にとって、神への依存は健全なものなのです。

今日の聖書朗読(2テモテ4章6−18節)で、パウロは収監され、死に直面していました。 パウロは当時ギリシアで行われていたオリンピア競技のイメージを使って説いています。 自分自身の人生を振り返り、「私はレスリング競技をよく闘い、マラソンのコースを走り切り、そして今イエスから、朽ちてしまう月桂冠ではなく、栄光の冠をいただきたいと思っています。」 あなたは人生を終える時に、このように言えるようになっていたいとは思いませんか? わたくしは実にそう思います。

さあ、パウロのように人間のはかなさ、人間であるからこその弱さを認め、私達に力、強さ、助け、勇気を与えてくださるイエスに助けを乞いましょう。

私達誰もが、聖パウロと同じように、「主は私のそばにいて、力づけてくださいます。」と言うことができるのです。 ゆっくりと、静かにこの言葉をかみしめてみましょう。 私達の一日を、そして実に一生にわたって、励ましてくれる言葉です。

日, 06/15/2008 - 00:00

今日の出エジプト記ではモーゼが神に会うために山に登り、神と話す場面が出てきます。 出エジプト記33章11節では、「人が友達に語るように、主はモーゼと顔を合わせて話された。」とあります。

しかしモーゼは例外でした。 その時代、ほとんどの人々は神をおそれ、神にあまり近づかない方が良いと考えていました。 そこで神は、優しくまた人間の弱さをよくわかってくださっているという神の本当の心を伝える為に御子イエスを私達に遣わせたのです。 神は私達人間と暖かい関係を結びたいと望んでおられるのです。

この神の暖かい心はイエスの教え(たとえば放蕩息子を歓迎する寛大な父)だけでなく、イエスご自身の人間性そのものにもよく表れています。 イエスは人々の心にとても敏感でした。 イエスは人々の苦しみを共に感じることができたのです。 今日の福音で、イエスは様々な事で傷つき、弱り果て、打ちひしがれている群衆を見ました。 福音には、'イエスは彼らに対して深く憐れまれた。'とあります。 英語の同情とは文字通り、人々と共に苦しむ、という意味です。 イエスは、この世にいらした時も、そして天に昇られた今も、私達一人一人に対して深い憐みの心を持ってくださっています。今日の福音でイエスは弟子たちを名前で呼んでいたように、私達一人一人を名前で呼んでくださいます。 私達一人一人をよく知っておられ、神にとって私達は単なる大衆のうちの一人ではありません。

今日もイエスは私達のストレス、心の傷、心配事や憂うつ、孤独など私達人間の弱さを見てくださっています。 イエスは私達が裏切り、ひどい言葉や扱いに傷ついていることを知っておられます。 私達と共に苦しんでくださいます。 イエスは本当の人間になられたので、私達と共にこのような苦痛も経験されました。 それゆえ、私達はイエスに安心して近づくことができます。

さあ、祈りの山に登り、イエスに会って心のすべてをイエスにさらけ出しましょう。 イエスは「重荷を負っている者は、私のもとに来なさい。」とおっしゃっています。

そして私達は堅固なものの上に降り立ちましょう。 今週、毎日少なくとも5分は静かな雰囲気の中で神とのふれあいを持ちましょう。 自分自身の言葉で、あるいはもう言葉も無しで、ただ神の憐みを味わってみましょう。

日, 06/08/2008 - 00:00

皆さん、聖書の中で、どれほどたびたび食事の場面が出てくるかご存知ですか? 新約・旧約聖書ともに、これは「宴のテーマ」と言われており、とても深い象徴的な意味があります。 例えば、旧約では、万軍の主が山の上で宴を調え(イザヤ25章6節)、主は私のために食事を調え(詩篇23章5節)、新約ではイエスは、ザアカイと、マタイと、またエマオへと向かう二人の弟子と共に食卓につき、さらに、最後の晩餐、カナの婚礼、パンと魚を増やした逸話など、枚挙にいとまがありません。

イエスの有名なたとえ話に、放蕩息子に対して父が祝宴をはる話があります。この話の深い象徴的な意味は、食事の時、家族がくつろいでお互い仲間であることを楽しむ(同じ釜の飯を食う)ということです。これは神と私達一人ひとりの関係、あたたかくうちとけた親しい間柄の象徴です。

5月30日の読売新聞に「日本人と宗教」についての調査結果が出ていました。日本人の72%は無宗教、43%は宗教は「怖れ」を使っていると感じている、とのことです。ならば、イエスの本当の、真実の教えとはいったい何でしょうか。

イエスはマタイを呼んだように、私達を呼んでいます。その呼びかけに応じるのも、無視するのも私達の自由です。(マタイ19章では、金持ちの若者に拒まれてなお彼を愛すイエスの話が出てきます。) 今日の聖書朗読の中で、イエスは、「マタイ、来て私に従いなさい」と言い、マタイは立ち上がってイエスに従いました。そののち、イエスはマタイの家で食事をします。この「食事」とは、偶然の描写ではなく、聖書の中で核心的な意味を持っています。イエスは、マタイを、あたたかくくつろいだ親しい関係に招いたのです。

私達も、同じようにイエスに招かれています。聖書は常に、「永遠の現在形」で書かれています。私達も、神との気さくでくつろいだ、暖かな関係に招かれています。これこそが私達の信じる宗教の根幹、イエスの道なのです。ですから「怖れ」などあなたの心の中から追い出してしまいましょう!

私達は祈りによってこの暖かい関係を育てていきます。アヴィラの聖テレジアは「祈りとは私達を愛してくださる親しいイエス様との心と心の会話です。」と言っています。さあ、やってみましょう。神様の暖かさを味わいましょう

日, 06/01/2008 - 00:00

今日の聖書朗読の中でのキーワードは「岩」です。イエスは今日の建築においてもなおあてはまるたとえ話をしています。例えば、東京は昔は湿地帯でありました。建物を建てる時には、深い所にしっかりとした基礎を築くことが大切です。岩盤層まで掘り起こして基礎を築くことができれば最善です。もし基礎が弱ければ、地震や洪水で建物は崩壊してしまいます。

私達人間も、私達の日常を築くためにしっかりとした基礎、岩盤の上の基礎を必要としています。

イエスは、イエス御自身の言葉がそのような基礎になる、とおっしゃっています。イエスの言葉(あるいは教え)は、一言でいえば、「神は愛である」ということです。私達だれもが、私の優しい父である神は、私を愛してくださる、と言うことができます。その愛は無条件の愛であり、ありのままの私を愛してくださるのです。

もし私達が人生の嵐、地震、洪水とでもいうべき事態に遭遇した時に、この言葉を思い出しましょう。苦痛、孤独、悲しみ、裏切りなどに苦しんでいる時に、私達の人生の基礎「神は私を愛している」にしがみつきましょう。

詩篇31章を通して読んでみましょう。この詩篇を書いた人はとても切ない人です。彼は自分の「岩」である神に泣き叫んでいます。生々しく詳細に、彼はその苦しみを神の前にさらけだし祈っています。そして15節では「神様、私は私の人生をあなたの御手にゆだねます。」と言っています。

神は愛です。アッバ、私の優しい父である神よ、あなたは私を個人的に愛してくださり、心にかけてくださいます。どうかその愛を、私の全人生の盤石不動の基礎とさせてください。

「神は愛である」 この事実は私達を自由にしてくれ、日々の暮らしを味わい深いものにしてくれます。喜びと熱意がわいてきます。やってみましょう。

ゆっくりと、祈りの心を持って詩篇31章を読んでみましょう。

日, 05/25/2008 - 00:00

今日は教会では、ラテン語でコーパス・クリスティ(キリストの聖体)と呼ばれる特別な祝日です。最後の晩餐でイエスはパンを掲げ、厳粛に「これは私の体である。これを私の記念として行いなさい。」とおっしゃいました。「これは私の体である。」という言葉は、「これは私自身であり、あなたの心を強める食べ物である。」という意味です。

しかし、引き続いてイエスはとても重要な、深遠な意味に満ちたことを言っています。「これを私の記念として行いなさい。」 この「記念」ということばは聖書学的には特別な意味を持っています。厳粛にその行為を繰り返すことにより、過去の行為が現在に再現される、という意味です。(この意味での「記念」はキリスト教のみに見られることではありません。たとえば、豪州原住民アボリジニの原始宗教でも過去の出来事を祝うことによって、そのことが現在の自分たちに再現されると信じています。宗教的行事という意味ではカトリックのミサも同様です。最後の晩餐は現代に生きる私達に再現されるのです。)

イエスはミサにおける御自身が、私達の心の食べ物であることを示すために、パン(種なしパン)を選びました。ちょうど普通の食べ物が私達の身体に力を与えるように、イエスは私達の心に霊的な活力を与え、それにより私達は日常生活を乗り切っていけるのです。

イエスは私達に親しくしてくださいます。私達が日々、人生の旅路を歩むうえで、イエスは共に歩き、助けてくれる友達です。

そんなイエスの食卓に招かれている私達は、まことに、幸いなのです。

注: 親しみ、友人を意味する英語「コンパニオンcompanion」は、com = with, pan = bread, の2語より造語されており、「共にパンまたは食べ物を食べる」意味からきています。

日, 05/18/2008 - 00:00

私の持っているカメラでは、写すときにマニュアルで焦点をあわせなければなりません。そうしないと、ぼんやりとした画像になってしまいます。同様に、私たちが神に向かい合う時に、「心の焦点」を合わせる必要があります。さもなければ私たちの祈りはぼんやりとして霧がかかったようなものになってしまいます。

さて、ここでいう神と誰でしょうか? イエスは神は唯一ひとつの神しかいないと強く言っていますが、その唯一の神は、父と子と聖霊の三つのペルソナからなっているとも言っています。こう言われてみて、ではどう三つに分けたらよいかなどと難しい神学的算数を始めたりせず、この教え自体がどのような精神に基づいているかをご理解いただきたいと思います。神が三つのペルソナからなる、すなわち三位一体は神の内面の説明であり、すなわち神秘です。この教えの精神は、神はあなた自身のために、特別な愛を持っており、その愛と一体となることができるということです。味わってみましょう。

父である神:私たちは神の愛に包まれた神の子です。神は私たち人間の弱さ、はかなさをよく知っておられ、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。今日の第一朗読、出エジプト記でユダヤ人は神を拒み、別の神を拝みました。これにもかかわらず、「神は憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた神である」と書いてあります。

子である神:人間としてこの世に現れたイエス・キリストのことです。2,000年前、イエスがどんなに優しく、許しに満ち、親切であったかは聖書にある通りですが、それは今日、私たち一人一人に対しても全く変わりません。「私はあなたを名前で呼ぶ。私はあなたと共にいる。」

聖霊としての神:平和、力、慰めの源泉です。聖霊は私たちの心に暖かさ、導き、力、つまり一言でいうと「愛」を与えてくれます。 洗礼の際のことばは「父と子と聖霊の名により私はあなたに洗礼を授けます。」となっていますが、これは、私たちは神ご自身の暖かさ、庇護、そして親密な交わりに招かれていることを意味します。この極めて深い意味を理解することができれば、私たちの日常は、喜びに満ちた日々となるのです。

日, 05/04/2008 - 00:00

第2次世界大戦中、ドイツの都市ドレスデンは激しい爆撃を受けました。街は廃墟と化してしまいました。ある教会は破壊されて瓦礫となりましたが、戦後、信者たちはその瓦礫の中から爆撃前に聖堂の外に立っていたキリスト像を見つけ出しました。それはイエスが両手を広げ私たちをあたたかく迎え入れている様子をあらわした像でした。像の胴体の損傷はわずかなものでしたが両の手は爆撃によって失われてしまったのです。
信者たちは教会を建て直し、両手を失ったその像を聖堂の外に置きました。像の土台にはこのように書かれています。
「あなたがたは私の手です」 今日の第一朗読(使徒言行録)でイエスは弟子たちに、そして今日の私たちにも 「あなたがたは力を受けて地の果てまで私の証人となる。」と言っています。イエスは、私たちがそれぞれが暮らす社会で、キリストの平和の道具となるように求めているのです。 例えば、 熱のある人の額に手を当てる時、それはキリストの平和を伝えるためにイエスの代理としてやっているのです。私たちはイエスの手です。さらに、苦しみに打ちのめされている人を訪れる時、私たちはイエスの足です。人を励ますときはイエスの口です。悩み事を聞くときはイエスの耳です。
「証人になる」とはこういうことです。けれども、私たちは自らの能力だけでそのようなことを行うのではありません。
私たちに託した使命を成し遂げるため、イエスはその強さや力を与えてくださる、ということを肝に銘じておきましょう。
イエスは今日も聖書を通して生きている声で私たちに語りかけます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。

日, 04/27/2008 - 00:00

「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう準備していなさい。」(1ペテロ、3-15) キリスト教信者の希望とは何でしょう? わたしはある女性を思い出します。いまは故人となられたその方は、車椅子で痛みを堪える毎日でしたが、人に会う時には微笑みを絶やしませんでした。彼女に会っておしゃべりをすると、わたしはいつも心あたたまる思いをしたものでした。ある日、わたしは直接彼女に尋ねました。「爽子(さやこ)さん、なぜあなたはいつもそんなに楽しそうなのですか?」 彼女の答えは、一生忘れがたいものでした。 「イエス様が共にいてくださると信じています。私達はともに毎日を過ごしているのです。」 これこそが、真に実在する希望なのです。
キリスト教信者の希望は、その基盤として、「神はあるがままの私を愛してくださる」という教えにあります。神は私が善人だから愛してくださるのではなく、あるがままの弱い私を愛してくださいます。神様が私をおつくりになったからです。

さらに、大衆の中の一人として愛してくださるのではなく、私個人を特別に愛してくださるのです。「神は私を名前で呼ぶ。神の目には私は値高く、神は私を愛してくださる。」(イザヤ43)。

今、私達は人生の旅路において希望をもっています。しかしこの希望は私達の旅の目的地が明確に理解できれば、さらに強まります。その素晴らしい目的地とは、神との完全な一致、すなわち「天国」です。

聖書はまるごとすべて神が人間をどのように扱ってきたかという歴史です。この歴史は続いていて、現代の歴史の中にも神は生き続けています。このことで私達は希望を持つことができます。
希望は、まったく神からの贈り物であり、私達が作り出すことはできません。それを乞い願いましょう。そしてこの贈り物を他の人たちと分かち合いましょう。機会があればペトロが言ったように神はありのままの私達一人ひとりを愛してくださるから、私達には希望があるということを人々に伝えましょう。
もしあなたが何かに苦しんでいたり、何もかも絶望的に思えたとき、詩篇22章を読むことをおすすめします。1-18節で詩篇の書き手は自分自身の苦しみを神にぶつけています。そして19-31節で希望が訪れ、他の人々に神による救いを述べ伝えるようになるのです。

日, 04/20/2008 - 00:00

イエスは「私は真実である」とも「私は教えである」とも言っています。
しかし、私たちはイエスその人よりも、イエスの教えの方を重視しすぎていないでしょうか。ここで申し上げておきたいことは、イエスの教えや定めは確かに大事です。しかし、私たちが人間イエスと真に出会い、イエスを私たちの人生と心に受け入れない限り、その教えや定めは頭だけの知識、うわべの儀式となってしまいます。
イエスを心で受け止め、日々の暮らしに映し出す、このことはキリスト教の核心部分であります。ペテロが「イエスは私たちの人生のカナメ石」と言っているように、イエスは私たちの日々の暮らしの真の助けとなります。初期教会の信者はこのことを「イエスを私の人生の王として受け入れます」と表現していました。
このイエスと出会うために、私たちは福音書を開き、祈りの心をもって聖書を読む必要があります。今日の福音ではイエスが弟子たちに語りかけています。イエスは弟子たちの足を洗い、自身の死やペトロやユダによる裏切りを予言します。弟子たちは、落胆し、悲しみそして恐れました。イエスにはそれがわかっていました。イエスは大変思いやりのある方です。彼は弟子たちを励まします。
「心悩ますのではない。私は死ぬが、復活してあなた方が人生の目的地である天国へ無事に行けるよう、共に人生の道を歩むために戻ってくる。」
イエスは、この言葉を、今日この時も、生きている声であなたに語りかけています。この言葉、この励ましを味わいましょう。
「私は真実である」とは、真のキリスト教徒であるためには、私たちは人間イエスご自身に会わなければならないということです。
これは、聖書に書かれている優しいイエスについて読み、祈りを通じてイエスに近づくということです。イエスに語りかけ、共にいることを味わうのです。ぜひ今週、やってみましょう。

日, 04/13/2008 - 00:00

復活節第4主日は「良き牧者の主日」と呼ばれています。イエスは詩篇23章で次のように述べご自身が誰であるか示されています。「私は
良い牧者である。私は羊をそれぞれ名前で呼び、彼らは私の声を聞き分け、私に従う。」
これに関して今日は、教皇ベネディクト16世が最近お出しになった書簡「キリストの希望について」の一節(第六部)の要旨をご紹介いたします。
「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない...。私はたとえ死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共にお られるからです(詩篇23章)。 私たち一人一人は、人間である以上、必ず死を迎えます。死への歩みは、私たちが一人ぼっちとなり、最 終的に孤独となるかのように見えます。しかし、それは違います。私たちは死を迎える時も決して一人ぼっちではないのです。イエスは私た ちのすぐそばにいらっしゃいます。イエスご自身が死の恐怖と寂しさを経験し、そして私たち一人一人にこう語りかけてくださるのです。「 恐れるな。私はあなたと共にいる。」
イエスは死を経験されましたが、死を迎える私たち一人一人につきそうために、復活を通して戻ってこられたのです。「あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます。(詩篇23章)」
(ここで言う「慰め」の本来の語源が、「励まし」あるいは「力づけ」からきていることを思い出しましょう。)
詩篇23章は大いなる慰めです。教皇様がおっしゃっているようにそれは「新しい希望」の源泉です。このホームページをご覧いただいているどなたでも、もし何か恐れや悲しみにとらわれているのであれば、ゆっくりと祈りの心をもって詩篇23章を読みかえしてみてください。
「私は良い牧者。私は私の羊をそれぞれ名前で呼ぶ。」というイエスの言葉を思い出してください。実に、イエスという門を通って、私たちは新しい希望を見つけることができるのです。このような希望を持つことで、私たちの日々の暮らしが活気に満ちたものになるのです。

日, 04/13/2008 - 00:00

 

昨年に引き続きまして、世界召命祈願日に召命についてお話させていただくことになりました。昨年は、主に私が神学校に入るまでのことについてお話しましたので、今回は神学校に入ってからの歩みについて、特にこの一年の間に思ったこと、気付いたことを、みなさんと分かち合いたいと思います。

話に入る前に、まず一粒会の活動や、祈り、あるいは様々な形での助けや支えを通して、私を支えて下さっている保土ヶ谷教会共同体のみなさまに心からお礼を申し上げます。本当にいつもありがとうございます。自分でも不思議ですが、神学校に入って、時間が経てば経つ程、小教区の皆様の祈りと支えによって、自分の召命が生かされていることをよく感じるようになりました。どうぞ、これからもよろしくお願い致します。

さて、この春から私の神学校での5年目の生活が始まりました。東京カトリック神学院での養成は6年間ですから、もし順調に行けば、あと2年で卒業となります。そして、神学校での6年目は助祭として過ごすことになっているので、あと1年でもしかすると助祭叙階となるかもしれません。正直に申し上げると、「もうあとそれしかないのか!どうしよう?!」という思いです。

今思うと、神学校に入ってからの最初の3年間位は、「6年という神学校生活は長い、6年間養成を受ければ、自分も成長して、叙階にふさわしい者になれるだろう」という甘い考えを抱いておりました。同時に神学校という自分にとってまったく新しい環境に適応していくのに精一杯で、目の前のことにばかり目が行きがちになり、一番大事なことであるはずの「司祭召命」について、あまり深く考えていなかった気がしています。

そのような自分の意識に変化が訪れたのは、神学校の3年目が終わった去年の春休みでした。大阪のカテドラルで行われた神学校の先輩の司祭叙階式に参加した時のことです。目の前で司祭に叙階される先輩の姿を見てふと、「もしかしたら、自分も3年後にはこうなるかもしれないのだ」と初めて実感したのです。

そう思った途端、焦りと恐怖の入り混じった感情に襲われました。「どうしよう、あともう3年しかない!」と心の中で叫びました。それまで3年間の養成を受けてきたものの、自分が当初思い描いていたようには、成長していないと思ったからです。今までのペースで考えると、残り3年で自分が最初に考えていたような自分にはとてもなれないと思ったのです。

反面、気持ちがそれ以前よりも引き締まったのは確かだと思います。加えて、上級学年になって責任が大きくなったことも心に良い緊張感をもたらしてくれました。そして、何よりも司祭召命についてもう一度考え始めるきっかけになりました。「司祭職をめざして、自分はどういう準備をするか」「自分は横浜教区の司祭としてどのようでありたいのか」などと考えるようになったのです。もちろん、それまでの3年間にそのことを全く考えなかったわけではありません。しかし、実感をもって真面目に自分の司祭召命について考えたのはこのときが初めてだったと思います。神学校での生活にようやく慣れてきて、先のことを考える余裕が少し出来始めたことも助けになりました。

ところが、考え始めてみて、考えれば考えるほど、自分が頼りなく思えました。今思うと、自分は自分の中で「あれもこれも出来る理想の司祭像」を思い描いて、出来ないことばかりの弱い自分を嘆いていたのかもしれません。よく考えてみれば、「理想の司祭」は、イエス・キリストただお一人だけであり、他のどんな人もなることが出来ないはずなのですが、なかなかそのことを心に留めることが出来ませんでした。

今でも依然としてそのような傾向が自分の中にはあります。しかし、神様の導きと多くの方の助けによって、最近は少し召命への理解が変わってきたように感じています。「神様は、ありのままの弱い私を招いてくださっているのだ」と思い始めました。目指す司祭像についても、それまでは「あれもこれも出来る司祭」というイメージとは全く異なる、「ありのままの弱い自分を神様に使っていただく司祭」というイメージが自分の中に生まれてきました。つまるところ、自分の弱さ、足りなさとやっと向き合い始められたということなのかもしれません。

こういうわけですから、神学校生活5年目を向えて、ようやくスタートラインに立ったような気がしています。来年助祭叙階の恵みが与えられるように祈りながら、「司祭召命」の意味を自分なりに深めていきたいと思っています。どうぞお祈り下さい。

日, 04/06/2008 - 00:00

 

今日読まれた福音は私たちの日常生活にとって大切なものです。私たちは人生の道を旅しています。(福音の二人はエマオへ旅していま
す。)この福音は私たちの日常生活に影響を与える、象徴的な比喩に富んでいます。イエスは私たちとともに、人生の道を歩んでくださいま
す。(詩篇16節の表現を借りれば、同伴者として、共に歩んでくださるのです。)次に、私たちはイエスを、イエスと認識しているでしょ
うか。そして、わたしたちは自分の悩みや心の痛手をすべてさらけだしているでしょうか?祈りの中で神に話すときに、自分自身、ありのま
ますべてを見せているでしょうか?それこそが神が望まれていることであり、イエスは着飾った、「あるべき」姿などを望まれてはいません
。神はありのままの私をお望みです。もし、悲しかったり傷ついていたりしたら、そのような私に会いたいと思っておられます。また、もし
幸せであったり、どんなことでもちょっとうまくいってたりしたら、神はそれをともに喜びたいと思っていらっしゃいます。
イエスは決して自分自身を人に押し付けたりはしません。イエスは、今日の福音の二人がイエスに「一緒に今夜お泊まりください」とお
願いしたように、私たちの側からの招きを待っておられます。私たちは、このエマオへ向かっていた二人がしたように、イエスを招くことが
できるのです。
復活後のイエスの生き生きとした描写を通して、福音は祈りとは何であるか、またどのように祈るべきかということまでも教えてくれま
す。私たちは祈りをとおして、イエスのために時間を使わなければなりません。忙しい日常ではありますが、短くても静かな祈りの時間をも
ち、いろいろな事柄をイエスと語りあうことが必要です(これが、前述のイエスへの招きに相当します)。もしこれを私たちが行えば、私た
ちはよりよい毎日をすごすことができます。なぜでしょう?なぜならば私たちは人生を一人ぼっちで歩むのではなく、イエスとともに人生を
歩み、イエスがあなたの力と導きになるからです。
祈りの雰囲気の中で、福音をひもとき、一節一節をゆっくり読んでみましょう。復活したイエスは福音を私たちに説明してくださり、さ
らにその深い意味を教えてくださります。
人生を一人ぼっちで歩くのではありません。イエスは今日も生きている声で私たちに語りかけているのです。
「恐れるな。私はあなたと共にいる。」
日, 03/30/2008 - 00:00

 

今日は「神の慈しみの主日」と呼ばれる日です。この、「神の慈しみ」とは、いったい何でしょうか? 辞書の文言のようにこの言葉を解説しても、あまり意味がないでしょう。でも、イエスが示された、慈しみの完璧なお手本をみれば、だんだんわかるようになります。イエスが人々に示された愛を通して「神の慈しみ」を見ることができます。「慈しみ」はヘブライ語の「ケセ」の翻訳です。この言葉は、愛、約束された愛、慈しみ、思いやり、愛情深い優しさ、などと訳されています。ここで復活後イエスが示された慈しみ深い愛の例をみてみましょう。
イエスは泣いているマグダラのマリアに会うと、優しく「マリア」と声をかけました。失意にくれて故郷のエマオ村へ戻ろうとしていた二人の弟子に対して、イエスは優しく慰め、また教えを授けました。また、イエスは自分が決して幽霊ではないことを証明するために、わざと揚げた魚の切り身を食べてみせました。ペテロがイエスの弟子であることを否定したことをイエスは知っていましたが、そのことについて怒ろうとはせず、そのかわり「ペテロ、わたしを愛していますか?」と尋ねたのです。そして今日の福音では、イエスが生きていることを信じられないと言った弟子トマスが描かれています。復活されたイエスはそのトマスの前に再び現れますが、イエスはトマスのそのような疑いに理解を示し、怒ったりはしませんでした。ただ、優しく、思いやり・慈しみ・理解を示されただけでした。
聖書にでてくる、このように優しく、思いやり深いイエスは、この今現在も私たちと共に生きているのです。祈りを通して、聖書を通して、共同体を通して、聖体拝領を通して、わたしたちは同じイエスに出会うことができるのです。イエスは、人間の心の中にある、神の慈しみなのです。
信仰に対して疑いを持つことは、とても自然なことです。英国のニューマン司教は「疑いなき信仰は死んだも同然です。」と言っています。疑いをもつことこそが、わたしたちの信仰の意味について深く考えさせ、信仰を強めてくれるというのです。この意味で、疑いを持ったトマス、そしてその疑いを優しく受け止めたイエスは、私たちにとって希望を与えてくれます。慈しみにあふれたイエスは、今日、私たち一人一人に次のように言います。
「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」
イエスの慈しみを味わいましょう。
日, 03/16/2008 - 00:00
今日は受難の主日、聖週間のはじめの日です。イエスの受難と、それが今日に生きる私達にとってどう意味するかを完全に理解するために、次の2点は非常に重要です。

ポイント①:イエスは真のそして唯一の神ですが、一時的にその神性をわきに置いて、真の、本当の人間になっていました。イエスは部分的に人間になっていたのではなく、 あなたや私と全く同じような人間であったのです。(今日の聖書朗読、パウロのフィリピの教会への手紙第2章6-11節にもそれは書かれています。) それゆえ、イエスが経験なさった苦しみは、本物だったのです。

ポイント②:これらすべての恐ろしい苦しみの裏にあるものは、私達一人一人への愛です。イエスの受難はイエスの愛の証明です。私達一人ひとりが、聖パウロ と共に「イエスは私を愛し、私のためにこの世にお生まれになった。」と言うことができるのです。今日の福音、マタイによる主イエス・キリストの受難(マタ イ27・11-54)を見てみましょう。イエスは、普通の人間と同じように、友人であったユダの裏切りを感じていました。イエスの心は切り刻まれているよ うでした。さらに、イエスが愛した人々は、嫉妬深い指導者に煽動されてイエスのかわりにバラバの釈放を要求しました。それはあまりにも不公平、不正、ひど いことでした。このような裏切りに私達が傷つくように、イエスも傷ついたのです。そして、兵士が革のムチでイエスを鞭打ち、王冠を模したイバラの冠をかぶ せてイエスをあざけり、いじめました。そしてイエスにツバをかけ、打ったのです。これらすべての苦しみの裏にあるのは、あなたと私への愛です。私達に平 和、命、そして癒しを与えてくれた愛、なのです。キレネ人のサイモンが十字架を運ぶイエスを助けました。同じように、人生の中で苦しみの十字架を運ぶ私達 をイエスは助けてくださいます。しかし苦しみの中で、イエスは私達と同じような人間的な空虚な思いも感じておられました。イエスは御父から御自身に与えら れた慰めを感じなかったのです。心の底から、イエスは「私の父、私の父、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫んだのです。これらすべての苦しみ がはっきりと示しているものは、イエスの愛、愛、愛、愛なのです。私達が苦しんでいる時こそ、イエスは私達と共にいます。イエスは私達が苦しんでいる時に 共に歩いてくださる(同伴者)のです。
日, 02/24/2008 - 00:00
お祈りをしたいと思ったとき、どのようにすれば良いのでしょうか。アビラの聖テレジアは、祈りとは「私たちを愛してくださる主イエスとの心と心の会話である」と表現しています。簡単にいえば、祈りとは親しい友人同士の会話です。(イエスは「私はあなたを友と呼ぶ」と言っています。)
例として、今日のミサの聖書朗読で出てくる、会話の形態をとった二つの祈りをみてみましょう。出エジプト記ではモーゼは、自分の問題と恐れを神にあからさまにさらけだしています。福音ではイエスが井戸端で女とであった様子が描かれています。イエスは当時のおきてをことごとく破っています。ユダヤ人であるイエスがサマリア人に話しかけていますが当時ではありえないことです。しかも父や夫を伴っていない女に話しかけています。しかしイエスはそのサマリアの女の大きな悩みを理解していました。彼女は結婚に敗れたトラウマに苦しんでおり、誰にも会うことのない日中に水を汲みに井戸にやってきたのです。イエスは女に優しく話しかけました。自分から水を飲ませてください、と頼むことで女の自尊心に気を使ったのです。しかし、最も大事な点は、彼女のすべての心配や失敗、欠点も含めて、あるがままの彼女を受け入れたのです。これは祈りを行う時に、非常に大事な点です。今日私たちが祈る時にはこの点を忘れてはなりません。さもなくば、私たちの祈りは単に口先だけの、心が伴わないものになってしまいます。私たちはいつでもあるがままの姿で、神に受け入れられています。自信をもって神に向かいあいましょう。聖アウグスチヌスは、真の友とは「自分のすべてを知っていて、それでいてなお自分を愛し受け入れてくれる者」と表現しています。イエスはサマリアの女を友としました。同じようにイエスはあなたを友としたいのです。イエスは今も生きている声で私たちに語りかけています:「私はあなたを友と呼ぶ」。
日, 02/17/2008 - 00:00

日本の小説家遠藤周作の著書に「私にとって神とは」というものがあります。この本の中で、遠藤周作は自身の信仰の歩みを振り返り、そのうえでなぜ依然として神を信じているかを語っています。遠藤周作は神を、優しく、包容力があり慈悲深い神であると表現しています。

四旬節の間、私達は自分達自身の信仰をかえりみてみましょう。実際、「私にとって神とは」という問いほど、基本的な問いかけは他にはないでしょう。ここでは、私が信じる神についてご説明します。

わたしは、目ではみることのできない神様と、イエスの人間性を通して出会っています。神はイエスの形で人間となられました。福音を読み、人間の形をしたイエスがどんなに温和で優しく、人々の欠点を受け入れ、温かい心の持ち主であったかを知って、私は「これこそが真の神の心だ」と言うことができます。ひとりの人間にすぎない私が目で見ることができない真の神を、人間イエスを通して見る事ができるのです。イエスは100%神であり同時に100%人間であったのです。

今日の福音では山の上で神の栄光と光に包まれたイエスが描かれていました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子も一緒でした。まもなくこの三人の弟子はゲッセマネの園で苦しみの闇に沈む人間イエスを見ることになるのです。

イエスは私達を親しみやすい「おとうちゃん」ともいうべき天の父に導いてくださいます。イエスは私達を助けるために聖霊の力を送ってくださいます。

人間としてのイエスは、人間としての苦しみや悩みを経験しました。ユダの陰謀によりイエスの心は傷つきました。また十字架上で「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫んだように、孤独感も味わいました。このように神はイエスの人間性を通して、真に人間であることをすべて経験しています。それゆえ、とても近づきやすい神なのです。次のイエスの言葉は、実際、とても深い意味を持っています。
神は私達一人ひとりに言われます。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」

これこそが、わたしにとっての神なのです。

日, 02/10/2008 - 00:00

今年もまた四旬節がやってまいりました。(今年は特に、1913年以来の早い日付の灰の水曜日と復活祭です。)  大昔の灰のお祈りは、「罪から私を遠ざけ、福音に忠実であるようにしてください。」というものでした。
これらの言葉は聖書学的な背景を知ってから理解する必要があります。
例えばここでいう「罪」とは「的をはずしてしまった」ということです。私たちは的を狙いますが、うまくいかず、はずしてしまうのです。
四旬節では的をはずしてしまったことを認め、またやり直すのです。
「福音」はイエスを通して伝えられた神からの嬉しい知らせです。この、イエスの知らせのもっとも核心の部分は、「神は愛である」ということです。
そうなのです。これはイエスの一生と教えの集約であり、中心なのです。それはまことに良い、嬉しい知らせなのです。神は私を愛してくださるのです。
神は私を愛してくださる…この言葉の深い意味を静かに味わってみましょう。

神: 私たち人間を造られた神は愛、同情、理解、そして憐みをもって私たちに接してくださいます。
私: 私は弱く、はかない存在です。決心はしますが、それを破ってしまいます。もっと敬虔になるよう神に誓いますが、うまくいきません。神はそのような、あるべき姿の私でなく、ありのままの私を受け入れてくださいます。
愛: 神は私たち人間の弱さを何から何まで知っておられ、そして常にありのままの私を愛してくださいます。これが本当の愛です。

今日の聖書では神が人間を創造し、そして人間が神の力と智慧に頼ることを拒んだくだりが話されています。しかし、神は愛であり、寛大で憐み深い(詩篇51)のです。神は御ひとり子イエス、神であり人であるイエスを世に遣わされました。真の人間としてイエスは実際の誘惑に苦しみました。ですから、人間の弱さに苦しむ私たちは信頼をもって、同じ苦しみを経験された神に頼ることができるのです。
四旬節の特別な努めとして、5分間沈黙のうちにお祈りを捧げましょう。たとえば、「神は私を愛してくださる」ことを思い出し、その意味を味わい、かみしめてみましょう。
これこそが、あなたを自由にしてくれる真実なのです。

日, 02/03/2008 - 00:00

今日の福音はイエスの山上の垂訓と真福八端です。これらは私達の人生の生き方で あるイエスの示された道を歩む上で必要な、心の持ち方を示しています。
以前私は「心の貧しい」ということの聖書的な深い意味を、結局は神の助け に全面的に頼ること、と説明いたしました。
今日は他の真福、「心の清い人々は幸いです。なぜなら、彼らは神を見るでしょう。」
についてお話します。ここでいう「心の清い」とはどういう意味でしょうか。
元のギリシア語では「清い」とは「カタロス」という言葉で、混ざり物のない 絶対的に純粋な、という意味です。例えば、私の机の上には二つの日本の文鎮が あります。ひとつは鉄と銅の合金で銀メッキがしてあります。もうひとつは 100%鉄でできています。合金のものは、きれいですが、「純粋」ではありませ ん。鉄製のものは「純粋」です。だからといって、これらの違いが実際どのような意 味をもつのでしょうか?
それと同じくらいこの真福はよく理解されていないと私は思います。単に、性的な 分野に限定して「清い」と思われているかのようです。この意味はもっと、もっと広 い意味があり、私達にとって挑戦的でありまた励ましてくれるものでもあります。
この意味はまず100%私達の心を神に捧げるという意味です。お祈りの時だけでな く、日曜日だけでなく、日常のいかなる時にも、イエスのようになろうとし、イエス とともにいることです。平日もクリスチャンでいる、ということでもあります。
もっとひらたく言えば、優しく思慮深く、人の考えを受け入れ、他人に寛容であり、 学業、家業、仕事など自分の務めにベストを尽くし、正直であること、などになりま す。
一言でいえば、100%キリストのような純粋な心、お金や世渡りや名声など世俗的な価 値に混ざらない純粋な心でいる、ということです。
これを実践するには私達は絶対に祈らなければなりません。神と繋がっていれば、 神の力により、私達は純粋(カタロス)であり続けることができるのです。そしてそ の時、私達は神を見ることができ、私達の日常においていつも神がともにいてくださる ことを実感できるのです。

日, 01/27/2008 - 00:00

聖書箇所:イザ8:23b~9:3

Ⅰコリ1:10~13、17

マタ4:23

今日の福音朗読では、イエスの福音宣教活動の始まりが語られています。始まりの場所はガリラヤであり、福音のメッセージは「神の国は近づいた」というものでありました。

マタイ福音書の著者は、ガリラヤで福音を述べ伝えるイエスこそ、700年以上前に預言者イザヤが預言した「大いなる光」であると理解して、イザヤの言葉を引用しています。

イザヤがこのことを預言した頃、イスラエルはアッシリア帝国の侵略に苦しめられていました。第一朗読で「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」と言われているのは、ガリラヤ地方を含む地域が、アッシリア帝国によって占領されたことを指しています。

そ の結果、ガリラヤ地方には外国の宗教や文化が入ってくるようになり、ガリラヤ地方は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。当時のイスラエル の人々にとって「異邦人」とは神の救いから除外されている人々を指す言葉でありましたから、「異邦人のガリラヤ」と言う呼び方はまさに辱めの言葉であった と言えるでしょう。

しかし、イザヤはそのようなまさに真っ暗闇の状態の中にいたガリラヤの人々が「大いなる光を見る」と預言したのです。ガリラヤの人々にとってイザヤのこの預言は、絶望の中にいる自分たちに救いが訪れるという希望をもたらすものであったに違いありません。

マタイ福音書の著者は、イザヤの書のこのような背景を知った上で、イエスがまさに「救いの訪れ」であり、「神から与えられた希望の光」であることを、イザヤの預言を引用することによって、私たちに伝えようとしたのです。

と ころで、私は今日の第一朗読を読んだ時に、ふとこんなことを思いました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見た」とあるけれども、実は「闇の中にいるからこ そ、光を見ることができるのではないか」と。つまり、絶望的な苦しみの中にいた人々だからこそ、神からの光、希望の光を見ることができるのではないかと 思ったのです。

夜空の星を例にとって、考えてみましょう。どんなに天気が良くて空気が澄んでいても、新宿や渋谷などの人工的な光に溢れている場所では、あまり多くの星を見ることができません。

反対に、街灯も殆どないような、人口が少なく自然の多い地域に行くと、「空にはこんなにたくさん星があったのか」と思うほどのたくさんの星を見ることが出来ます。

星の数は変わっていないのに、星を見る場所の明るさ暗さで、見える星の数は変わっていく。人工的な光が少なければ少ないほど、見える星は多くなる。

そこまで考えたとき、「神からの光であるイエス」は、「大いなる光」と呼ばれているけれど、ひょっとしたら本当は、大都会では見られない小さな星の光のようなものなのではないかと思ったのです。

私たちは、しばしば光であるイエスを見ることよりも、自分を光輝かせることに気持ちが行ってしまって、自分を人工的な光で飾ろうとしてしまいます。つまり、「神からの光であるイエス」以外のものや人によって自分を光輝かせようとしてしまうのです。

今日の第二朗読でパウロが警告しているのも、イエスではないパウロやアポロやケファにつくことによって自分を輝かせようとすることに対してではないでしょうか。

何 がその人にとっての人工的な光であるかは、人それぞれだと思います。ある人にとっては、自分の能力を高めることによって輝こうとすることかもしれない。別 の人にとっては、自分の地位や名声や評判を高めて光ろうとすることかもしれない。また、他の人にとっては、経済的に、あるいは社会的に成功して光輝こうと することかもしれない。しかし、神からでる真の光を見るためには、自分を飾っている照明のスイッチをすべて切る必要があります。スイッチを入れたままで は、自分を飾っている光の眩しさのために、イエスの慎ましい真の光が見えないからです。スイッチを切ることは、「自分で輝こうとする」ことをやめ、光であ るイエスに照らされて輝くことなのです。言いかえれば、いったん私たちが2700年前のガリラヤの人たちと同様、「闇の中を歩む民」になることが、「大いなる光」を見るために必要であるということなのだと思います。

私たちが「大いなる光」であるイエスによって照らされるままに、神への道を歩んでいくことが出来ますように、このミサの中で御一緒に祈りましょう。

日, 01/27/2008 - 00:00

創世記からヨハネの黙示録まで、聖書すべてに光と闇のテーマが貫かれています。闇は絶望、苦しみ、病、人としての弱さなどをあらわしています。神からもたらされる光は希望、喜び、励まし、慰み、癒しなどを意味しています。
私たち一人一人、自分に問いかけてみましょう。自分が苦しんでいた時(闇にあったとき)、私は自分自身で光を作ろうとしたでしょうか、それとも物資的なモノを使って作ったのでしょうか。自分自身の力だけで光を作ろうとしたでしょうか? また物質的な道具を使って苦しみを忘れようとしたり、圧殺しようとしたでしょうか? これらのやりかたは、すべてうまくいきません。
神は光です。イエスは世の光です。もしあなたが闇にいるのであれば、つぎのようなステップを踏むことをお勧めします。
1)自分が今、闇にいることを素直に認めましょう。
2)そして、自分ではどうしようもない状態にあることも認めましょう。自分自身で光を作り出すことはできないと認めるのです。
3)祈りの中で、神と向き合い、光と温かさを求めましょう。神はあなたを愛してくださるのでよろこんで光を与えてくれるでしょう。
4)感謝の祈りの中で、神から与えられた光を他の人にも分け与えましょう。
イエスは人間であることを経験した、私たちの神です。ですからイエスは人間の闇を経験しており、それがどんなにつらいものかご存じです。私たちは、安心して、イエスに頼ることができます。
「神は私の光、私の助け。 私は誰を恐れましょう。神を信じ、固く捧げ、神への希望に心を捧げよう。」(詩篇27章)

日, 01/20/2008 - 00:00

今日朗読されたイザヤ書の中の一節を、私は特に強調したいと思います。それはイザヤ49章5節、「私の神は私の力」です。
まず、最初の言葉「私の神」についてです。神とは誰、神とはどんなものでしょう。
神は優しく、思いやりがあり、愛情深い父親(アッバ)です。
神は私を、神が特別に愛する子供として、面倒をみてくれます。
そう、私たち一人ひとり皆わけへだてなく、このように言うことができるのです。この真実が私たちを自由にしてくれるのです。
神は私たちの私たちのすべての欠点を知っており、そのうえで私たちを愛してくださいます。
神は私たちを、私たちの弱さにもかかわらず愛してくださるのではなく、私たちが弱いからこそ愛してくださるのです。
神の愛は無条件のものです。
では次の言葉、「私の力」を見てみましょう。実際のところ、私たちに力を与えてくれるのは神なのです。この力を受け取るために私たちは
まず最初に私たちの弱さを認めなければなりません。私たちは私たち自身の力だけでは人生の道を歩んでいくことはできないのです。
さあ、謙虚に私たちは神の力が必要だと認めましょう。もしそうしなければ、わたしたちのつまらないプライドによって神の力が私たちに届かなくなってしまうのです。
神は喜んで私たちに力をお与えになります。神の力は私たちに勇気と忍耐力を与えてくださいます。
この「私の神は私の力」という言葉は、旧約、新約の両聖書にしばしば現れます。旧約聖書にでてくる人物達はみな自分たちが弱く、神が望むとおりに行動できないと言って
います。アブラハム、モーゼ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、みなそうでした。
新約聖書では、イエスはこう言っています。「わたしはあなたと共にいる。」これは、イエスは私たちのそばにおり、私たちが人生を歩むのに力を与えてくださる、というこ
とです。イエスは「私から離れたら、あなたは何もできません。」とも言っています。イエスは聖パウロとそして私たち一人ひとりに、「あなたが弱っているとき、私はあな
たの力となる。」(第2コリント12章)と言っています。
今週、この言葉を何度も思い出し、よく考えてみましょう。
私の神は私の力。

日, 01/13/2008 - 00:00
すべての聖書朗読のなかで私たちにとって最も慰め深い部分は、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」でしょう。この言葉は私たちひとりひとりにとって、とても深い意味を持っています。その意味とは何でしょうか。
そこで、たとえ話のように聞こえる、実際の出来事をお話しましょう。
今のハンセン氏病、当時らい病と呼ばれ恐れられた病は1853年にハワイにやってきました。ハワイの施政者達は罹患者達すべてをモロカイという離れ島に隔離しました。家族から切り離され、罹患者達は終身流刑になったのです。病気からくる苦しみ以上に、社会から隔離されてしまったという心の傷の痛みのほうが大きなものでした。隔離され、孤独に苦しみ、人々から恐れられ、モロカイ島に隔離された人々の人生は惨めなものでした。
こうした中、ダミアンという神父が1873年に政府と教会にかけあい、隔離者たちの司牧者としてモロカイ島に行くことになりました。罹患者たちのいくばくかは神父を受け入れましたが、他の者は受け入れませんでした。ダミアン神父は罹患者のために献身的な努力を続けますが、10年後自分自身もハンセン氏病に罹患してしまいます。その時になって初めて、全罹患者達は「ダミアン神父は私たちと一緒だ」「ダミアン神父は私たちの苦しみを真に理解してくれる兄弟だ」と言い始めたのです。
神の子であるイエスは神である栄光をわきに置き、人間の体と心と魂を持たれました。このイエスは洗者ヨハネから洗礼を受けるべく会いに行きます。イエスの神性を悟ったヨハネが驚いて「いえ、私が授ける洗礼は原罪を持つ者のためのものです。あなたには原罪はありません」と言いました。しかしイエスは洗礼を望んだのです。確かに神であるイエスには原罪は無いのですが、イエスは私たち罪深い人間と同じ側に立つことを望まれたのです。イエスは私たちの仲間なのです。イエスは人間としての限界、弱さを、100%人間として(それでもなお100%神でもあるのですが)経験されたのです。彼は人間としての苦しみを経験したので、はかない私たち人間の心の苦しみを完全に理解しているのです。イエスは私たちの友人、兄弟なのです。
イエスは今日も聖書朗読を通して、生きている声で語りかけます。
「恐れるな。私はあなたと共にいる。わたしはあなたを友人と呼ぶ。」
この呼びかけに応え、友人であるイエスに語りかけましょう。


日, 12/23/2007 - 00:00
クリスマスの本当の意味を考えてみましょう。
神は天の栄光をわきに置き、私たちとまったく同じ人間となられました。このことで、神は私たちと共にいるということを、完全な形でお示しになったのです。
神はヨゼフとマリアに、この子供の名前は「イエス」であると告げられました。この「イエス」という名前は、クリスマスの意味となぜ神が人間となったかの理由を教えてくれます。「イエス」という名前は、「神は助ける」という意味です。
さて、自分自身を振り返り、私たちはどんな救いを必要としているか、自問してみましょう。
心の隅に暗い部分がありますか?あるのであれば、救いが必要です。
何か恐れがありますか? 病がありますか? 許すことができない人がいますか?
弱さや、ぬけられない悪い癖がありますか? 虚弱な部分がありますか? もしあれば、救いを必要としています。
もしそうであれば、救い主であるイエス、人間を救うために地上に来られたイエスを必要としています。「私のもとに来なさい」とイエスは言っているのです。
預言者によってあたえられた別名は「インマヌエル」、「神は私たちと共にいる」という意味です。神が人間となられた2000年前の時から、神はととても特別な形で私たちと共にいます。神は人間の弱さをご自身で経験されたのです。神は私たちとともに私たちの人生を共に歩んでくださいます。人間の弱さを理解してくださいます。日常の仕事の際にも共にいてくださいます。私たちが孤独に沈む時、苦しみや恐れ・不安にさいなまされている時にも共にいてくださいます。神は生きている声で私たちにこう言ってくださるのです。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」
神であるイエスは私たちと同じ人間であることを経験しましたので、イエスは私たちにとって、祈りのなかでとても近づき易い方なのです。
クリスマスのメッセージはここにあります。
イエスは私たちを救ってくださいます。(自分が必要としている救いをならべてみましょう。)
イエスは私たちとともにいてくださり、人生の旅路をともに歩んでくださいます。
Jesus is with us, beside us, walking life’s journey with us.
He says:”Fear not I am with you” (Ponder this).

日, 12/09/2007 - 00:00
あなたは苦しみの淵に沈んでしまったことがありますか?人から抑圧されたり、いじめられたことは?見捨てられて一人ぼっちになってしまったこと、裏切られたこと、そして何もかも望みがなくなったように思えたことはありませんか?

もしそのような気持ちになったときには今日の聖書朗読にある、ローマ人への手紙とイザヤの預言を読んでみてください。たとえ過去の話であっても、聖書で語られる時には、私たちに慰めと励まし、そして希望を与えるのだ、と聖パウロはローマ人への手紙の中で言っています。事柄は過去のことでも、神は今日も同じように私たちに対してふるまっているのです。そういう意味で、聖書は「永遠の現在形」で書かれているのです。イザヤの預言をみてみましょう。イザヤ書の7〜12章まではイマニュエルの書とよばれています。イマニュエルはヘブライ語で「神は私たちと共にいる」という意味です。イザヤの時代、人々は苦しみに沈んでいました。シリア軍に抑圧され、同盟軍もなく、見捨てられたと感じていました。そして、彼らの神さえも、見捨ててしまったと思えたのです。なにもかも駄目なようでした。そのような時、イザヤは詩的なイメージを用いて、当時の民衆(そして現在の私たち)に対して、語りかけています。神を信じよ、神は私たちと共にいる(イマニュエル)、と。神は不可能に思えることすら行うことができます。天敵である狼と羊、獅子と牛が仲良く草を食むなどは不可能です。これは不可能なことを詩的に表現したもので、詩を読むのと同じように字句通りとるべきではなく、私たちはこの裏のメッセージを知らなくてはなりません。その意味は、神は私たちとともにいる、ということです。そして聖パウロは「私たちの傍らに神は立っておられるので、私たちは何を恐れる必要があるのでしょう」(ローマ8:31)と言っています。

私たちキリスト教徒は、人間となった神をイザヤの預言を究極的に実現したととらえています。とても深い意味で、イエスは私たち人間とともにいる神であるのです。なぜならば神ご自身が痛み、排斥されること、裏切られること、寂しさなど人間であることからくる苦しみをご経験されたからなのです。

この待降節に、聖書をひらき、キリストの受難の部分や、ルカによる福音書第15章(放蕩息子への父の愛)、あるいはヨハネによる福音書第15章(葡萄と枝、私はあなたを友と呼ぶ)、あるいはマタイによる福音書14章22節以降(ペテロの嘆き)などをよんでみてはいかがでしょうか。

希望を持ちましょう! 勇気を奮い立たせましょう!
あなたが今どのように感じていらっしゃっても、神はあなたと共にいるのです。



日, 12/02/2007 - 00:00
今日から私たちはイエスの誕生日を迎えるための心の準備期間に入ります。あなたは人生についてどのようなイメージを持っていますか?暗く、否定的で、悲観的ですか?それとも、暖かさと光にあふれた面白い旅でしょうか? 「暗い」と答えた方は、人生とは単なる四季のうつろい、仕事に明け暮れ、盆と正月だけに短い休みをとり、また仕事に戻るという無限の繰り返しだと言います。それでは味気も面白みもありません。喜びもとても少ないものでしょう。

イエスと聖書は私たちにとても異なったイメージを示してくださっています。今日のイザヤの予言の中に「主の山を登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」とあります。この言葉の意味は、私たちがありのままの姿で、山の頂上にいらっしゃる神と出会い、そして神の存在により、私たちは希望と平和の光を感じることができる、ということです。

そこで今週、私たちも祈りの中で、どこに光が必要なのか考えてみましょう。私たちの心の中で、神の光を必要としている「闇」とは何でしょうか?
イエスの光が必要としている闇は例えば、他人に対する怒り、不平不満、許しのに心の欠如、あるいは中毒になるまでやめられなくなっていること(テレビ、インターネット、お酒、薬物、あるいは携帯電話や買い物など)様々でしょう。
?
神の温かい助けの中で、祈りを通じてあなたの心の「闇」を理解できたならば、イエスが約束してくださった、暖かさと光を頼みましょう。この暖かさと光を待つ心こそが、私たちの教会がいう「待降節」が意味していることなのです。私たちは空虚な気持ちでただ待つのではありません。神は必ず道を示してくださるという確信を持って待つのです。

「主の山に登ろう。」 これは祈りを通して神に出会う道筋です。
「主はわたしたちに道を示してくださいます。」(これは私たちの確かな希望です。)
「主の光の中に歩みましょう。」